海に沈むジグラート28

七海ポルカ

第1話



「ジィナイースに会いたいなあ」



「大きな独り言ですか?」

 アデライードは美しく焼き上がったカヌレをテーブルに並べながら、笑った。

 側のソファに優雅に寝そべったラファエルも声を出して笑う。

「大きかった?」

「ええ。とても。ラファエル様はとても正直な方ですわね。わたくし、殿方というものはもっと難解なものだと思っていましたわ」

「俺が特別、正直なんだよ。基本男は難解だと思っていた方がいい。俺は君がどんな相手を好きになろうと反対はしないけど、正直な人を好きになるんだよ。アデライード。難解な人間は多いけど、本当に正直な、信頼出来る人間というのはとても少ないからね。出会えたら幸福だ。逃してはいけない」

「私、殿方のことはあまり分かりませんわ。もし正直な殿方がいらっしゃったら、ラファエル様がわたしに合図を送って下さいませ」

 焼き上がったカヌレのいい匂いに誘われて、ラファエルがゆっくり身を起こす。

「いいよ。じゃあ正直でいい男を見かけたら俺が大きく頭の上に腕で丸を作ってあげよう」

 アデライードが笑っている。

「ん~ いい匂い。いつもながら素晴らしい出来じゃないか。この表面に出る溝の美しさ。

君も芸術家だなあ。アデライード。素晴らしいよ」

 手放しで称賛され、アデライードは嬉しそうだった。

「こちらは珈琲を混ぜて作ってみました。こちらは紅茶です。炒った茶葉を混ぜました」

 黄色のカヌレに、

 珈琲色のカヌレ。

 紅茶の香りが芳しいカヌレ。

 ラファエルは見事な菓子を世に送り出す妹を、褒め称えた。

「君のお菓子のこの輝くような出来栄えを見れば、たった今泣き出した子供さえ驚いて泣き止むだろうね。国王でさえ泣いてる子供はどうにもできない。君は王より素晴らしい才能を持ってるよ」

「こんなに毎日お菓子を作っても、ラファエル様は全力で誉めて下さるから嬉しいですわ」

「当たり前じゃないか。素晴らしいものは毎日生まれたって素晴らしいことに変わりはない」

 一番興味を持った珈琲色のカヌレに手を伸ばし、お行儀悪く手掴みで食べても、その姿がラファエルは優雅だった。

「美味しい。さては珈琲を入れてるだけじゃなくて砂糖の量も減らしたね?」

「はい。こちらは砂糖でコーティングしようと思ったので生地の砂糖は控えました。苦味はどうでしょうか?」

「大丈夫。珈琲の味と香りが素直に出てるよ。とても美味しい」

 アデライードは一度キッチンに戻り、銀のトレーにたくさんの小皿を乗せて持って来た。

 途中、ラファエルが代わりに持って、テーブルに置いてやる。

 色とりどりの様々な素材が少しずつ、小皿に取り分けられていた。どうやらカヌレの仕上げに使うようだ。

 粉糖、くるみ、乾燥させた苺、オレンジ、葡萄、レモン、ブルーベリー、砕いたアーモンド、刻んだチョコレート、蜂蜜……そして色とりどりのジャム。

「さぁ、ここからがお楽しみです」

 アデライードが椅子に腰かけて、小さなカヌレ一つ一つに飾りを施している。

 彼女は修道経験もあり、あまり感情を大きく出さない落ち着いた令嬢なのだが、菓子を飾り付ける時だけは目が子供のように輝く。可愛く思って、ラファエルは笑いながら優しく、異母兄妹にあたる彼女の頭を撫でてやった。

「君に焼かれたお菓子は幸せだなあ。一つ一つまで愛情込めて飾ってもらえるんだもの」

「修道院ではあまり贅沢なことは出来ませんでしたから、ラファエル様の元に来て、こんなに豊かな素材を使わせていただけて、本当に幸せですわ」

「君の年頃の令嬢なんて、綺麗な髪飾りや指輪やネックレスを喜ぶものだよ。俺だってそのつもりで街に連れて行ったのに、君食料品店や香辛料店の前で目をキラキラさせるんだもの。くるみやドライフルーツをあげてそんなに喜んでくれるのは、リスかアデライードだけだね」

