第21話 海を渡る一筋の道
僕達が慌てて進路を変えてから数時間後。
太陽は地平線の下に隠れて、空は暗くなっていた。
休憩なしで歩き続けることなんて誰にもできないのだから、本来ならば誰もが移動をやめて休憩をする時分だろう。だけどこの夜ばかりは、僕たちに安息はなかった。
モーセたちからすれば、目指すシナイ山は海を越えた目と鼻の先。
バズミットからすれば、奴隷たちを捕まえる最後のチャンスがそこにある。
バズミットはチャリオッツの上で表情を消していた。奴隷を殺すとき、彼は表情というものを消す。表情とは心情を相手につたえる手段であって、それは人間が対話をするのに必要不可欠な要素だ。だから彼は処刑人として振る舞う時、奴隷の前では表情を見せない。
奴隷は人間ではないし、対話する相手でもない。
奴隷を支配するのに必要なものは、ムチだけ。奴隷の身体にムチ打てば、その痛みが奴隷への恐怖。あるいは命令となる。
バズミットはムチを手にする。
バズミットはこれを、
「奴隷への愛情」だと言った。
ただ今回の愛情は重い。
「俺を欺けるとでも思ったか。奴隷どもにはおしおきが必要だ。俺たちから逃げようなどと、一瞬でも考えたことを後悔させてやる。誰が奴らの支配者なのかを思い出させてやる。そうしないとあいつらが可哀相で仕方ない。俺たちなしで奴隷が生きていけるわけがないんだからな」
バズミットはチャリオッツを降りた。
「どれどれ、奴隷はこの先か?」
と岩山を登るのは、そこに奴隷がいると報告を受けたからだ。
岩山の隙間を抜けると、海からの風を感じた。砂浜の広がるところに、奴隷たちが大挙して押しかけているのを見ることができた。すでに夕闇は消え星空が出る時刻。奴隷たちはこんな時間にミツライム軍など来ないと思って安堵していることだろう。あちこちで煙があがり始めたのがその証拠だ。火を囲んで夜をしのごうとしている。
「俺の予想通りだ」
バズミットは勝利を確信した。「こんなところに隠れていやがった。別働隊など組織して、俺を違う場所につれていこうとしたのだろうが、俺の前では全て無駄。奴隷が俺を騙せると思うなよ。逃げる奴隷と俺を欺そうとする奴隷の顔つきくらいは見分けがつく」
部下の耳元でこれを囁くのは、部下も結局は奴隷のようなものだからだ。部下を脅迫するのは少しおかしいが、従順な部下を育てる彼なりの方法がそこにあった。少し意見を求めれば、部下はバズミットに頼られているとでも勘違いするだろう。
「さて、どうしてやろうか。奴隷どもは、一直線にミツライムを出る道を歩かずに、こんな僻地に集まっている。何をやろうとしていると思う?」
まずは奴隷の目的を考えてみる。それがわかれば、先周りして奴隷に絶望を教えてやるのもいい。
次のような部下の発言は、バズミットの予想の範疇。
「我々の追撃を怖れて隠れているのではないでしょうか。おそらく、この場所で我々をやり過ごして、我々が諦めたところで街道に出て行く魂胆だと思いますが」
「お前もそう思うか?」
「奴隷には女や子供も居ます。泳いで海は渡れますまい。あいつらが船を持っているはずもありません」
「ワニだらけのこの海に船か? そう言えば、あいつらに協力している外国の連中がいた。海の民だったか。あいつらが船を待っている可能性は?」
「この周辺にはワニがあります。ミツライムに運ぶ木材です。大量に浮かんだワニの中を船で移動するなど無理な話。しかも船など、この海にあったでしょうか」
「船はなくとも、外国からの援軍を待っている可能性はある」
「外国からの援軍ですか?」
「海の民と名乗る海賊の話を忘れたか? 奴隷どもが逃亡するのに合わせて、海賊がミツライムに襲い掛かってきた。大規模な船団だ。しかもどこかで聞いたように海の民だと名乗っている」
「海賊は壊滅したと聞いております。我がミツライムが大勝利したと」
「当初、その海賊と奴隷が結託していると噂があった。まあ奴隷どもはこんなところに逃げてこんでいたわけだが。その海賊と奴隷どもが本当に連携していたのだとすれば、奴隷どもがイキる理由もなんとなく説明がつく。奴隷どもが単独でこんなことをするはずがない。できるはずがない」
