第22話 それは海の水を飲み込んだ
「橋がかかっている」
戦場を見渡したナギは、モーセを探した。僕も同じようにして探していた。そして見つけたのは、海の上を歩いて逃げる人々だ。
思わず息を呑む光景がそこにはあった。
「うん、見えてる。たぶんモーセさんはあそこを渡っていったんだと思う。リッリさんが用意したのは船じゃなくて、これだったんだ。ワニだ。ワニを並べて橋にしたんだ」
「だったら俺たちは、敵にあの橋を渡らせなければいいってことか?」
「そうだよ。僕たちはまだ勝てるかも」
僕は呼吸を整えた。
バズミットに先を越された時はどうしようかと思ったものだ。ミツライム軍の行進を止めることは僕たちにはできない。それはどんなに罠を仕掛けても無理だったし、急造のバリケードなど維持できるはずもなかった。
だけど、
「狭い橋を一箇所止めておくことならできるかも。あの橋だよ。どうにかして、あそこでミツライム軍をくい止めることができれば」
僕にはそれくらいならできると思った。
逆に言えば、それはバズミットやベヒモスも考えること。
すでにミツライム軍は橋に向かって前進し、ミツマの戦士たちをはね除けていた。
ベヒモスが突き進む先は浮き橋だった。これを渡らなければ、逃げた民を追うことはできない。ベヒモスの乗るチャリオッツは水辺にあって、その重さで車輪が沈んで動かないが、彼の歩みをとめるものは他には何もない。ベヒモスがチャリオッツを蹴り壊して、その足で一歩足を踏み出せば、人だかりが潰れ、二歩目で彼の前に立つ者の盾も鎧も粉砕する。人間がどうして動く島そのものを止められるだろうか。
どうすればいい?
僕の顔は不安で歪んだだろうか。
「俺がいく」
ナギ一人なら海の際を走って、浮き橋に飛び乗ることもできるだろう。
「僕は?」
「ヘルメスは、残っている戦士を集めてここを離れろ。もう、あいつは止められない。橋を渡るのはここまでだ」
「どうするの?」
「この橋の上で終わらせる。ある程度行ったところで橋を落として、あいつを海に落とす」
「じゃあ、僕たちは? 反対側に逃げるしかないってこと?」
わかったと言いたいけれど、僕は呼吸が止まりそうになる。
だって、それは僕が橋を渡れないってことだから——。
橋の先にモーセがいて、ミツマの民はその先を目指していた。そこに新しい未来があると誰もが信じていたし、僕たちはミツマの人々をそこに案内していたはずだった。
だけど、僕はもうそこへは行けないかもしれない。
それが現実だということを僕は知った。
それでも、僕はまだ諦めきれなかった。橋を渡れない人々にどんな現実が待ち受けているのか。その先のことを戦わずして納得できるわけがない。
バズミットは今も無表情に僕たちを見下していた。ミツマの戦士たちが何人並んでも、もともと奴隷として暮らしていた男たちには戦士としての筋肉がない。だから、バズミットの目に映る僕たちはただの肉の壁のようなものかもしれなかった。
僕はバズミットを見返した。
僕が殺されなかったのは、
一瞬、バズミットが戸惑ったからだ。
と言うのも白いローブを翻したナギが敵陣に切り込んだからだ。ナギは鉄の剣を敵の槍に当てて、身体を上から回してミツライム軍の中に飛び込んだ。そのまま剣を振り抜いて、大きく軍隊を切り開いていた。ナギだけが通れる道。そこを剣士が素早く駆け抜ければ、その技には、どんな男も感嘆の吐息を漏らすだけ。
さらに白いローブが跳ね上がれば、それは空に舞いあがって、上空ではためいた。
ローブは風に流されて、白い雲のようになって海へと流れていく。兵士たちも風に舞う布なんて捕まえることができない。
これがベヒモスの前に落ちたのは、偶然ではない。