 アデライードは声を出して笑った。ラファエルはしばらく立ってそれを眺めていたが、テーブルの向かいの椅子にやがて座った。アデライードは小首を傾げる。

「そんなところでお菓子を眺めていてよろしいのですか?」

「よろしいのよ。俺今回のことで益々王妃様のお気に入りになっちゃったから何でももう許されちゃうの。もはや『ちょっと今日は頑張る気分じゃないなあ』とかいう言い訳まで出来る身分になっちゃったよ。痛快なのは『王妃様に呼ばれてるから』って言い訳がルゴー君にも使えるようになったことだねえ。これ言われたらこの国じゃ誰もなーんにも言えないんだもの。最高」

「あんまり苛めたら可哀想ですわよ、ラファエル様」

「ルゴー君は大丈夫だよ。あの子苛められるような子じゃないから。元気いっぱいだから。その黄色いの珈琲カヌレに乗せて。見た目がきっと美しくなる」

「レモンを砂糖漬けしたものを細かく刻んだものですわ」

 アデライードが言われた通り、細かい黄色の結晶を、珈琲カヌレに乗せてやった。ほんの少し、蜂蜜を垂らすと、キラキラした。

「最高」

 満足げにラファエルが微笑み、仕上がったカヌレを別のトレーに移す。

「ジィナイースにも見せてあげたいなあ。こんな美しいもの、絶対喜ぶよ」

「私もぜひ召し上がっていただきたいですわ」

「彼も、こういうのが好きだよ」

 ラファエルは頬杖をついた。

「色んな色が揃ってる状態が好きなんだ。食料品店とか香辛料店で目を輝かすのは君くらいってさっき言ったけど、ジィナイースも君と同じくらい目を輝かすよ。ローマの街に買い物に行った時も、あの人も装飾品よりそういう店に入りたがってた。画材を売ってる店なんか連れてくと、一日中でもいるんだ。ジィナイースも絵を描く時、君みたいにこうやって、全ての色を小皿に出してた。使わない色もあるのにどうして出すの? って聞いたことがある」

 アデライードは穏やかな声で尋ねた。

「なんて仰いましたの?」

「そこにあると綺麗だからって」

 答えを聞いて、彼女は微笑む。

「よく分かりますわ」

「そうなんだってね。使うもの、使わないものとかじゃないんだよ。ジィナイースにとって絵具や、顔料は、『道具』じゃないんだ。絵を仕上げるために必要な、理想的な環境を作り上げる、世界観そのものなんだよ。贅沢とかじゃない。この世界に色が溢れているように、色が溢れている世界がジィナイースの普通の世界なんだ。

 ……あの人に初めて会った時、俺の瞳の色を誉めてくれた。

 見たこともない、青い瞳だ美しいよって。あの人が色を大切にしない人だったら、絶対あんな風に思ってもらえなかったと思う……。だから俺は、ジィナイースが絵を描く人で……色を愛する人で、本当に良かったなって思ってるんだよ。

 だって俺は生まれてからずっとそこにいたのに、家族ともそこにいたのに、俺の目の色を誉めてくれる人なんて一人もいなかった。ジィナイースは綺麗なものをいつでも探してる。だから俺を見つけてくれたんだよ」

「……。ジィナイース様にお会い出来ない間、ラファエル様はお寂しかったでしょうね」

 ラファエルは顔を上げた。

 アデライードは、ラファエルの父親が地方へ視察に行った時、短い間に逗留した時に、ある屋敷で世話をしていた侍女の一人に手を付けて、出来た娘だ。一夜限りのことだったからと、子供など出来ないだろうと思っていたのだと思う。

 ラファエルの見る限り、父親は、ある程度そういった関係を複数回持った女性には、気は遣う方だった。勿論、そんなに眉を顰めるほど、愛人を方々に作っているわけではなかった。理性的に把握出来る程度だ。

 もっと手の付けられない恋愛をする貴族だっているだろう。それに比べればまだ、正妻である母は許せるほうだったと思う。しかし一夜だろうがなんだろうが、抱いたら子供が出来ることはあるのだ。

 アデライードの母親は、理性的な女性だった。

 身分違いだったし、屋敷の女主人を元々訪問したラファエルの父親が、自分に手を出したことを、公に言いふらすようなことはしなかった。子が出来たことが知られる前に故郷で結婚をするのだと仕事をやめ、秘密裏に出産し、娘は修道院に預け、数年後病気で亡くなったという。

