Swim in the blood sea.

古海うろこ

fate

 目を覚ますと、隣で眠っていたマツバがいなかった。布団から頭だけ出して部屋を見回せば、掃き出し窓が開いていて、十月の心地よい風が吹き込んでいる。朝日が昇り始めた薄明かりの中で、ベランダに座り込んでいる影を見つけた。マツバ、と呼びかける。反応がなかったのでもう一度呼んだ。

「マツバ、何してるの」

 人肌に温まった掛け布団の誘惑から抜け出して、ベランダに向かう。スーパーで買った青ネギの根を突き刺しただけの、ペットボトルで作った鉢植えが置いてある。その隣で網戸にもたれ掛かるマツバの、丸いまぶたは開かれている。肩を揺すると、長く綺麗な、赤みを帯びた黒髪が滑り落ちた。胸に空いた穴。流れ出して酸化した血液。

 マツバは死んでいた。



 五月の竹ヲ町は清涼な空気に満ちているので好きだった。その日は第二木曜日で、珍しく二人揃ってバイトが休みだったから、一緒に朝ごはんを食べ、思い立ってリサイクルゴミまで出した。マツバは胸元に大都議と刺繍が施された、高校のジャージを着ていた。ここに住み始めて一ヶ月が経つ。

 昼、マツバがバイト先で借りた映画を観た。古い映画だった。わたしはあまり楽しめずにいて、背後のベッドに寝そべったマツバを振り返ると、同じく退屈そうだった。投げ出されたマツバの手に指を絡める。マツバが反対の手でリモコンを取って、テレビを消した。

「何度観ても面白くない」

「何回も観てて、つまらないのに借りたの?」

「歳とったら良さがわかるものもあるかと思って」

 マツバがわたしの手を握り返す。わたしはそれだけで、世界中の悪を許せるほどの幸福に包まれる。マツバはどうかわからない。

「カシギ」

 こういう風に名前を呼ぶ時、マツバが何を言い出すかは決まっていた。わたしは何も言わない。マツバに生きていてほしいから、聞き分けのいい人間でいるしかない。でも、それならもっとずっと前に、マツバの言うことを聞くべきだった。

「今日の夜、食事に出るね」


 

 マツバが死んでいることに気づいてすぐ、太陽が昇りきる前に体を室内に引き入れた。陽の下を歩いていたのは知っているけれど、死体となってしまえば吸血鬼はみんな、陽の光で灰になってしまうから。

 それからのわたしの生活といえば、日中は眠るか働くかして、夜になれば駅前を彷徨うというものだ。竹ヲ町に来る前にマツバがかけてくれた呪文のおかげなのか、警察なんかがわたしを探しにくることはなかった。両親も友達も、わたしがいたことなんて忘れて過ごしてるのだろう。そんな日々が二ヶ月続いて、小さな町にもクリスマスの浮かれた気配が顔を出した頃、ついにわたしは飢えた吸血鬼に狙われる。


 その吸血鬼は、同い年くらいの男の子に見えた。道で声をかけられて、人気のない路地へ誘われた。馬鹿なふりをしてついていく。実際何歳なのか分からない彼は、脱色した金髪が似合う甘い顔立ちで、わたしに色々と優しい言葉をかけた。そうして、顔が近づいてくる。きっと何も知らない少女なら、キスの一つでもされると思っただろう。でもわたしは分かっている。吸血鬼を見分ける方法があるよ、というマツバの囁きを思い出す。

 首筋に彼の顔が近づいた。牙が食い込む前に、わたしは頼み込んだ。血はあげるから、吸血鬼にしてほしい。彼は困惑していた。

「なんだよ、お前、おれが吸血鬼だって知ってたの? なんで分かった」

「見分け方を教わったの」

「そんなもんあるかよ。人に馴染めるのがおれらの取り柄なんだぜ」

「さっき窓ガラスに写った時、目が赤かった」

「……」

「鏡に映ると、コンタクトをしていても目の色が赤く見えるって」

「……ま、合ってるな」

 彼は私からさっと手を離して、壁にもたれた。

「吸血鬼にしろって?」

「そう。血はあげる」

「おれ、眷属とかとる気ないのに」

「けんぞく?」

 見分け方は知ってるのにそっちは知らないのかよ、と呆れたように笑われた。

 吸血鬼が人間に自分の血を混ぜると、眷属にすることができるらしい。そのかわり、親となる吸血鬼は眷属にしっかりと教育を施さなくてはならない。必要以上に人間を襲ってはいけないだとか、血を吸った相手の記憶は消すだとか、とにかく細々あるのだと彼は言った。

「あと、眷属にするなら、互いに真名を呼ぶこと。双方の同意なしに血は根付かないからね。そんなの通ったらこの世界は吸血鬼まみれだろ?」

「まあ、たしかに……。意外とルールが多いんだね」

「そうだよ。それでお前、名前は?」

「小津原カシギ」

「おれは中御堂イブキ。なあ、お前が今後の有意義な人間生活を捨てても吸血鬼になりたい理由って、なに?」

 面接みたいなものだろうか。イブキはわたしの目をじっと見た。

「復讐」

 マツバは一度も私の血を吸ってくれなかった。ずっと一緒にいたかった。同じ感覚で同じ時間を過ごしたかった。だから同じ生き物にしてくれと何度も思ったし、わたしがそう望んでることを、聡いマツバは分かっていたはずなのに。好きな人と同じになりたいなんて、高校生らしくていいんじゃないかな。そして、あなたを殺した相手を殺してやりたいなんて、いじらしいでしょ、ねえマツバ。

 イブキはわたしの返答にきょとんとした後、お腹を抱えて笑った。復讐なんてろくでもねえな、と。いっそ爽やかにすら感じる声音だった。

「はあ、面白い。小津原カシギ、お前はおれの血を受け入れるか?」

「わたしは、中御堂イブキの血を受け入れます」

「きっと後悔するぞ」

「そんなものとっくに」

 イブキの牙が、わたしの首筋に触れる。

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