漢字が苦手なその子の宿泊と郵便
笠井康平
漢字が苦手なその子の宿泊と郵便(本文)
その子にはまだ〈御維新〉が届いていなかった。田舎町の女の子で、東海道の本道からも最寄りの港町からも遠かったし、それにまだ字が読めなかった。上の兄弟が私塾へ行って簡単な経文を覚えて帰ったおりとか、両親によく分からない偉い人からの教訓を横流しされて叱られたおりなんかに、自分の名前くらい書けるようになりたいと悔しかったことはある。
次男は自分より阿呆だと思っていたので、家業のあいまにひと休みしていた長男を呼び出して、
「〈そのこ〉は、字はどう書くのですか」
「《そ》と《の》と《こ》ですね」
「書いてください。そこの、土へでいいです」
長男は「そ」と「の」と「こ」を書いて、一文字ずつ指差しながら、どの字をどう読むか教えた。その子はかぞえの六歳だった。おおむね満五歳までにはひらがながそこそこ読めるようになる二十一世紀生まれの子どもたちより少し遅めの学びそめだったけど、今で言う旧字で「そ」の字の一角目を左上から右下へしゅっと撥ねて書く長男の、そこらに落ちていた小石の利用法には感心したし、何より、
「《こ》は《子》とも書けます。子年の《子》ですね」
といって「こ」を草鞋の裏で消し「子」を書きながら、
「私たちの母や祖母の名にはない字です。贅沢な名前。偉い人たちの流行りらしいですよ」
と言われてくすぐったかった。なんだか知らないが世間の流行というものがあって、その最先端に自分がいて、おまけにその「扱い方」を教わっている!
その子は自分の名前の書き方をすぐに覚えてしまった。自分の「そ」を長男の「そ」に似せて、いかにも「そ」らしく造型するのに手こずった。「の」はひと筆書きすればよかった。「子」はまっすぐな横線の練習になった。嬉しすぎて、三男をあやしているとき、姉の名前はこう書くのだと自慢したくらいだ。それは「教育」や「報告」というより「自省」や「独り言」に近い語りで、漢語どころか整った構文さえまだ話せない三男は、「そのこ、そのこ」と連呼しながら、「そ」に似た独特の線を地面へ書きなぐっていた。
「その字はなんて読むの」
「そ、の、こ」
「それは〈そ〉ですよ」
「そ、の、こ」
「それは〈そ〉ですよ」
それは1869年の初夏のことだ。体制派か革命派か日和見派かを問わず、当時の知識人たちは徳川慶喜の敗戦を日記へ書き付けたり、仲間内で論じあっていたが、多くの婦女子が高等教育を受けられるようになるのはまだ先のことで、その子の母だって最低限の読み書き・計算しか知らなかった。父でさえ〈御維新〉の意義と展望を読みかねていた。
★
その子たちの生家は旅人の休憩所だった。付近の町々から港へ向かう客足や、港から山奥へ人と荷物を北上させるちょうど中継地点にあって、人の出入りはそれなり。祝祭日や繁忙期のあとには顔見知りがよく目立つ町内。荷物や旅客と一緒に折々のニュースが運ばれてくる宿屋は、付近では「未知のもの」が飛び込んで来やすくて、一家は世間並みに情報通だった。
都会のトラブルもスキャンダルも5日くらい遅れて入ってくる。名古屋には露西亜語を教える私塾があるらしいとか、天皇が移住して「江戸」が「東京」へ名を変えたなんていう「遠くの」話も訪れる。台風一過の農地整理で向こうの村の誰と誰が揉めて追放者が出たとか、失踪した商家の跡取りとなじみの幇間が東北の宿場町でミュージシャンになっていたなんていう「近くの」話も流れてくる。語り継ぎと誇張で真偽と時系列がずたぼろになっていたとしても、家内の人づてに出回る「信じられない話」や「驚いた話」は、濃縮され裁断されてその子のところへもやってくる。「ですって」「だそうだ」「らしいぜ」「みたいよ」
郵便ポストができたらしいと耳にしたとき、その子はかぞえで12歳になっていた。毎日ずっと働いていた。バックヤード部隊だった。寝室の掃除、照明燃料の注ぎ足し、浴場と風呂道具の研磨、炊飯補助、寝具や作業服の洗濯と日干し、馬の餌やりと洗身、帳簿点検の下準備、旅客の案内、出入り業者の応対、従業員間の報告・連絡・相談の中継、手紙や請求書の店内配達、必需品の補充、ごみ捨て、その他従業員とのコミュニケーション。
