『 衆目 』
桂英太郎
第1話
地下鉄の構内。Mはかかとの片方が気になって仕方がない。これでは急ぐに急げない。さっさと新しい靴を買って履き替えればいいのだろうが、早朝のこの時間では開いている店もない(ましてや修理屋などは)。
午前六時過ぎ。さっき改札近くの上がり階段で転びかけた。その際捻ったのか足首がひしひしと痛む。Mは心の中で舌打ちする。元々今日は非番のはずだった。このところ出張や外部との打ち合わせやらで息つく暇もなかったので、平日の一日、自分に敢えてご褒美を取らせるつもりで入れた年休だった。
連絡が入ったのは昨夜家に帰り着いてからのこと。関西にある大口取引先の会長夫人が亡くなった。本来なら上司が出向くはずであろうが、その会長の亡妻とはあることがきっかけで個人的にも面識があった。
「私が行きます」
電話口でMは即答していた。
Mは若い頃のある一時期、本気でプロの小説家を目指したことがある。小さい頃から本を読むのが好きで、それが高じて大学一年の時或る文芸雑誌の一般公募に応募し見事佳作に選ばれた。全く期待していなかっただけにかえってMの心は躍った。就職まではまだ時間があったし、挑戦するなら今しかない。そうも思った。
結果的には健闘した方だと思う。Mの小説は一年ほどの間に二度文芸誌の賞に選ばれ、一度は出版の話さえ持ち上がった。遥か遠くに見えていた真夏の入道雲が急に間近に感じられた。しかし現実はそう上手くはいかず、その本を出す話も蓋を開けてみれば費用の大半は自分もちと云う、所謂自費出版の枠を越えないものだった。担当者が「あなたにもこんな本が出せるんですよ」と言いながら掲げた書籍サンプルは、一般の社会とは隔絶された孤高の世界を形作っているように思われた。「あなたの本なら、きっと一般の書店にも並ぶ日が来ますよ」、そうたたみ込む担当者の「不特定多数」の眼差しを見た時、Mの中で一つの区切りがついた気がした。そして実際それからのMは再び本を読むことだけが趣味の普通の女の子に戻り、仕事に就き忙しさが増してくるとその唯一の趣味からも長く遠のくことになった。
*
「ウチの家内は変わってましてね」
すでに七十を過ぎ、髪もほとんど白くなったO会長は、孫ほどの開きのあるMにも丁寧な言葉使いを崩さなかった。一代で特殊工作機械メーカーを立ち上げ、時流の後押しもあってその分野では世界的にもある一定のシェアを抱える企業にまで育て上げた。外見ではあまり分からないが、その会長と話を交わしているとその言葉の端々に物事の一つ一つを論理的に組み立てていく、生粋のものづくり職人の片鱗が窺えた。内容的には若いMにとって正直耳慣れたものではなかったが、長年の経験と勘、それから自然の摂理に裏打ちされた実世界の諸々は、聞いていて不思議と興味を引かれることが多かった。
そんな時ふと会長から手渡されたのが、病気で療養中と云う夫人が書いた小説のコピー原稿だった。どうやら夫人はもう二十年来小説を書き続けていて、関西の文壇ではそれなりに知られている人とのこと。
「私みたいに戦争の焼け野原から食うことしか考えてこなかった人間とは違って、女房はどこか形而上学的なところがありましてね」
そう言うと会長は自分の方こそ気恥ずかしそうに微笑んだ。そしてそれは結果的に、通常とはかなり変わった仕事の依頼となった。
初めて会った夫人の印象は、やはりどこか沈鬱そうだった。
夫人が長く心を患っていることは夫である会長から聞いていた。そしてここ一年は内臓にガンが見つかり、いよいよ先のことも考えなければならない状態になっていることも。
会長からの依頼は夫人の書いた小説を、朗読とイメージ画像で構成された映像作品にまとめてほしいと云う極めてプライベートなもの。通常企業のHPやパンフレット、時にはCMに至るまで、一手にその製作を請け負っている手前的には内容自体さして難しいものではなかったが、やはりある個人の書いた小説世界を映像にすると云うことは、Mにとって手に余る感があった。
「一度奥様にお会いしてみたいと思います」