ベヒモスはこれをただの布切れだと思っただろうか。白い布が人の形となって立ち上がれば、初めてベヒモスはそこに剣士を見ることになる。
ナギが問いかければ、
ベヒモスやバズミットは魔法を見るような顔をするだけだった。彼らは剣士の声を聞いただろう。
「なんで追いかけてくる? 俺たちはミツライムの人たちとは戦わない。それを約束して逃げているんだぞ。俺はそうファラオと約束したぞ」
帰れと警告する声が響いた。
「ふざけるな、奴隷風情が」
ベヒモスは奮い立った。「ファラオと約束などとおこがましい。貴様らはファラオを欺していたにすぎない。所詮は奴隷、奴隷はファラオの言いつけを守れ、ファラオに物申すなどあってはならぬこと。それだけで万死に値する行為だと知れ」
ベヒモスの怒りはこれだけに留まらない。
「ファラオってのは約束すら守れないのか?」
ナギに言われて、
ベヒモスは唸り声をあげた。
地響きだっただろうか。
立っていられないほどに大地が揺れに揺れる。もはや、僕にはベヒモスという存在が人間なのか鉄の塊なのかわからなかった。神なのか悪魔なのかさえわからない。
「ファラオは誰にも縛られぬ、それがファラオだ。約束とはファラオが奴隷を縛るためのもの。奴隷が守るべきルール。そこを間違えるな。ファラオは常に自由、お前らを殺すと言えば、殺すだけ。貴様らは素直に従っていれば良かった」
王や選ばれた民にとって、奴隷との約束は守るべきものではない。王と奴隷はそもそも平等ではないのだから。と、僕には彼らがそう言っているようにしか聞こえなかった。
ただそうなると、哀しい顔をするのは白い剣士だ。
「イザリースが仲裁して結んだヒルデダイトとの平和条約も、あれも嘘だったか?」
「いつまでもイザリースが上だと思うなよ」
ファラオがなぜ奴隷との約束を守らなければならないのか、と問われれば僕にはわからない。国との約束であっても、該当する国を奴隷という位置づけにすればこれと同じだ。
「この先に行ってもお互いに利益などないぞ。帰れ」
仕方なくナギは言葉を替えてみただろうが、
「利益のためにミツライムが動くと思うか、神々の意志だと知れ」
ベヒモスは浮き橋に乗り上げてきた。「奴隷どもを追いかけて殺すと言ったはずだ」その怒りは収まらない。
「誰も争いなんか望んじゃいない」
「奴らは裏切りの民、生かしておく価値なし。裏切った事実さえあってはならぬ」
「お前が追いかけているのは女子供だぞ?」
「言ったはずだ。赤子と言えどもその存在などあってはならない。そのようなものは最初からいなかった。それが歴史になるだけだ。それに、貴様らがファラオの子を殺しておいてその口で何を言うか」
ベヒモスは動いた。
ナギはローブを広げていた。少し身体を大きく見せたところでどうにかなる体格差ではないが、ベヒモスを止められなければならない。止まらなければ、それはシナイ山まで人間を踏みつぶしていくことだろう。
「ファラオの子のことは俺たちは知らないぞ」
ナギは言った。
僕たちがその事実を知ったのはこの時が最初だった。
「ファラオを欺したのは貴様らだ。海の向こうに渡っていい気になるなよ。海の水を飲み干してでも俺は貴様らを追いかける」
ベヒモスが前にでれば、
ナギは下がった。「違う」と言ったところで押し問答になるだけ。こんな橋の上で、ベヒモスの認識が間違いだと証明できるはずもない。
ベヒモスが大きく踏み込めば、浮き橋もまた大きく傾いた。怪物は足場を確かめているだけかもしれないが、その揺れは浮き橋だけなく海をも大きく傾かせる。
いや世界が傾いた。
右に続いて、ベヒモスが左足を踏み込めば、次は左に傾いていく。
思わずナギが飛び退いて、そのまましゃがみ込むほどの揺れだった。世界そのものが揺れるのだから、僕には恐怖しかない。
そんなやりとりがあって、