未成年に任せて差し支えないものに限られたとはいえ、母や祖母がしてきた仕事はすべて覚えさせられた。早朝に起き、夜更けに寝た。寝る前は本を読んだ。父が兄のために、出入りの貸本屋からくたびれたやつを買い取ってくれたのだ。帳簿上は家族の、名目上は子供四人の持ち物だったが、気に入って何度も読んだのはその子だけだった。読めないところ、よく分からないところへは印として、そのページに糸を挟んで、長男が翌日に着る着物のなかへ忍ばせておくと、遅くとも翌週にはそのページに半紙の切れはしが挟んであって、小さいカタカナで解説が書いてあった。長男はその子のつまづきやすいところをよく心得ていて、伝えてもいないのに、不明点の所在が突き止められていた。
★
「学校」が始まるまえで、寺子屋へ行かせてもらえた女児は全国でも10人に1人いるかいないか、教育期間も数えの6~7歳あたりから数年ほど、もちろん教育内容はその町の豊かさによって偏りがあったから、少しでも読み書きを覚えられたその子はとても恵まれた女の子だった。
現に祖母は読める漢字が少なかったし、暮らしのなかで書くべき場面もなかったから、もしもその子が貧しい農家に生まれて、学習と勤労なら迷わず後者を選ばせたい両親のもとで育っていたら、祖母はその子に勉学を許さなかっただろう、仕事中もつらく当たったろう、名前の後ろに「子」を付けるなんて贅沢をした両親には、ことあるごとに愚痴や小言を呟いたにちがいない。
ところが祖母は優しかった。その子が大好きそうだったし、その子も甘えたかった。良い嫁になれと言われて育てられた。文盲だった代わりに祖母はもの覚えの良さがすさまじくて、息子や孫を躾けるときには、予め言質をとったり状況証拠を押さえておいて、怨霊のように悪事を追い詰めるスタイルをとった。
その祖母が、
「郵便箱というものがあるようですよ」
「なんですかそれは」とその子。
「その箱へ手紙を入れておくと、飛脚に頼むのとはちがい、安く、速く、遠くまで届けてくれるらしいです」
「私には手紙を書く用がないのですが」
「私にはありますよ。生家へ頼りを出したいとするでしょう。そのとき私は夫か息子に頼まなければいけませんね。字が書けないのですから。すると口伝えに“お元気ですか”と書くことになる。それでは積もる話もできないし、内緒話もできません」
「会いに行けばいいのでは。あなたはいつも暇そうです、私とちがって」
「そんな元気はありませんね。けっきょくお参りにも行けそうにない。もし無理をしたら、帰り道に疲れて死んでしまうよ」
「長男に頼んではどうです?」
「忙しい人ですし、孫の話を孫に書いてもらうなんて、ちょっと恥ずかしくないですか」
「父が港まで出かけていたとき、私にもお土産を買いたいが何がいいかと書いてきた手紙をみんなの前で読まれて、私はとても恥ずかしかった」
その子は、自分が生まれて何年経ったかをすぐには数えられなくなっていた。大晦日に旅館中を大掃除しながら、来年の干支がどれかをみんなして思い出し、農村から奉公に来た幼い男女が十二支を順番にすべて言えるか試して遊んでいるときに、その子は歳月がひとめぐりしていることに気づき、たしか私は子年で、もしあと半年早く生まれられたとして、「猪のように~だ」とからかわれるのと「鼠のように~だ」と冷やかされるのと、どちらが腹立たしかったろうと思った。第二次性徴の訪れを身内だけでひっそりと祝ったときも、その子は父母が前より老けたと感じたけれど、それは疲れのせいであって、不意に訪れた自分の不調のせいであって、自力でこなせる仕事が増えたせいであって、その子自身が「成長した」「大人になった」とは考えなかった。恋心とも無縁だった。
★
だから郵便箱とは一体なんだとその子は思った。遠くにいる誰かへ何か今すぐに伝えたいことがあるかなんて考えたこともなかった。手紙は受けとったり手渡したり仕分けたり燃やしたりするもので、読んだり書いたりするものではなかった。三男に、
「郵便箱というものがあるようですよ」
「なんですかそれは」
「その箱へ手紙を入れておくと、飛脚に頼むのとはちがい、安く、速く、遠くまで届けてくれるらしいです」
「それはどこにありますか」
「わかりません」
訊いても無駄だった。次男に、
「郵便箱というものがあるようですよ」
「なんですかそれは」
「その箱へ手紙を入れておくと、飛脚に頼むのとはちがい、安く、速く、遠くまで届けてくれるらしいです」