そう口にした時、Mは不意に自分が学生の頃の一時期小説を書き、どこかでそれが映像化されるのを半ば本気で夢想していたのを思い出し苦笑いした。
「あなたが監督さん?」
夫人はいささか固い表情でMに尋ねた。初めて訪れたO会長の自宅は、瀟洒だがその実しっかりとした作りになっていて、それだけでも伝統ある日本家屋の趣きが感じられた。
「いえ、私は今回の製作統括を務めさせていただきます、Mです」
Mは前もって会長から聞いていた夫人の感受性の細さを気遣いながら応えた。
「そう…」
夫人は応えると束の間Mのことを見つめた。Mの方も視線を外すわけにもいかず、二人はそのままの状態でしばし対峙した。
「私の小説はね、形こそフィクションだけど、中身は全部本当のことなの」
夫人は言った。「だけど、それを抱えてるのは大変なの。この年になると尚更」
Mはようやく相槌を入れる余裕をさぐり出し、夫人の話に耳を傾ける。
「ある時主人が言ったの。『書き留めることで、夢はそれ以上悪さはしなくなる』って」
なるほど。Mは思った。確かに紙に書き起こすと云うことにはそう云う一助もある。
「それで言われた通りに書いてみたら、いつの間にか小説みたいな体裁になってて。主人も面白がってね。それから私は気の赴くまま、小説を書くようになった次第」
夫人はそれでも、あまり嬉しくもない表情で言った。
「それが今度は映画って…。あなた、どう思う?」
問われてMは躊躇する。「そうですね。小説には小説の、映像には映像の良さがありますし」
すると夫人は思いがけずハッとした表情になり、「そうね、それはそうかもしれない」、一人呟いた。「特に私の小説のように、筋も何もはっきりしないものは」
意外だった。Mは夫人の小説を一読した際、まずはとてもシンプルな物語に感じられたから。主人公は自殺未遂をし、偶然助けられた男と結婚し子どももできるが、やがて男の方が人生に絶望し死を選ぶ。女は一人で子どもを成人させると、やがてあてどもない旅に出る。気がつくと見たことのある海辺の岸に立ち、再び大海からの絶え間ない誘惑に身を晒す…。決して明るくはないが少なくともダレることのない文章。それに不思議と清涼な読後感。
「良い小説だと思いました」
Mは正直に応えた。「それに私には、筋も分かりやすかったです」
夫人はその言葉を極めて無表情に受け止めた。瞬間Mは何か気に障ることを言ってしまったかと思ったが、出たものは仕方がない、そう覚悟を決めた。
「そうね。あなたが作ってくれるんだったら、私も見てみたいかも」
一呼吸置いて夫人はまるで一人事のように言った。どうやらそれは原作者が映像化を承認した瞬間だった。Mは早速そのほとんどが会長からの意向である演出プランを夫人に提示しようとしたが、夫人はそれを固辞した。「出来上がってからで結構。私は他人事として見てみたいから」
Mは了承し、すぐにも製作に入ることを告げ暇を乞うた。それが夫人との出会いだった。
*
ビデオが完成したのはそれから四ヶ月後のこと。実際はもっと短期間で作ることも可能だったろうが、いざ始めてみると製作は思いの外難航した。まずは脚本。今回は思惑があって二人のスタッフにそれぞれ作らせてみたが、見事なまでにトーンの違うものになって出来上がってきた。そしてそのどちらもが何故かMには気に入らなかった。出来としては双方とも一定以上のものではあったが、Mにはそれらの中に小説世界の要となる部分がそっくり抜け落ちているように思えた。まるでブラックホールが散在する小銀河のように。仕方のないのでMは自分でも脚本を書いてみた。しかし書いてみて気づいたのは、シンプルなはずの物語の筋が追えば追うほど煙に巻かれるようになって程なく行き詰ってしまうこと。一度は小説そのものを丸ごと朗読するプランも考えたが、それはそれで自分が夫人に言った「それぞれの良さ」の言葉から逸れる気がしてできなかった。そして何よりMが感じたのは物語の救いの無さ。少なくとも夫人の日常は一流企業の会長夫人として恵まれたものであるに違いない。しかし当人が「本当のこと」と称した物語の中身は、読めば読むほどやり切れない思いとしてMを苛んだ。