しばらくバズミットはチャリオッツの上で状況を確認していたのだろう。
剣士ひとりがベヒモスの前に立ったからと言って、何が変わるだろうか。そう思えばこそ、バズミットもまたこの時、動き出していた。
「愚民どもが」
バズミットはムチを構えて、僕を睨んだ。
護衛剣士のいない僕など、彼の前では肉塊同然だろう。
僕は剣を構えたけれど、それでどのくらい抵抗できただろうか。
そんな中、
「ヘルメス、上」
ミツハちゃんの声がした。
咄嗟に僕は上に身構えた。チャリオッツやベヒモスの背中ばかり見ていて、何が起きているのかを全く把握できなかったけれど、その声は嬉しかった。上から攻撃が来ると分かってしまえば盾で防ぐことができる。弓矢には特に注意が必要だった。
ううん、嬉しかったのは、単純にミツハちゃんが僕を頼ってくれたからからもしれない。友達なら当たり前にできること——。
だけど、
「あれ? 何もない」
僕は空を見た。
何もないと思った時だった。ミツハちゃんがふいに背中から僕の肩に体重をかけてくる。彼女が僕を踏み台にして空に駆け上がろうとしていた。つまり、僕は思わず膝から崩れ落ちて——。
いや、瞬時に僕は身体を強ばらせて耐えた。
彼女が僕の名前を呼んだのは、踏み台にしたいからだ。
天使が空を飛ぶためには足場が必要だった。そして信頼できる足場を彼女は僕に託したのだと思う。だったら僕がやるべきことは、殺戮の天使を空に打ち上げる土台になること——。
だから僕はここで歯を食いしばった。
腰を沈めて踏ん張った。
僕はミツハに踏まれた肩を持ち上げて、上空へと押し出す。
「いって——」
行けと言ってそのまま地面に転がった僕は、咄嗟に起き上がった。上空に昇った殺戮の天使に僕は運命の全てを託したのだから。
見えたのは、空を飛ぶ黒い鳥の影。
黒い鳥は僕を蹴り倒すようにして上空を越えて、「バズミット」の頭上を獲った。
いきなりのことで、バズミットはムチを振り上げることも忘れていたはずだ。ミツライム戦士たちの槍を飛び越えて、黒い影が飛んでくれば、そこはチャリオッツの上だ。この場合、バズミットがこれを躱すのには都合が悪かった。
「あ?」
バズミットは言葉を発するより早く、いきなり飛んできた黒い影から逃げるように体をねじった。奴隷相手に盾を構えるような場面ではない。何かが投げ込まれたのであればよけるしかなかった。
揺れるチャリオッツの上で勢いがつきすぎてしまって、今度は慌ててふんばろうとするが、その足で戦車の車輪が大きく傾くことになる。
「これはいかん。バランスを崩している」
バズミットが咄嗟に体を丸めたところ、今度は傾いた反動で勝手に体が空中に持ち上がり跳ね上げられていた。
戦車から落ちる——。
かなり格好悪い落ち方になるだろう。
何かを避けようとして体をひねった瞬間に自分から飛び出したのだから、傍目には滑稽に見えただろう。
このまま尻餅をついて赤子のように地面に転がれば、奴隷たちはどんなふうにバズミットを見るだろうか。
奴隷どもを処刑してきた偉大な男。それが奴隷の前で踊らされるような姿をする。バズミットはこれを屈辱だと感じただろう。
だが事故というものは、どこにでもあるもので、
こうなってしまったものはしょうがない。
バズミットは跳ね上げられたところで考えた。
事故だ。
これは事故。
開き直って目を空に向ければ、
いや、事故ならばなぜだと考える。
空を飛んだ自分のさらに上に黒いコートの女子の背中がある。これはチャリオッツから落ちる無様な男が見る夢ではない。隣にあるのは、手を翼のように広げて滑空する少女の、それは鳥のように静かで優雅なたたずまいだった。
つまり、バズミットも空を飛んでいた。
チャリオッツに飛び込んできた黒い影は、そもそも鳥だっただろうか。
ハヤブサか?