「しかしあなたに字が読めますか」
「読めますよ。習いましたし」
「漢字が書けますか」
「書けますよ。覚えましたし」
「では〈郵便〉と漢字で書いてみなさい。できないでしょう。そんな子に手紙は要りません」
話した自分が愚かだった。その夜こっそり「結品函」と字を当ててみた。諸国の様々なる品々を結び合はするの函にて候。斬新だったが、流行らなかった。
このときの悔しさがその子に「叶わない学習意欲」を抱かせる。それは息子の性格に伝染して「勉強して偉くなれ」という口癖に変わり、明治の終わりに生まれた孫を教育熱心な母親へと変え、その母親に育てられた息子・娘たちが近頃あちこちで老衰したり介護されたり摘出手術を受けたりしているが、半年ほど前に祖母を亡くしたばかりの作者には空想がリアルになりすぎて、その先を詳しく書きづらい。丁重な葬儀だった。納骨は退屈だった。
後年を生きる私たちから見れば、その子にとって初めての〈御維新〉は「郵便箱」だったのかもしれない。地名や政権、貨幣の変化よりも身に沁みたのだから。耳なれない言葉と、見たこともない新製品と、裾野には決して届かない理念と、しかしなし崩しに進んでいく改修とがセットになって新登場する大きなトレンドの到来だ。
だけどその子はマクロな経済史に疎かった。季節の移り変わりはその宿でいちばん高級な夕膳に反映されていたし、暦には折々の行事や吉凶が書かれていたけれど、政府関係者の暗殺や離島で起きた内戦は父や兄たちの領分で、その子の職域はサービスとマネジメント。どの部屋に何泊分どの膳を食べる何人が泊まっていて、干してある布団と手ぬぐいと雑巾は何時頃から何人で取り込めばよいかを忘れないことにあった。
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堅い木をくりぬいて作った黒い柱形の投函箱には三角の屋根がついていて、正面には白字で縦書きに「郵便函」と書かれている。箱は盛り土で高くしてある。てっぺん近くに投函口が、大人の腰元あたりに取り出し口が付いている。どちらにも同色の蓋が付いていた。雨よけであり、子どもがイタズラできなくもしてあるのだ。近くに屋根ほど高い竿が挿してあって、頂きに「郵便」と大書きされた旗が結ってある。
そこへ黒地の編笠をかぶる男が駆け寄ってくる。笠の側頭部には赤丸に横一文字が縫い付けてある。黒染めで袖口と首元だけ朱塗りの釦付きの詰襟に、黒地の長ずぼんを着て、これまた黒塗りで側面に赤字で「郵便」と刷られた角箱形の鞄を肩にかけ、黒足袋を履き、キツく結った藁草履の裏を通りへ見せながら、箱の中身をまさぐっている。すべて集めても片手で持てる数だ。肩かけ鞄へしまい、取り出し口の鍵を閉め、両手と裾元の砂をはらってまた走り出す。
そこから最寄りの郵便役所へ持ち寄る。集められた郵便物はそこで集配されて、郵便馬車や郵便船に乗って、または郵便脚夫の肩に担がれて、東京へ行き、大坂へ行き、京都へ行き、長崎へ運ばれた。大雨や強風がなければ、三、四日もあれば向こうへ届いたし、送り先がどこであっても一律料金なのが強みだった。
創業当初こそ古臭いデザインの郵便箱だったけれど、すぐに黒塗りの柱形に変わった。切手やはがきの導入をはじめ機能設計はよく考えられていたし、配送網だってほんの一年半足らずで全国に張り巡らされた。取扱い郵便数は三年ほどで一万件を超え、切手もはがきも順調に売れ行きを伸ばした。運営細則は毎年変わったが、大枠は初期構想の根幹を崩さず、そうして出来上がった配達ルートの上を、大小の新聞が定期流通することになる。
もちろんそれはまだ後のできごとだ。
その子が目にした郵便配達夫は単に変装した飛脚だったし、郵便箱は実在する伝説だった。信じられなさと畏れ多さは河童と大きく変わらない。牛を河へ引きずりこむか、どこからともなく手紙を運んで来るかのちがいだ。
飛脚のあとをこっそり付けると異界へ通じる門があって、山犬のような牙を持つ痩せた男と、猪のような鼻をした小太りの男が番をしている。ふたりは先代から苗字・帯刀を許されていて、郵便に関わりない旅人が迷い込んできたとき、追い返すか殺して食うかする権限が与えられている。誰に? 妖怪だ。前世の因縁で成仏できず、仏と結託して神隠しを生業とし、諸国の事情にも通じている。人が寝静まった夜に雲を散らすような大風を吹かせ、箱に入った手紙を巻き上げて、それぞれの宛て先へ吹き飛ばして行く。平凡な空想をしながら働く日々は、それは単調だけど退屈ではなくてね、だってその子は毎晩へとへとに疲れてぐっすり眠ってしまうのだもの。