「では、逃げた海賊たちがここに集まってくる可能性があると言われるのですか?」
「そんな匂いがする」
「匂い?」
「だいたい俺たちを誘導しようとしていた連中、あそこにミツハがいた。ウバルを殺した奴らだ。俺たちを誘導できたとして、その後どうなるかくらいは考えるだろう。俺がそれくらいで諦めると思うか? 俺は奴隷を見つけるまで探すだけよ。あいつらにできることはせいぜい数日ほど時間を稼ぐことだけだろうが」
「確かに、バズミット様から逃げおおせることなどできるはずがありません」
「だったら、まだ何か隠していることがあると考えるべきだ。やつらがやっていることは時間稼ぎ、その時間で何ができるかと言えば——」
「海賊がこちらに加勢に来る、その時間を稼ぐことでしょうか?」
「アヌビスの野郎、海賊に勝ったと浮かれているかもしれないが、その海賊、負けたわけじゃないのかもしれない。こっちに来るために戦うのをやめただけじゃないのか」
バズミットはそこまで考えた。
「では、このことをベヒモス様に報告しなければ」
「ベヒモス様はすでに呼んでいる。朝にはここに来るだろう。その時には総攻撃だ」
「我々だけでもすぐに奴隷どもを攻撃したほうが良いのではないでしょうか? 海賊が来てからでは——」
「焦らなくて良い。あいつらの時間稼ぎは失敗したんだ、俺が相手だったのが運の尽き。奴隷に何ができるわけでもない。その時点であいつらに未来などはない。むしろ今目の前にいる奴隷を闇雲につついて逃げられるほうが厄介。俺たちは奴隷が逃げないように包囲していれば良い。それだけで出世は約束されたようなもの。あとはベヒモス様が暴れてくださる」
これに付け加えてバズミットに考えることがあるとすれば、
「しかし、あいつら、どうやってしばきあげてやろうか」
というプレイの内容になる。捕まえた奴隷を痛めつけるのが本来のバズミットの仕事だった。
一〇〇〇年逆らえなくなるような、奴隷の精神に残る残虐行為とはどのようなものであろうか。
考える、この時間は至福。
「バズミット様。奴隷どもの様子が何かおかしいように思います」
こんなふうに騒ぐのは論外だ。
「奴らには最後の晩餐だ。自由に楽しませてやれ。朝になれば地獄を見ることになる」
どうせ奴隷たちが何をしようとこの状況は変わらない。
バズミットはまずは腹ごしらえだと考える。「向こうのチャリオッツに干し肉があっただろう。今日が最後だ。お前らにもわけてやろう」と言えば、部下は喜ぶ——。
かと思ったが、意外に部下は疲れているのかもしれない。
「奴隷たちが逃げていくぞ」
と慌てる様子を隠せない。
「まずは落ち着け。もう勝負はついている。奴隷どもが見ている前で狼狽えるな」
バズミットがこのように部下の言葉を遮ったとしても、
「しかし」と部下は困った顔をするばかり。
「どこに逃げても無駄。俺たちが奴隷どもを見失うわけがない。もう奴らの尻尾は掴んだも同じ」
バズミットは、確信していた。
「海の上を歩いている」
というような夢を見るのは、さすがにミツライムの兵士と言えど荒野の旅は堪えたか。幻覚を見るのは空腹のせいだろうか。
「ああ、まさか泳いで渡ろうとでもしているのか。泳いで渡られるとやっかいではあるな。海を泳ぎ切ったバカのために、チャリオッツの部隊を海の向こう側まで走らせておくか?」
バズミットは、「行きたい奴は手をあげてみろ」と催促した。
だが、
「海が割れている。道ができている」
そんな声があると、バズミットはもう一度自分の目で確かめたくなった。「んなわけあるか」と思ったが、最近のベヒモスの神がかった迫力や、赤い川のことがある。神秘というものを目の当たりにすれば、もしやと疑ってしまうのも当然だった。
かくしてバズミットは神話の世界を覗いた。
「馬鹿な」だ。