「まあ、気長にやってください。家内もあなたが納得する仕事にされるのを望んでいるようですから」
進捗状況を報告した際、会長は電話口で言った。実を云うとその場で依頼を断ろうかとも思ったが、いざその時になると小説の各シーンがバラバラと脳裏に浮かんできてMをどうにも離さないようだった。夫人から手紙が来たのはそれから間もなくのこと。それには小さいが特徴のある文字で「ナレーションは、女優の牧原遥が良いかと思います」とだけ書かれてあった。唐突な申し出ではあったが、打つ手を見失っていたMにはかえって好機だった。
牧原遥。もちろんMも知っているベテラン女優の一人だ。以前はドラマ・映画にその個性的なキャラクターを活かして軒並み出演していたが、最近はあまりその活躍を目にしていない(もっともM自身がフィクションものにめっきり興味を覚えなくなったせいもあるが)。そう云えばMがまだ小さい頃、牧原は子ども番組のナレーター兼声優を超絶的な演じ分けで担当していた。しかし夫人が牧原を指名してきたのは、ただその演者としての達者さだけが理由ではない気がする。この女優に会ってみよう。Mはそう決心した。
牧原は現在主に舞台を中心に活躍している。所属事務所に許可を取り舞台の楽屋に出向くと彼女は気さくに応じてくれた。そしてMが持参した小説を驚くほどの速さで読み始めると、三分の一ほどのところで急にページをめくるのを止め大きく一つため息をついた。
「ちょっとこれ、大変だわよ」
Mはそれに大きく頷く。女優はそのMの姿を一瞥してから
「でも、どうやら抜けるに抜けられないみたいね」
そう言って今度はにこやかに笑った。「いいわよ。やってみようじゃない」
「そう言って頂けると助かります」
Mも表情を緩める。「あとは画の方だけです」
「私思うんだけど、これ書いた人って日々地獄を生きてる人じゃないかしら。それがどんなものかは分からないけど、何て云えばいいのか、その鬱蒼とした心持ちだけは想像できる気がするわ」
牧原は女優らしく夫人の作品世界から感じ取ったものを口にした。その時不意にMの中に滑り込むイメージがあった。
「牧原さんは以前、テレビで昔話のアニメの声、担当されてましたよね」
Mが突然詰め寄ったので、牧原は少し驚いたようにのけ反った。
「私当時子どもでよく見てましたけど、今も一つだけ鮮明に覚えている話があるんです」
Mはそれまでの悶々とした日々が嘘のように、晴れやかに言った。
*
ビデオの完成を伝えた時会長はいささか憔悴しているようだった。
「こんな年寄りにも、やらなければならないことが立て込んでましてね」
Mはどうやら夫人の容態があまり良くないらしいことを悟った。「関係者試写会を考えているのですが」
「ああ、いいですね。妻にも訊いてみますよ。あれなりに楽しみにしてましたからね」
しかし夫人は体調の為に試写会には応じなかった。Mは早速ビデオを持って久し振りに会長宅を訪れた。夫人は一見元気そうだった。会長は不在で、結局二人だけの完成試写会となった。家政婦もいるはずだったが、広い家の中はまるで音そのものが欠落したかのようにひっそりと静まり返っている。そうした中で四十分弱のビデオを二人並んで鑑賞すると云うことは、Mにとって何か特別の縁を感じずにはいられなかった。
「いかがでした?」
見終わってからも夫人はしばらく沈黙したままだった。その夫人に向かってMは職務上の問いかけを試みる。それでも夫人はすでに暗くなったTV画面の方を向いたまま、あるいは何か途轍もなく考え事をしているようにも見えた。
作品の画像の方は、牧原も参加していたアニメ番組の当時の作画スタッフを突き止め、無理を言って描いてもらった。お陰で昨今の映像作品にはない、素朴だが深みのある画に仕上がった。
「牧原さんを指名してくださったことが、製作の方向性を決める上でとても助かりました」
Mが礼を言おうとした時、