だが羽ばたきもなければ音もない。これは獰猛な空のハンターが一瞬だけ気配を消して獲物を狙う静寂に他ならない。
天敵に狙われたことを知った動物なら直後に硬直するだろう。
バズミットは自分が鳥肌を立てて怯えたとは思わない。
ただ頭の中が真っ白なだけ。
飛んでいるのか、落ちているのか。
縦なのか横なのか。地平がどこなのかさえ——、
彼にはわからない。
ミツハは全ては落ちているのだと教えた。放物線を描き、自由に回転する肢体はまさに永遠に落ちていく月も同じだ。飛んだとしても、風に乗ったとしても、それは落ちるべきところに落ちる定め。
その洗練された技。
バズミットがこれを理解した時、
首が高速で回転していた。
ミツハがバズミットの首に剣を回しているのはわかったが、彼は何をされているのかまではわからないに違いない。その早業、感じたのは風だけ。
鳥の羽ばたきのような風が吹いた瞬間、バズミットはまるで自分も鳥になったかのような気分だっただろう。すでに人間として生きていられない状態だったのなら、彼は自分を何だと考えれば良かったか。
男の肉体が地面へと落ちたとき、
ミツライムの兵士たちがざわめいた。
バズミットは非業な死を遂げた。地面と激突して首をねじ曲げて腕を粉砕させていた。ある者には、勝手に空を飛んで死んだようにも見えたし、ミツハによって馬車ごと一撃のもとに破壊されたようにも見えただろう。
一瞬のことだった。
全てが終わったあとで、黒い少女の影が死体から剣を引き上げながら立ち上がれば、次は誰が殺される番かという話になる。それは少女の形をした天使だった。黒いコートがミツライムのエージェントだと多くの人間は知っているはずだった。
それがファラオの認める手練れだということも——。
「私はナギを追いかける。ヘルメス、あんた反対側に逃げてなさいよ」
言って、ミツハちゃんはミツライム兵士の背中を駆け上がって走った。走って跳躍し、槍の壁を簡単に越えていってしまう。
つまり、ナギとミツハちゃんが橋の先へ行ってしまって、
見送る僕は呆然とするしかなかった。
「でも」
と僕は思う。
僕の前でチャリオッツが横転し、他の戦車の足をも止めてしまっていた。ここまではいい。バズミットが戦死したことで、僕たちは少しは戦いやすくなっただろうか。
ううん、相手が混乱している間に、逃げればいい。
そう思えた。
「に、逃げよう」
僕は叫んでいた。
ベヒモスが声を張り上げれば、また世界が壊れていく。
大地が震えて、僕は立っていられないほどの揺れをなんとか堪えた。地平の向こうで大地がズレるような音がして、世界の向こう側から響く音がある。
それこそがベヒモスの咆哮だっただろうか。
僕は兵士たちが狼狽えるのを見た。その上をキリンの影が覆っていた。シマウマが兵士の間を走っていた。海から這い上がるのは、カバか、クジラか。ウサギも鹿も暴れるだけ暴れて、影は全ての動物を呑み込んで一つになった。
ひとつになった足は、全ての動物の力で大地を割る。ベヒモスの足元で水流が渦巻いた。ベヒモスが重さで沈み込めば、海水もまた沈み込んだ。
ベヒモスの影、黒い炎に包まれた姿は海には沈まなかった。つまり海水を飲み干して海面へと上がって来るものこそが、ベヒモスという怪物だった。
「これ、何? 海の水を飲み込んでる」
ベヒモスの鎧の端から黒い火が噴いていた。
つまりそれはもはや人間ではない。
人はこれを神を喰らう化け物だと言った。
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