灯りの周囲には焚火を囲む奴隷たちしか見えていなかったが、海に目を向ければまた別の光景がある。はしゃぐ子供たちの姿が暗がりにあった。首都ラムセスから見る海とはまた違う海。初めて見たワニの海の風景に奴隷が心躍らせるのも無理のないこと。水辺を走って、少しでも深くなると怖がって戻ってくる。子供にはこの海は暗いばかりで泳げるものではない。
水面は星明かりで煌めく。これは首都ラムセスの灯りがないからこその景色と言えただろうか。
言い換えれば他に見るべきものがない。
そんな海に子供たちは歩き出す。
奴隷の親は子供の手をとって、海へとその命を引っ張っていく。
バズミットから逃げようと思えば、あとは水の中しかない。それは死が約束された逃避行だ。
なのに、奴隷たちの足は水の中に沈むことがない。
思って視線をさらに先に動かすと、一列にならんで子供たちが海の上を歩いて行く姿があった。
女性たちが手招きするとそれを追いかけて子供が走って行く。家族そろって海の上だ。沈むことなく二本の足で立つばかりか、子供が大人を追い越して走っていけばどこまでも海の上。彼らの足元にあるのは白いさざ波。そういう光景が続いて、奴隷たちは一直線になって海を越えていく。
「海だぞ」
バズミットは上半身を乗り出していた。
しばらく見ていれば、やがて波立つところが繋がって見えてくる。
ここに海の中を走る一本の道があった。
ないはずのものが実際に目の前にある。
「どうなっている?」
バズミットは目をぐるりと回した。考えてみた。だが、奴隷という人間を熟知しているからこそ言えることがある。
「何かカラクリがあるはずだ」奴隷どもに魔術など使えるわけがない。それは四〇年もいたぶり続けて出ている結論だ。
浮き橋のようなもの。
バズミットはそれを見た。
「橋です。橋が架かっている」
部下は騒ぐが、
「黙れ、わかっている。それより、俺たちのことを勘ぐられるな」
ここはまだ我慢だとバズミットは考えた。
橋が架かっていた。それはそれで同時に二つの問題が出てくる。
これではさっきまでと話が違ってくる。奴隷をいたぶるだけだと言ったが、現実には女子供から海を渡っている。そして若い男たちがミツライム軍からくすねた盾や槍を持って待ち構えている状況だ。バズミットたちが突撃しても痛い思いをするだけ。
さらには浮き橋を誰がどのように準備したかを詮索する必要がある。
奴隷以外の誰かが見えない場所にいる。ミツライムを襲って来た大海賊団といい、この先に得たいの知れない軍隊がいるのは確実だと思えた。
これを考慮した結果、
バズミットが実際に突撃に踏み切ったタイミングは、日の昇る前の朝になる。
なぜ朝なのかと言えば、
ベヒモスだ。
神をも喰らう怪物ならば、どのような相手だろうと関係ない。敵はミツライムを恐怖するだけ。どんなに強がろうとも全ては虚勢にしかすぎない。
実際にベヒモスの進撃する地響きにバズミットが陶酔したのは、彼がムチを手にしてチャリオッツで突っ込んだ半時後。
バズミットはこの時、チャリオッツに乗って奴隷たち目がけて突っ込んでいた。
ベヒモスが到着したときに、奴隷をある程度始末していなければ、何をやっていたのかと叱責されただろう。かと言って、早すぎれば痛い思いをするだけ。バズミットが疲弊した後で、ベヒモスと共にやってきた仲間たちが全て功績を持って行ってしまうことになる。
だから、これはバズミットの計算通りのタイミングだった。
しかし、同時に肩透かしもある。
「驚かせやがって、全部はったりじゃねーか」
チャリオッツの前面に弓矢よけに兵士を並べて突っ込んでところ、反撃は限定的だった。奴隷たちの多くは寝入っていて、ミツライム軍が突如表れたことにあわてふためいていた。その多くがバズミットの知っている奴隷の表情だ。
驚愕、恐怖、絶望。
どれもこれもが奴隷の表情。
若者が使い慣れない槍や盾をもってバズミットに立ちはだかるが、人間を殺してきた年期がバズミットとは違う。バズミットがムチを一振りするだけで、立ち向かってくる奴隷がいない。奴隷の戦士など、たかが障害物。追い詰められれば、勇気を出して手を出してくる者もいるが、