「…自分の書いた話じゃないみたい」
夫人はポツリと言った。その言葉はそのままMの心泉に音もなく零れ落ち、やはり決して小さくはない波紋を生んだ。
「お気に召されませんか?」
Mは自分の声がかすれているのを聞いた。
「そうじゃないわ。逆にね、そら恐ろしくなったのよ。まるで久々に満月を見上げて、自分の内面をかすめ取られたような…」
夫人は言葉を途中で切ると、首を動かしてMの方を見た。
「有難う。作品の評価なんてよく分からないけど、少なくともこれは私が書いた物語から生まれた幻燈なのね」
そう言った夫人の目にみるみる大きな涙の粒が溢れ、やがて両の頬を伝っていった。咄嗟のことで慌てるMをよそに、夫人は一旦奥に姿を消すと自らお茶の用意をして再び現れた。しかし翌日北国で大きな仕事が入っていたMにはあまりゆっくりとしている時間がなかった。
「これだけでも飲んでいきなさいな。中に少しだけブランデーが入ってるから身体も温まるわよ」
夫人は打って変わって、まるで十代の娘に戻ったような快活な笑顔で手製のコーヒーを薦め、Mもそれを感慨深く受け取ると、熱くほろ苦い香りと共に束の間味わった。
何故か今、Mは夫人の小説の中身をうまく思い出せない。否。と云うよりあの日以来、Mは急速にその一件から距離を置くようになった。もちろん忙しかったせいもあるが、単にそれだけではないことはMにも分かっていた。一度ビデオを見返そうとしたことがあるが冒頭のところで止めた。自分の書いた話じゃないみたい…。その時Mにも夫人の言ったことが分かる気がした。すでに自分はこの仕事の外に出てしまったのだと。そしてそれは自分勝手に戻れるものではないと云うことに。
Mは新幹線の独特の軋みを座席で感じながら、以前牧原遥が言った「これ書いた人って、日々地獄を生きてる人じゃないかしら」の言葉を思い出す。夫人の苦しみって何だったんだろう?心の病、ガンの恐怖、それとも老い?考えてみれば作品を製作するにあたってMはあえて物語の内容だけにこだわり、夫人の個人的な事情には踏み込まないようにした。もしかしたらその方がもっと手早く、しかも的を得た作品が出来上がるかもしれないと云う予感もあったのだが、どうしてかそうはしなかった。
車窓からはすっきりとした空が広がっている。Mは一度上司に連絡を入れ、到着までの残り一時間をPCの資料整理に当てることにした。
大阪に着き、早速新しい黒靴を買ったMはそのまま地下鉄を乗り継ぎ葬儀会場へと向かう。さすがに大勢の人が参列している。あらためて夫人が大会社の会長夫人であったことを思う。焼香の後で久々に二代目であり現在は社長職を務めている息子の顔を見る。母親似ということがひと目で分かる。少し離れたところに会長の姿も見えた。以前より痩せた印象があるが、それでもあくまで穏やかに大勢の弔問客に応対している。会場を出る前、Mはもう一度遺影の夫人を見る。最後に会った時とはまるで別人の、夫人の姿がそこにはあった。
「あの、Mさんですか?」
不意に呼び止められてMは驚く。そこに面影のある女が立っていたから。
「Oの娘です。本日は母の為に、わざわざ遠方から有難うございました」
「いえ、私こそお母様には生前良くしていただきました」
咄嗟にMも挨拶を返す。
「母はあのビデオを大変喜んでいました。単純に嬉しかったんだと思います。母は私たちにもなかなか心を開けない人でしたから。でもあなたのお陰で自分の作品が誰かの心に映ると云うことが分かったんだと思います」
「そんな…。私はただ、お父さまの依頼に精一杯応えさせてもらっただけで」
「実はMさん、その父からあなたにお譲りしたいものがありまして」
娘はMの瞳を真っ直ぐに見据えながら言った。Mは人知れず身構える。
「何でしょう?」
「これです」
手渡されたのは薄い大型封筒。「母の遺作、と云っていいと思います」
「遺作?」
「母は病気の為もあって、このところ小説が書けないでいました。この小説も長く未完成のままだったんですが、あなたにあのビデオを作ってもらってから、どうにか完成させることができたんです」