 おかげでラファエルの父親は、アデライードの存在など、頭の片隅にもない。

 アデライードにラファエルはいくらでも詫びる気があったが、父を責める気は無かった。

 貴方にまだ娘がいますよ、と言った所で、大貴族の答えなど「そうか」程度だ。

 本当はアデライードは、ラファエルを憎んだっておかしくないほどだった。

 それでも一人の人間として、彼女は向き合ったラファエルの孤独に、心を寄せてくれている。優しい娘だ。

 父や家族を小さい頃から持たなかったこの娘が、こんなに優しい心を持って自分の前に現われたことを、ラファエルは彼女自身と、神に感謝した。

 ジィナイース・テラもそうだ。

 祖父はいたし、一人というわけではないけど、両親はいなかった。そしてある時から祖父は亡くなり彼は一人になってしまったけど、幼いころに持っていた優しさや穏やかさは、今も全く失われていない。

 彼らの優しさや穏やかさは、誰でも持てるものではない、輝く才能の一つだ。

「アデライード」

 ラファエルは妹の手に、手を重ねた。

「ありがとう。君は、自分の生まれた意味を、能天気に喜べることばかりじゃなかったと思うけど。俺は今、こんなに心優しい妹がいてくれることを、とても幸せに思ってるよ」

 アデライードは紫がかった瞳でラファエルを見たが、数秒後、微笑んで頷いた。

「はい」

「こんなに菓子作りが上手いしね」

 片目を閉じてそんな風に言ったラファエルに、アデライードはもう一度声を出して笑う。

 ラファエルは立ち上がった。

「――さてお嬢さん。こちらの美しいカヌレを少し頂いてもいいかな? 魔法のカヌレのおかげで勤勉な心が少しだけ戻って来た。城に行って来るよ。僕の使命はラファエルさんの祖国を吹っ飛ばすなんて、そんな無体なこと絶対出来ませんわとあの王妃様に思わせることだからね。好きになってもらったくらいじゃあだめなんだよ。

 スペイン、神聖ローマ帝国の総司令官も王妃には会っても王には会ってない。

 このままじゃ王様に挨拶してないのに王妃様と仲良くなりすぎて間男だと思われちゃうからね」

 カヌレを綺麗な陶器に少し並べて、アデライードが布で包んでくれる。

「ワインもお持ちしますか?」

「ううん。これだけでいいよ。これは僕が食べるんじゃなくて可愛らしい城の侍女たちにプレゼントしてあげるんだ。アデライードの素晴らしい芸術を僕だけしか知らないのはいかにも悲しいことだからね。素晴らしい芸術はたくさんの人と感動を分かち合わなければ」

「まあ。お城の方なんて侍女まで舌が肥えてますわ。私の手遊びなどで大丈夫でしょうか?」

 今まであまり貴族社会に関わって来なかったアデライードは心配したが、ラファエルは妹の身体を兄として優しく抱き寄せる。

「アデライード。僕は剣は全く使えないけど、芸術を見る目はあるし料理の価値も分かる。

その僕が君の料理の腕前を褒め称えているんだから、君は女王のような気持ちで作りたいものを作っていればいいんだよ。それだけで何の心配もないのさ」

 ラファエルがそう言い切ると、アデライードは安心したようだった。

「ジィナイース様にも、食べていただきたかったです。この前いらして下さったとき、私の料理を喜んで下さったので」

「ジィナイースも非常に舌が肥えた人だよ。祖父が交易商で幼いころ彼も一緒に旅をしてた時期がある。他の大陸にも行ったことがあるんだから。色んな食材を知っているし、あの人は一つの物事に対して、例え芸術以外だとしても鋭い感性を発揮する人だからね。

 ……そうだな……。ジィナイースは今、神聖ローマ帝国駐屯地にいる可能性もある。さすがにそこを訪ねて行くことは避けた方がいいけど、ジィナイースのいるミラーコリ教会なら大衆に解放された場所だし、誰が訪ねても目立たない。あの人のアトリエもあるから、絵を見て来るといいよ。君はまだあの人の絵を見たことがないだろ? 君とジィナイースは素晴らしい芸術家同士だ。僕たち以上に分かり合えるよ。あの人が留守なら、出入りする子供たちにお菓子をやるといい。ジィナイースは彼らを可愛がっているから、彼らへの贈り物は喜んでくれるはず」

 アデライードは自分が作ったお菓子の行く末が決まって嬉しそうな顔をした。

「訪ねてみます」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る