そんな時に、地響きだ。
チャリオッツ二〇〇両、それに馬車や装甲車。走ってくる戦士たちの足音。大地の踏み荒らし。
ベヒモスが通った後ではどのような国も、草木一本残らない荒れ地になるに違いない。
怒り狂うベヒモスが率いるミツライム軍が迫っていた。この光景こそ、バズミットの狙ったものだった。ベヒモスが奴隷どもを一網打尽にするところで、好位置をキープしているのがベストだ。どんなに硬い表皮に守られた果実も潰れてしまえば、中身が飛び出るというもの。スープをすするように腹に入れるのは簡単なことだった。
つまりバズミットは待ち構える奴隷の戦士にベヒモスの相手をさせて、逃げる子供のほうを追いかけようと画策する。
怪物の咆哮があった。
沸きたつように大地が膨らみ、地平が騒ぐ。
騒ぐ。
轟く地鳴りは、耳を塞いでも人間の心を掻きむしるように響いただろう。
ベヒモスが岩陰からぬっと角を突き出せば、あとは島が岩山をかき分けて動いて来るのと同じだ。
岩山を乗り換えれば、大地がぐわんぐわんと揺れる。
揺れる。
バズミットでさえ立ちすくんで動けないのだから、奴隷どもの恐怖するところは最高潮だろう。
「終わった。奴隷どもの命運が尽きた」
バズミットはそれを確信した。今日で奴隷たちは地上から消える。それは災厄そのものだ。
ベヒモスは怒っていた。
目に映るものが奇跡であればなおさら怒った。
奴隷が奇跡を起こすなどあってはならないこと。
そのような奴隷の顔があれば、右から殴るだけ。
ミツライム人は巨大なピラミッドを建設するほどに偉大な民族。その民族の上を行くような顔をすれば、その顔を左から叩くだけ。
そうやって奴隷をしつけるのが、ミツライム人の義務であり責任だと思っていた。
ゆえにベヒモスもそのようにする。
ただしベヒモスが右から殴れば、奴隷の若者たちは顔をつぶしながら吹き飛び、
左から叩けば内蔵を破裂させながら大地を転がっていく。海は血の色に染まるだろう。
壁を作るようにして奴隷が並ぶのは、ベヒモスに殴られる順番待ちをしているのも同じだった。
ベヒモスはその先を考えない。
奴隷兵士たちが盾をもって密集すれば、真上に振り上げた拳を叩き込むだけ。
咆哮とともに、白い蒸気がベヒモスの鎧の隙間から溢れた。
奴隷は何があったかさえ記憶できないだろう。踏みつぶされる者は、あらゆる動物の荒々しさと自然の残酷さを知ることになる。
ここにバズミットでさえ、顔を背けたくなる残酷さがあった。
だから、バズミットが上空のそれを見たのは偶然にすぎない。
この時バズミットはふいに空を見上げた。
地上に敵なしのベヒモスだが、空はどんな表情でこれを見ていただろうか。
島をめぐって飛ぶひとつの影。
「ハヤブサか?」
小鳥も羽虫も、ベヒモスが荒ぶれば逃げ出すというのに。わざわざこんな場所に興味をもって翼を傾けてくる猛禽類が一羽。ハヤブサが見えていた。
「そういや昔、ハヤブサを神だとあがめる奴らがいたか。今となっちゃどうでもいい」
なんのことがあろうかと、バズミットは狩り場に目を戻した。
ハヤブサのニケは、ミツハを追いかけてきただけだ。それが空にあると言うことは、つまりミツハとナギがこの刹那追いついたということに他ならない。
ついに僕たちはバズミットに追いついた。
必死で追いかけた僕は、ナギが切り開いてくれてた道を辿ってほぼ同時にバズミットが見る光景と同じものを見た。
「ヘルメス」
とナギは声をあげる。ナギの気持ちがわかるのは僕だけだ。ナギは僕になんとかしてくれと言いたいのだろう。ミツライムでの言葉で直接声をあげられるのは、僕とミツハちゃんだけ。
僕にだって出来ることはあった。
「みんな頑張って。ナギとミツハちゃんが来た。僕たちでミツライム軍を一瞬でもいいから押し返すんだ」
バリケードを維持するミツマの戦士たちに最後の力を振り絞れと叫んだのは反射的だった。
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