「でも、本当によろしいのでしょうか?」
手にした封筒が重く感じられた。
「形見分けと思っていただければ」
そう言うと、夫人の娘は一礼して去っていった。
帰りの新幹線の中、Mは激しい睡魔に襲われた。まるで疲労のぬかるみに足を取られたかのように、Mはその眠気に目眩すら覚える。そして実際満員の新幹線のシートに身体を凭れ、死んだように眠りに落ちた。
夢の中でMは小説を書いている。ペンを握り、見覚えのある原稿用紙に一語一語言葉を書きつけている。やがてその背中を眺める自分がいる。すると小説を書いているのは自分ではなく、実は夫人だと云うことが分かる。夫人の書くスピードは異様に速い。あれよあれよと云う間に表現を仕上げ、文章を配置し、物語を形にしていく。そして最後の一枚まで書き上げると、不意に後ろを振り向き原稿を差し出す。それを手にしようとしてMは、思いがけずその束がするすると己の手から滑り落ちるのを見る。
「あっ」と思った瞬間、Mは目を覚ました。
原稿の入った封筒はまだ手元に握られたままだ。思わず中身を確かめる。枚数にして三十枚に満たない短編。Mは最初の一枚を読み始める。そしてパラパラと読み始めていくうちにいつの間にか物語は結末を迎えている。見事なまでに引っ掛かりを感じない文章。稚拙と云うわけではない。むしろ自然過ぎて途中で止めるのを憚られるほど。それに物語は最初から謎めいている。主人公はどうやら人間ですらない。「わたし」という自意識のみ。しかも「わたし」はいつも混濁の中にいて、おそるおそる外の世界を覗き見ている。そんな「わたし」にも世界が光輝いているのは分かる。同時に周りにはその混濁すら寄せ付けない、漆黒の闇が広がっていることも。「わたし」はその境界をまるで摺り足で歩み続ける。そして突然足を滑らせて落ちる。恐ろしく深い、虚無の谷底へと落ちていく。泣きながら。咽びながら。もう元の世界にはその声すらも届かない。
Mは軽く感覚の麻痺を感じる。その夫人らしい、しかしもはやSFとさえ呼べなくはないその小説世界においそれとは踏み込めない実感を持つ。そして改めて夫人が既にこの世の人ではないことに思い当たる。Mは突然やるせない思いに駆られ、それを丸ごと抱えたまま長い一日の帰路についた。
朝のニュースでは、顔見知りの女性を付け回した揚句刺殺した童顔の三十男が画面を賑わせている。男はすんなり容疑を認め尚且つ向けられたTVカメラにも満面の笑みを浮かべている。Mは困惑する。そして男の正体不明の笑みがこの自分に向けられている気がして思わずチャンネルを変え、結果他のどこにも気持ちの置き場を見つけられないままスイッチを切る。何かが自分の中で地虫のように這い回っている気がする。その時掛けておいた目覚ましのアラームが鳴り、我に帰ったMはいつものように仕事に出掛ける準備に取り掛かる。
週のなか日ともあって、街には気だるい空気が濃い霧のように立ち込めている。行き交う人々の顔にも表情がない(あるいは読み取れない)。Mはそのいつもとさして変わらない都会の光景に一抹の違和感を覚える。違和感?Mは上を見上げる。遥か上空を鳥が飛んでいるのが見える。何だろう?急に背後で大きな悲鳴が上がりMは振り向く。すると百メートルほど離れたところで人だかりが起きている。「飛び降りだ」。知らない誰かが小さく叫ぶ。Mはもう一度頭上を見上げる。もう先程の鳥は見えない。
会社に着き、フロアに入ると今度は歓声が上がっていた。同僚の一人が結婚すると云う。相手は北欧系の外国人で結婚後も仕事は続けるらしい。上司も含めて皆、あるいはめいめいがお祝いの言葉を掛けている。Mも通りすがりに挨拶をしようとする。一瞬相手の顔から表情が抜ける。おめでとう。それでまた相手は人好きのする笑顔を取り戻す。
「Mさん、ちょっと」
