🍂消えた公子

朝比奈 呈

第1話・行方不明だった許婚が帰って来た



「バレリー。息災にしていましたか?」

「はい。大叔母さま」


 その日、一修道女に過ぎない私バレリーが、大叔母の訪問を受けたのは、夏の暑さが和らいで幾分涼しくなってきた秋の初頭の頃だった。

ここはレバーデン大公国の北の外れに位置するサンセント女子修道院。私は3年前からこの修道院に身を寄せている。


 初めはお嬢さま育ちで右も左も分からず、先輩修道女達の手を焼いたと思うが、今では慣れたもので苦手だった早起きも克服し、身の回りのことは勿論のこと、井戸の水汲みや竈の火の起こし等、率先して行っている。実家にいた頃には、到底考えられないような生活だ。


「そう固くならずとも。あなたは私にとって孫娘のようなものですから、以前のようにベアおばあさまと呼んで頂戴」

「あの頃はまだ子供で……」

「わたくしから見れば、あなたはまだまだ子供ですよ」


 大叔母は祖父の妹で幼い頃から交流があった。彼女は私と同じオリーブグリーン色の髪を、後ろで一つに束ね、思慮深い深緑色の瞳をした一見、朗らかな50代後半の貴婦人にしか見えないが、この国では知らぬ者などいない、前レバーデン大公妃。寵妃に骨抜きにされて、政務を蔑ろにしていた前大公に代り、この国の運営を担ってきた女傑だ。


 幼い頃は単純に大叔母を慕い、周囲に彼女の若い頃に良く似ている等と、おだてられて大喜びしていたものだが、その本人を前にして、こんなにも緊張を強いられる日が来るとは思わなかった。大叔母はおっとりとした口調を改めて言った。


「バレリー、あなた還俗しなさい。ここの修道院長には話は付けてあります」

「……! 大叔母さま」

「忘れてはなりません。あなたはヘッセン家の娘なのです。義務を果たしなさい」


 その言葉は耳朶を打った。家族の誰もが私のことを慮って、言えなかった代弁のようにも聞こえた。貴族の娘にとって結婚とは政略絡みが当たり前。己の立場を思い出せと、大叔母は言った。一時の感傷に浸っている場合ではないのだと、頬を叩かれたような気がした。


 私の実家ヘッセン家は、大公家に次ぐ大貴族。大叔母が大公家へ嫁いだ縁で、私は幼い頃から公子と婚約を交わしていたが10年前に公子が失踪したことで、解消されていた。

 その私のもとを大叔母が訪ねて来た。ただのご機嫌伺いのはずもない。還俗を勧める裏には、どのような意図があるのかと訝った時だった。大叔母がポツリと言った。


「ウォルフリックが帰ってきました」

「……! それは真ですか?」

「嘘ではありません。あの子はいま、大公家に帰ってきています。ウォルフリックと再び婚約なさい」


 ウォルフリックとは許婚の名前。無事を願い続けていた相手の帰還に声が震えた。


「そのことを父は……?」

「もちろんローダントには話をして承諾済みです」


 信じがたい思いで大叔母を見れば、彼女は力強く頷いた。父のローダントが承諾したと言うのならば、私には拒む権利など無い。


「あなたがここに身を置く理由は聞いています。でも、あの子は帰ってきました。あなたが悔やむ必要はないのですよ」


 嬉しくないのか? と、大叔母に聞かれる。政略で結ばれた婚約でも、10年前の私達は仲が良かった。毎日のように会っていた。そのことは側で見ていた大叔母も良く知っている。


「わたくしはずっとあなたのことを心配していました。10年前、あの子が姿を消したことで、あなたは責任を感じ屋敷に引きこもってしまった。そして教会に足を向けるようになっていた」

「あの頃はウォルフリックさまのことが心配で、神さまに縋ってでも……と思い──」

「その気持ちは分からないでもありません。しばらく様子を見ていたのです。でも、まさかあなたがこの修道院に駆け込むとは思ってもみなかったわ」

「大叔母さま」

「でもあの子は帰ってきました。あなたがここにいる必要はないのです」


 大叔母は感極まったように、私の手を掴んできた。その腕の力は強く痛いくらいだった。


「あなたはウォルフリックと婚姻するのです。あなたの産む子が次代の大公になるのですよ」


 悲願めいた言葉には執念のようなものが感じられた。


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