幕開け

小狸

短編

 新年の準備期間、今年1年をどのように過ごそうかと思いを馳せる時間が、私は好きだ。


 よくよく考えてみれば、新年も、年明けも年末も、全て後付けで設定された日付でしかなく、あるのは「今」この瞬間だけなのだ。


 しかし人というものは面白い生き物で、そこに意味を見出した。


 1年という意味。


 それは無論日付という概念もそうであるし、節目という意味でもある。


 何かの節目としては、1年という期間は、これ以上ない大一番であろう。


 皆はどうだっただろうか。


 1年続いたこともあれば、1年続かなかったこともあるかもしれない。


 何があろうとも、大抵の場合、年末は来るし、年は明ける。


 陽はまた昇る。


 最近は、なかなかどうしてそれを一種の無慈悲や不条理だと捉えられることが多い。「時間は待ってはくれない」だとか、そういう理不尽を受け入れざるを得ない状況を作って「現実は非情である」とか、そんな風に表現されてゆく。作品の傾向というよりは、時代の風潮なのかもしれない。


 しかし私は、違うと思う。


 時間は止まらないということは、その間、生き続けているということでもある。


 それは、素晴らしいことなのではないか、と思うのだ。


 そして、その生きることという項目の中で、皆はそれぞれ継続したり、断続したり、辞めたりするわけである。


 そして当然――何かを新しく始めることだって、あるわけである。


 何を始めるにつけても、誰しも皆ニワカなのだ。


 辟易することはない。臆することはない。


 一歩を踏み出すことを止める権利は、誰にもないのである。


 自分の人生なのだから。


 好きに生きよう、とは、残念ながら私の口からは言えない。


 それがとても過酷な道であるということを、私は知っているからだ。


 だからそれは、もっと成功して、もっと努力して、皆から信頼されている、心ある人が言えばいい。


 頑張れ、とも、私からは言えない。


 人の応援をするほど余裕のある生活ができているわけではなし、人にさも当然のように努力を強要するこの言葉が、私は好きではない。これもまた、もっと言葉に重みのある、環境に恵まれた、幸せな人たちが言えば良いと思う。


 ならば私は、何と言うのか。


 何の責任もなく、何の役職もなく、何の成果もなく、他の要素を全て削ぎ落され、もう取り返しがつかない私が、皆に言えることは、何なのか。


 無数の解の中から、私はこの言葉を抽出する。

 

 私は見ての通り、視野狭窄的な人間である。


 生きることに余裕があるなんて一生言えないだろうし、これまでも、そしてこれからも、きっと将来の自分の幸せを願える時間的空白は訪れないだろうことを理解している。さりとて過去を振り返り、己を顧みるような余力も残っていないし、反省と後悔の念は、消えることなく、都合の悪い時だけ私を苦しめるだろう。


 未来がない、過去もない。


 今しか、ないのだ。


 それでも。


 今この瞬間まで、生きてきたことは。


 悪いことではないと、思いたい。


 ならば私は私に、こう言おう。


 こう言って、背中を押そう。


「頑張ったね」


 新しい朝がやってくる。


 


(「幕開け」――了)

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幕開け 小狸 @segen_gen

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