折良くチームリーダーから声が掛かりMはその場を離れる。何だか足元がおぼつかない。感覚のせいか軽い浮遊感がある。しかしチームリーダーと今日の会議の打ち合わせをし必要な書類と機材の手配をした後、気がつくとMは数人の前で今受注している企業CMのコンセプトについて淀みなく話をしている。ふと今朝の事件のことを思い出す。あれからその人はどうなったのだろう?そしてあの鳥はどこへ飛んでいったのだろう?外はすでに黄昏の気配が漂いかけている。
帰宅してから急に思い立ち信州の実家に電話を入れてみる。兄嫁が出た。何気ない挨拶を交わす。兄は母親を連れ、入院している父親の病院まで様子見に行っているらしい。半身麻痺の状態は相変わらずだが、最近病院でよく癇癪を起こして周囲を困らせているとのこと。
「たまには帰ってきなさいよ。皆喜ぶわよ」
兄嫁は言う。「そうねえ、仕事がひと段落したら」、いつものように応えて電話を切る。不意にもう自分が故郷に帰ることはない気がする。どうしてかは分からないが、自分にはもうこの小さいアパートの一室しか帰るところはないと思う。淋しいのとは違う。それよりも何かうすら怖い。自分の知らないところで物語が音を立てて動いていき、自力ではどうすることもできないところまできている気がする。それも周りはとっくの昔に承知しているのに自分だけが聞かされていないような。TVのスイッチを点ける。すると虚実の綯い交ぜになった、いつもの世界が目の前に映し出される。変わり続けながら、その実何も変わらない世界。しばしその様子に心を奪われる。
翌朝、アパートを出たMはいつものように挨拶する近所の定年紳士が、実は宇宙人だと云うことを直感的に悟る。いや、その人ばかりではない。行き交う見ず知らずの人々も一人残らず同様であることに今更ながらのように驚く。エイリアンだ…。Mは囁く。間違いない。いつの間にか周りは皆、異星人と入れ替わってしまった。Mは俯き、気づかれないようにその場を離れる。しばらく行くと目の前にペットショップが見えた。中に入る。たくさんの水槽が並んでいる(淡水魚コーナー)。見るとそれらはすべてメダカの仲間だ。どうして横一面メダカばかりが並んでいるのか理解できないが、それよりも世の中にこんなにもたくさんの種類と数のメダカがいることにMは驚かされる。
昔の事を思い出す。学生時代のアルバイトのこと。大学の学生課のあっせんで或る裕福な家の家庭教師を任された。相手はまだ小学生の男の子だったが、中学入試を一年後に控えており、特に算数を鍛えてほしいとの親サイドの要望だった。かなりの肥満体の、それでもおとなしい真面目な印象の男の子で、その彼の趣味が熱帯魚だった。平均的に云えばかなり広めの勉強部屋は同時に小さな水族館の様相で、彼は勉強の休憩時間になるときまって水槽の前に行き、Mが見たこともないような色彩と体型の魚をじっと観察しながら時にMにも説明をくれた。
「明日は金魚を買いに行かなくっちゃ」
週末のある日、男の子が言った。
「あら、今度は金魚も飼うの?」
何気に返すと、少年はいつになく年上の家庭教師を値踏みするような顔になった。
「違うよ。熱帯魚の餌にするんだ」
その応えにMは少なからず驚く。餌?金魚が?少年はごく当たり前のように頷く。「餌用が要るんだ」
そうして男の子はまた水槽に目をやった。Mは言葉を失くす。そして熱帯魚のぬらりとした泳ぎを尚も眺める少年の横顔を時間を忘れて見つめていた。
今、あの時の男の子のように水槽に顔を近づける。するとまるで見返すかのように一斉にメダカたちがその小さな身体を反転させる。ハッとする。その粒のような目の大群がガラス外の自分を捉えて離さないのを感じる。監視されている…。Mは感じ取る。これらは超高性能の監視ロボットなのだ。思わず後ずさり、そのまま店を出る。誰かが背後で叫んだ気がした。
何なんだ?一体どうしたのだ?人通りに戻り、スクランブル交差点を小走りに横断する。先方壁面の大型ビジョンが切り替わり、政治家に擬態した宇宙人が何かを意味深長に述べている。息が上がっている。Mには彼らの言語が理解できない。そして理解したところでもうどうすることもできないのは分かっている。そこで初めて底無しの落とし穴にも似た孤独と絶望を感じる。私はもう誰とも繋がることができない。誰とも分かり合うことはできないのだ、と。仕方なく会社に電話を入れ、やはり虫の呟きのような相手の声に一方的に用件だけを伝えて切った。
