月のひと皿 ~運命を紡ぐキッチン~

まさか からだ

第1話 訪れ ~「月のキッチン」との出会い~

 カイは気まぐれな風のように、知らぬ山道を歩いていた。人生に疲れ切った彼には、特に目的地もなかった。ただ都会の喧騒から逃れたい一心で、偶然見つけたバスに乗り、山深いこの村へと流れ着いたのだった。


 「ここはどこだろう……」


 小さな村の入口に立つ木製の看板には、かすれた文字で「月影村」と書かれている。人里離れたこの場所は、ひっそりとした静けさに包まれ、空には朧げな月が顔を出していた。村の道を歩いても人影はなく、唯一聞こえるのは木々のざわめきと自身の足音だけだった。


 カイの心には、何も感じないという感覚が重くのしかかっていた。都会の忙しさに追われ、いつしか夢や目標を失った彼にとって、この静寂は安らぎというよりも、何かから取り残されている感覚を増幅させるものだった。


 そんな彼の目の前に、ひときわ異質な建物が現れた。それは、丸い屋根を持つ一軒の古い食堂だった。建物自体は年季が入っていたが、窓からもれる優しい光と、どこか懐かしい香りに誘われるように、カイは扉を押した。




 扉を開けた瞬間、カイの鼻腔をくすぐったのは、温かいスープのような香りだった。部屋の中は心地よい明かりに照らされ、木製のテーブルや椅子が整然と並んでいる。壁には古びた時計と月の満ち欠けを示すカレンダーが掛かっていた。そのシンプルさがどこか神聖さを感じさせる。


 「いらっしゃい。」


 柔らかな声がカイの耳に届く。振り向くと、カウンター越しに一人の女性が立っていた。彼女は白いエプロンをまとい、月の光をそのまま閉じ込めたかのような淡い光彩を放つ瞳でカイを見つめていた。


 「どうぞ、好きな席にお座りください。」


 カイは戸惑いつつも、窓際の席に腰を下ろした。何かを話そうとしたが、彼女の微笑みがそれを遮る。まるで彼の心を見透かしているかのような表情だった。


 「ここは……なんという店ですか?」


 「ここは『月のキッチン』。食事を通じて、心と体を癒す場所よ。」




 女性――ツキは、短い会話の後、何も問わずにキッチンへと消えていった。カイは不思議に思いつつも、静かに流れる時間に身を委ねる。店内の時計が規則正しく時を刻む音が心地よかった。


 しばらくすると、ツキが木製のトレーに一皿の料理を乗せて現れた。それはシンプルな野菜スープだったが、見るからに温かさと安らぎを感じさせる。


 「お腹を満たすためのものではなく、心を癒すためのスープよ。召し上がれ。」


 カイは黙ってスプーンを手に取り、一口含んだ。その瞬間、言葉にできない感覚が全身を駆け巡った。舌の上に広がる柔らかな味わいと、体の奥深くからじわりと溢れるような温かさ――都会で疲れ果てた心が、少しずつ溶かされていくようだった。


 「これ……すごく美味しいです。」


 短く絞り出したその言葉に、ツキは優しく微笑んだ。




 食べ終わったカイは、ふと店内のカレンダーに目をやった。月の満ち欠けが赤いペンで丁寧に記されていることに気づく。


 「月……ですか?」


 ツキは頷き、彼の視線を追うようにカレンダーを見た。


 「月のリズムは、私たちの体と心に大きな影響を与えるの。だから、このキッチンでは月の満ち欠けに合わせた料理を作っているの。」


 彼女の言葉には、不思議な説得力があった。都会の喧騒の中では到底信じられなかったような話も、この場所では真実のように思える。


 「月に合わせた料理……それが、こんなにも心に染みる理由なんですね。」


 「そうね。でも、あなたがここに来たのも、きっと月が導いてくれたのよ。」


 ツキの言葉に、カイは曖昧に微笑むしかなかった。偶然にしてはあまりにも不思議な巡り合わせだと感じていたが、それ以上の言葉が出てこなかった。




 「また、いらっしゃい。」


 店を出る際、ツキがそう言った。その言葉には、何か特別な響きがあった。


 月の光が静かに村を照らす中、カイは自分がどこへ向かっているのかもわからないまま歩き出した。しかし、彼の胸の中には、何か小さな希望の灯がともっていた。それは、確かに「月のキッチン」の一皿がもたらしたものだった。


 彼は知らない――これが、運命を紡ぐ物語の始まりであることを。

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