第4話 まるで。ゆめのような。

 ――まるで、夢の中にいるかのようです……。


 リヒト。リヒト・エーデルワイス。かつて心許せた唯一の人。ずっと密やかに恋慕を寄せていた人。その彼が現れる。


 誇張無しに夢のような、奇跡のような再会だった。


 連絡先さえわからなかったし、リヒトは小学校卒業後実は引っ越していたため、家を訪ねていくこともできなかったのだ。


 それが今こうして。目の前にいてくれるなんて。


 彼に向かって、一歩を踏み出した途端。

 浮遊感に似た立ちくらみがポラリスを襲った。か細い体が前方に傾く。


 咄嗟に逞しい腕に支えられて、ポラリスはおずおずと顔を上げた。年月を経て大人の男性に成長したリヒトの、これは変わらない碧い瞳に自分が映るのが見えた。


 彼の世界に自分がいるということが分かって。少女の心に幾年かぶりに温かなものが満ちていく。


「大丈夫ですか」

「は、はい」

「少し失礼しますね」


 ポラリスの体がひょいっと、リヒトの両腕に横抱きにされた。俗に言うお姫様抱っこである。

 ずっと恋い焦がれた人に触れられて、変な声が出そうになる。


「リヒト、君は彼女と先に」

「了解。神殿長」


 そのまま小走りに外へ出る。びっくりするほど実家への未練はなかった。


 門の外側に黒い公用車が停まっていた

 ゆっくりと腕の中から地面に下ろされ、促されるまま車内後部座席に着く。


 隣の席にリヒトが身を滑り込ませると、小気味よい音を立ててドアを閉める。


「また会えて、良かった。ポラリス」


 あおいろの瞳が、ポラリスをじっと見つめた。

 それまでの敬語を崩し。親しげに『ポラリス』と呼ばれて。


 本当にリヒトと再会できたのだなと実感する。

 ポラリスはほう、と安堵の息を吐く。


「来るのが遅くなってしまってすまない。騎士としても男としても不甲斐ないよ」


 深みある声は慈愛に満ちて。ポラリスの心に残る戸惑いと衝撃を優しく溶かしていく。


「謝らないでください。私もリヒトさんとまた会えて嬉しいです」


 ポラリスは純白の素直な想いを伝える。

 まだリヒトと再会して三十分も経過していない。


 ただ父も不在の中、これで娘を追い出せると喜んだ実母の歪んだ笑みだけが、心に鈍い痛みを与える。


 すでにポラリスの心には、見渡す限り古傷ばかりに覆われていて。

 けれども初恋の男の子への想いが優しくすべてを包み込んでしまうから、ここまで生きてくることができた。


 何もかもから追い詰められた現実で、必然的にリヒトの存在はどんどん大きくなっていくのは当然のことだった。


 今日目の前にいるリヒトは、どうだろう。

 ポラリスの味方でいたいと、思ってくれているのだろうか。


「どうした?」


 悩んでいたら、心配の声が降ってきた。

 僅かな逡巡しゅんじゅんのち、ポラリスは口の端を持ち上げて無理やりに微笑みを形作る。


「いえ、何でもありません」


「そうやって君は、また何か抱え込んでいるんじゃないのか?」


「それは、」


 呆気なく見抜かれて目を泳がせると、リヒトの大きな手がポラリスの銀糸の髪をでた。

 幼いころも、よくこうやって慰めてもらったものだった。


「リヒトさんはシャボン玉の日のことを……、子どものころ最後に会った日のことを、覚えているのですか?」


 自然に緊張がほぐれて、言いたいことが唇から紡がれていく。


「もちろん」

「それでは」


 思い切って、問うてみる。


「今でも私の味方で、いてくれるのですか?」

「昔も今も、俺はポラリスの味方だ。だからこうして迎えに来たんだよ」


 リヒトは目を反らさない。その碧眼がかすかにうるんでいるのを、ポラリスは見逃さなかった。


 万感ばんかんの想いが、ポラリスの胸を満たしていく。


 ――嗚呼ああ、リヒトさんも。

 ――私に会えて嬉しいと思ってくれているのですね。


「ごめんな。君が戸惑うのも仕方のない話だ」

「そうですね。驚いてはいます」


 その割には上手くスムーズに話せていることに、ポラリスはやはりこの人はリヒトさんなのだと安堵する。


 今まで緊張しっぱなしだった。

 多忙で無関心な父、この世すべての毒物をかけ合わせて人の形にしたような母。

 学校でだって、誰もが『虐げられた女』と馬鹿にされてばかりだった。


「……ポラリス」

「ご、ごめんなさい」

「…………良いんだ。泣きたい時は泣くと良い」


 気づけば両目からぽたり、ぽたりと、小雨が降るようにして涙が流れ出していた。止むことはなく、次から次へ。


 泣くのは本当に久しぶりだった。

 基本笑えば怒られ、泣けばうとまれてきたポラリスだ。


 改めて自分のいた場所の酷さを思い知る。

 こうして久しぶりに、人の優しさ温かさに触れたからこそ。

 そのことに今さらながら気づいて、泣くのが止められなくなった。


「リヒトさん。私、ずっとつらくて。でもずっと考えないようにしていて」

「……うん」


 彼がうなずいて肯定してくれたので、流れる涙の量が増えた。


「今も、怖くて。いろんなことが、怖くて」


 母が追いかけてきて家に連れ戻されるのではないか。

 神殿で次期聖女にふさわしく無いと、失望されるのではないか。


 他にもいろんなことが怖くて、ポラリスはむせび泣く。


「大丈夫だ」


 リヒトのたくましく成長した両腕が、ポラリスのか細い身体を壊さぬようにそっと抱きしめた。


 ――あったかい。


 リヒトのつけたウッドテイストの香水があえかに香る。

 初めて感じたかもしれない温もり。

 今まで感じてきた痛み、絶望、苦しみ、悲愴ひそう


「リヒト、さ、ん」


 泣きたくても泣けなかった日々。


「もう俺がいるから……もう君を守れるようになったから。だから大丈夫だ。ポラリス」


 耳元で囁かれ、驚きと嬉しさが心身を駆け巡る。

 だから、今なら。今なら言える。



「お願い、します。私を助けて、ください」



「分かっている。俺に、俺たちに任せてくれ」


 より強くぎゅっと抱きしめられて、ポラリスはリヒトの胸に顔を埋めて泣き続けた。


「だから大丈夫だ。今度こそ俺が君を守ってみせる」

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