このエイリアンたちは何なのだろう?幾分状況に慣れてきた頭で考えてみる。たまに通る噴水公園のベンチ。異星人たちのほとんどは忙しげに行き交い、あるいは立ち止まって手元の携帯端末に見入っている。彼らはそれぞれ独自の指示に従い動いているらしく、お互いにある一定の距離を保ったままそれ以上は接近しない(こちらに危害を加える様子も特にはない)。横のベンチに目をやると、今度はMと同じく行き場を失くしたように周囲に目を配る者らがいる。しかし実際彼ら(そのほとんどは男)の目には何も映ってはいない。まるで自身との果てしない瞑想に耽っているようだ(あるいは自身の再起動?)。いずれにせよ彼らの表情から何も読み取れない。
これからどうしよう?Mは逡巡する。思い出し、カバンの中から封筒を取り出す。そして例の小説原稿を取り出し読み始める。今は亡き夫人だけが本質的に自分と繋がっている存在に思える。いや、もしかしたら夫人こそが世界の真実の姿を捉えていたのかも知れない。だとしたら…。Mは顔を上げる。
私も、エイリアンだったのか…。
自分の手を見て、その形、色、感触までが異様に感じられる。そして思う。私は一体どこからやってきたのだろう?そしてどこへ行こうとしているのだろう?
Mは一通り小説を読み通す。そして今度はもう一度あのビデオを見返したい衝動に駆られる。荷物を仕舞い前を見ると、ビルの谷間から太陽が傾きかけているのが見える。息をのむ。今、何時?時計を見る。すると小説を読んでいるうちにいつの間にか時間はしっかり夕刻を刻んでいる。Mは自分を疑う。訳が分からない。まるで自分は一人で時空旅行でもしている気分だ(しかも誰かがそれを監視している)。ただ、どこかで同じような体験をしたような気がする。いや、本当はずっとこうやって生きてきたのかも知れない。ただ長い間気づかなかっただけで。早く家に帰ろう。今は一刻も早く家に帰りたい。
アパートの扉がまるで聞き覚えのない音で開く。最初部屋を間違ったかと思うほど。しかし部屋は朝出ていったままの状態でそこにある。Mは荷物を置き、早速ビデオの用意をする。再生が始まるまでの静寂がたまらなくもどかしい。やがてTVから海のさざ波の音が流れてくる。そう、今日一日の中で一番、いや唯一懐かしい音。急速に心は満たされていく。やがて独特のこもった女の語りで物語は綴られていく。そうだ。自分はこの話をずっと昔から知っている。体裁こそ違うが、元々は同じ話だ。
しかし何かが違う。と云うより抜け落ちている。Mは映像を食い入るように眺めながらそれを考え、ふと思いつきカバンから再び夫人の遺作原稿を取り出す。題名を確かめる。『朱色の月』。Mはおそるおそる窓から外を見る。そこにはMの見たこともないような巨大な月が、都会の夜を見下ろしながらまさに朱色に色づいてこちらを照射している。
「そう云うこと…」
立ち上がり、しばしその月を眺める。そしてこれから起きることを想像する。TVの漆黒の画面からは再び海のさざ波が寄せては返している。そうか、全てはこれから始まるのだ。あの時ビルから飛び降りた人も、空高く舞っていた鳥も、すでに気がついていたのかも知れない。そして夫人は小説を書いた。小説を書くことで、それでも自分をこの世界に繋ぎ止めようともがいていたのだ。
今、朱い月が自分を見据えている。あの時の夫人のように。いや、知るもの全ての眼差しがこちらに向かって注がれている。
それは明日の夜明けにもやってくるのかも知れない。Mの耳に波の音がだんだんと大きくなっていく。私にできることは何だろう?Mは考える。私に今、できることは?
まさにその瞬間、足元の感覚が失われていく。
( 了 )
『 衆目 』 桂英太郎 @0348
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