朝の魔法使い2
ヤマメさくら
第1話
1
「では、私はこれで」
数分前に初めて会った男が、立ち上がった。
俺は、去って行くその背中を、ベンチに座ったまま見送った。
変なやつだった。魔法がどうのと、よく分からないことを言っていた。何かの宗教かな、と思ったが、勧誘することなく離れて行ったということは、本当にただの変なやつだったのだろう。いや、もし俺が、あいつを追いかけ、もっと話を聞かせてくれと言ったら、そこからが勧誘の始まりで、何やら意味不明な物を売りつけられることになるのかも。
(ってことは、俺は、こいつ追いすがって来そうだなってことで、声をかけられたのか?)
そんなに心が弱っているように見えたのか?
そんなにカモに見えたのか?
「……情けねえ」
俺はため息をついた。「まあ、そう見えるよな……」
心が弱っているのは本当だ。
今日の俺は出社拒否。公園のベンチに座っている。
昨日、俺は仕事で大きな失敗をしたのだ。取引先に謝りに行った。部長と一緒に。地面につくんじゃないかってぐらい頭を下げて、ものすごく反省した。
なのに、会社に戻ったら、えらい剣幕で部長に怒られた。しかも、みんなの前で。
これまでの人生で、俺はあんなふうに人に怒られたことがなかった。あんなに恥ずかしい目に遭ったことはなかった。
何がいけなかったのか。自分の席に座るとき、隣のやつと目が合って、ちょっと笑ったのが部長の気に障ったのだろうか――ほっとして気が抜けただけじゃないか、あんなに怒らなくてもいいだろ。
会社へ行く途中の公園のベンチに座ったのは二時間ほど前。立てなくなった。代わりに、自己分析をした。
俺は、正直、仕事ができる。それゆえ部長には気に入られていると思っていたから、余計に落ち込むのだろうか(部長が俺の父親に似ていて、以前からいくらかの親しみを持っていたことも、落ち込みに拍車をかけているような……)。いつもかなり自信満々だった俺を、あーあ、やらかしちゃったね、と周囲がくすくす笑っている気がするから、つらすぎるのか。まあ、とにかく、
――行きたくねえ。
両手で頭を抱えそうになったとき、見知らぬ男が俺の隣に座り、話しかけて来たのだった。
「ちょっと、あなた。あなたには、魔法使いの素質がありますよ」
とはいえ、俺に男の話をまともに聞く心の余裕などなかった。受け答えをせず男の声を耳に入れるだけ、ぼんやりと青い空を眺めたりもした。男はそんな態度をされても一向に構わなかったようで、一人でしゃべっていた。
「魔法か」
男が去って十五分、俺は空を見上げた。確か、魔法使いだと太陽に宣言すれば魔法が使えるようになる、とか言っていたな。で、どんな魔法が使えるか試して見つける……。
よし。
いつまでも、ここにいる訳にはいかないし。
「頼む」
俺は両手を合わせて太陽を拝み、
「俺は魔法使いだ。昨日の失敗が、なかったことになる魔法!」
極力小声で言った。
2
自分の部署に行く途中の休憩スペースの自販機の前に、コーヒーのペットボトルを手にした部長がいた。
「おは、ようございます。横井部長」
俺は慌てて言った。部長が休憩スペースにいると思っていなかったし、遅刻するという連絡を入れていなかったことに、今さらではあるが気づいたからだ。
「やあ、おはよう」
部長がほほ笑む。
(あれ?)
まるで、昨日あんなに怒ったことを忘れたかのように、優しげだ。
(え? まさか、魔法)
が発動されて俺の失敗という事実が本当にこの世から消え失せたのか、と思う前に、部長が言った。
「昨日は、すまなかったね」
「え?」
「きつく言い過ぎてしまった」
「い、いえ、そんな、私が悪いんですし」
「体調は、大丈夫?」
心配そうに、部長は言った。
「は、はい。寝過ごしました。すみません、連絡を入れなくて」
「寝坊しただけ?」
「は、はい」
「そうか、それなら、大丈夫だね?」
慎重に確認するように、部長は言う。
「はい」
俺が大きく頷くと、部長はうれしそうにほほ笑んで、自販機の方を向いた。
「君は○○のコーヒーでいいね? ミルクは? 砂糖は?」
「あ、無糖のミルク入りです」
部長はコーヒーを一本買った。そして、それを俺に差し出した。
「はい、百円ね」
「はい」
俺は、バッグから百円を出して部長に渡し、コーヒー一本を受け取った。
3
「部長、先輩が来ないから、すげえ慌てた感じで。何回も席立って、どこ行ってんのかなあ、って思ってたんですけど」
昼休み、社員食堂で一緒に食事を取っていた後輩の高橋が、そう教えてくれた。
「そっか。わざわざ休憩スペースまで来て、俺が来るのを待っていてくれたんだな」
「そんな心配するぐらいなら、あんな怒らなくてもいいのに、ですよね」
「まあ、俺が悪いんだし」
「それは、そう、ですね」
とんかつをほおばりながら、高橋は俺を落ち込ませる発言をした。
だが、部長のおかげか、落ち込み度は低い。よし、いつか挽回するぞ、という気持ちの方が強い。
(あのままあそこに座ってなくてよかった。しかし、あの魔法男、ありゃ、きっと詐欺師だな。魔法なんてなかった)
救われはしたけど、と思わず口元に微笑を浮かべそうになったとき、とんかつを飲み込んだ高橋が口を開いた。
「にしても、部長、昨日と今日で真逆ですよねえ」
4
何か、引っかかった。
昨日と今日?
真逆?
真逆。
(それだ)
何やら、確信した。どうやら俺は、状況が真逆になる魔法を手に入れたらしい。
昼食後、高橋と別れて廊下を歩きながら、
(何か試してみるか?)
と考えたが、変えたい状況は特に思いつかなくて、そのとき、
「おはよう、元気?」
ぽん、と後ろから肩を叩かれた。
「館野さん」
立ち止まって振り向くと、同期の女性館野さんが、にこにこと笑っていた。
「おはよう、じゃなくて、おそよう、だね。聞いたよ、大遅刻」
「ははは。ちょっと寝坊してさ」
「そっか。大丈夫?」
「うん」
俺は頷きながら、ああこれは知っているな、と思った。館野さんは俺の失敗を知っている。そして心配をしてくれているのだ。笑顔にも、その気配がある。
俺は、とてもうれしくなった。なぜなら、俺は、この、優しく、いつも仕事に真面目に取り組み、人を思いやることのできる館野さんを、以前から好ましく思っていたのだ。
「館野さん、よかったら一緒に食事に行かない?」
何かを考える前に、俺の口は勝手に動いた。
「え?」
驚いたように目を見開く館野さん。でも、自信過剰と言われるかもしれないけれど、嫌そうではないぞ。
「何て言うか、景気づけに。人生の。もう、かなり元気なんだけど」
自分の言葉に、俺は焦った。人生の景気づけって、なんだ? 言葉選び、へたすぎだろ。
だが、
「いいよ、景気づけしよ」
館野さんは、ロマンチックさの皆無を残念がる様子もなく、楽しそうに笑って承諾してくれた。
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