第10話 初恋が枯れちゃった

「デルフィーヌ、目覚めたか? ……記憶喪失ではないのだろう?」

「あ―――っ!!」


 しまった! その手があったわ!!

 記憶喪失のふりをして、妃教育の内容も全て忘れたことにしていたら、自動的に婚約者候補から外れることができたのに。

 時すでに遅し、かな? まだイケる、かな?

 それとも、今からそういう“設定”にしちゃおうかな!?


「うぅぅっ……」

「どうした?」

「旦那様。お嬢様は目を覚まされたばかりで動揺されていらっしゃるのかと」

「うむ。王室から謝意を伝える文と贈り物が届いている。聖女が現れてから辛酸しんさんめる日々だったろうが、ようやくチャンスが巡ってきたようだな」

「殿下は早晩、リリー嬢を選ばれるかと」

「その根拠は?」

「彼女はカトリーヌ妃殿下のお気に入りのようですし、わたくしが選ばれる可能性はないかと」

「側妃のお気に入りという理由だけで将来の国母が選ばれるのなら、この国もいよいよ終わりだな。今から出国の準備を整えておくか」

「え?」

「聖女のことは気にするな。そもそも彼女は、妃候補ですらない」

「ですが――」

「王家には、体調が回復するまで妃教育を休ませる旨、伝えてある」

「今回のことはよい機会だと思うのです。どうか、妃候補を辞退させてください」

「ならぬ」

「ですがっ――」

「他薦で妃候補になった以上“辞退”という選択肢はない。学院長の顔に泥を塗るつもりか?」

「侯爵!」

「その呼び方は止めろと言っているだろう? ……話は以上だ。身体が回復したらに戻りなさい」


『家に戻』れって言われても、どっちのよ?


 私には2つの家がある。

 実母が亡くなるまで一緒に暮らしていた下町の薬師院。

 もう一つは、ロワーヌ侯爵家のタウンハウスの敷地内にある、別邸という名の小さな建屋。


 侯爵が出て行ってから鏡の前に立つと、記憶よりも少しだけ痩せた少女が映っていた。右頬には痛々しい擦り傷があり、思わず手のひらで触ると、ザラりとした嫌な感触が走った。


「――お嬢様、大丈夫ですか?」

「うん。あのね、ソフィー。湯浴みとかできるかしら?」

「もちろんです。準備いたしますね」


「あぁ~、やっぱり湯船に浸かるのって最高ね」


 なにせ、目覚める前の記憶が凍死しかけていた自分だったから、生き返った気分だ。


「悔しいけど、諦めるしかないわね。振られちゃったんだもの」

「振られちゃったって、どなたにです!?」

「そんなの、決まってるじゃない」


 結局殿下レオは、私のことを想い出してはくれなかった。

 ディーだと気づいてもらえるように、淑女教育で培った鉄仮面を脱ぎ捨てて、下町独特の気さくさを滲ませてきたんだけどなぁ。しかも2年も!! 

 なのに、単なる礼儀知らずの“高飛車令嬢”と認識されてしまった。

 なんでだろう? 

 やっぱり目力の強い、このキレッキレの瞳のせい? それとも、口調が私にマナーを教え込んだ義母そっくりなせい?


 それにしても。

 殿下レオが性悪聖女を将来の伴侶に選ぶなんて。女を見る目がないんだから!

 瑞々しい果実のようだった私の初恋が、急にしぼんで枯れちゃった気分だ。


「殿下のことは、綺麗さっぱり忘れることにする」

「そんな! 殿下からは毎日、お嬢様の体調を気遣う文とお花が届いていたんですよ? お嬢様のお気持ちを無碍むげにしている方の対応ではありません」

「それ、やってるの殿下じゃないから」

「えっ!?」

「代筆する人がたーくさんいるのよ、殿下には。でもまぁ、一応、見せてくれる?」

「こちらです」


 まるでお手本のように綺麗に書かれた文字。いつもと変わらぬリシャール殿下と者による筆跡だ。


「……もしかして部屋中に溢れている白百合の花も?」


 白百合といえば、王家の家紋花。

 けれど、Lilyリリーというその花の響きは、嫌でもあの性悪聖女を思い起こさせる。


「悪いけど、この部屋にあるものは全て捨ててくれる? ……のは勿体ないから廊下にでも飾ってちょうだい」

「お気に召されませんか?」

「匂いがね。病み上がりにはちょっと強いの」

「っ、気が付かず申し訳ございません。今すぐに対応いたします!」


 その後、ソフィーが慎重な手つきで右の頬にクリーヌを塗ってくれた。

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