夢見ることが楽しかった。空想の源泉は母親の出身村の言い伝えとこの宿にまつわる伝説と乏しい読書経験で、もののけたちはいつも来客の姿で訪れるか、天井裏か床下か夜の暗がりのその奥から現れるか、その子自身のからだに巣食ったか秘められたか忘れられた異形の姿や力や技や知恵から湧いてくる。他愛もないし辻褄は合わないし一貫性もない空想だから、はけ口もない、毒も持たない、洗練もされない。
それでも折々に宿町へ歌舞伎役者たちが巡業へ来るとき、貸本屋が売り込みへ来るとき、冠婚葬祭があるとき、たっぷり熟れたその子の頭のなかのむらむらはひと通りの定形を与えられて、怨霊は怖い、心中は悲しい、色好みは醜いと決まりきった教えと答えに固まっていく。乏しい思い出は大切に大切に磨かれ清められすりつぶされて、当家代々の暮らし方と混ぜ合わされて、その子の口癖と躾にしんしんと降り積もった。それは新しいストーリー・テリングの種だった。咲き方を知らないまま枯れる芽だった。
そこへ、
「郵便箱というものがあるようですよ」
と祖母から聴いたとき、
「なんですかそれは」
その子はこの宿の「外」を「謎」として直感していたし、
「私には手紙を書く用がないのですが」
自分の暮らしには要らないものだとつっぱねておきながら、
「会いに行けばいいのでは。あなたはいつも暇そうです、私とちがって」
日々の忙しさがちょっと疎ましかったものだ。手に入れてもいないものへの心残りと悔しさをひっくるめて恋心だと呼べるなら、その子はきっと恋をしていた。手紙を読み書きして暮らす日々に。口を閉じたまま交わされる対話に。どこにもいない宛て先に。文字を使いこなす自分に。
★
そんなふうにしてその子の少女時代は、はっきりした区切りのないまま暮れた。もう二十年おそく生まれていたら、文芸誌の懸賞に自作の詩や作文を送りつける子に育ったかもしれない。そして若き浪漫主義文学者にかぶれて、学校嫌いになって、電化製品に憧れながら、見合い結婚に戸惑いつつも主婦になるのだ。
だけどその子の朝は毎日五時半に始まる。部屋中の布団を押入れへあげたら、室内で最年少の二人が物置きへほうきと雑巾とちりとりを取りに行く。部屋の奥から手前へ向かって一人が掃き、もう一人が後へついて拭く。すべての畳を拭き終えたら、仏壇へ行って家族揃って合掌、その日の段取りが父母から伝えられる。大勢が炊事場へ床を踏み鳴らしながら移ると、麦飯とたくわんに里芋と白菜の味噌汁が朝食である。それぞれの席へ使用人が配膳するのを悠長に待っていられる身分ではないから、ここでも最年少が全員のお椀を満たす役目だ。年下の奉公人がやって来るまで、これはいつもその子のすることだった。
客向けの朝食を出し終え、宿中の布団がすっかりたたまれ、旅立ちと出歩きの客を見送ると、ちょっと番茶でも飲もうかというひと時があって、その子は三男を遊んでやる。そこへ次男が入って来て、
「その子さん何をしておいでだ」
その子はにっこりして三男に向かい、
「どうもこの子は不器用でいけません」
「こんなものはできなくってもいいや」
「できなくってよければ、なぜ教えてくれと言いました?」
その子は口元で笑ひながら、二人が反故紙でつくった折り鶴を次男に見せた。
「お前らがつくったのかよ」
「男は不器用だからダメだね」
「その子のはこの下手くそなやつだな」
悪ふざけが喧嘩に変わる前に休憩はおしまいになって、飲み終えた湯のみをそれぞれ大だらいでじゃぶじゃぶ洗ってから、そわそわと持ち場へ帰っていく。ここで暮らしているのは、社会保険も残業代も休日手当もない、住み込みの長時間労働者ばかりだ。
★
こうして、その子は「女の子であること」を消費していったらしい。幼さと可愛らしさがせめぎ合う年頃を経て、可愛らしさと大人っぽさが鍔迫り合いをする頃にその子は嫁へ行った。その時こっそり燃やしたから、反故紙の裏へ暇を盗んでは書きつけた、その子が思いつくこの世でいちばん美しくて笑えて泣ける宿屋の長女の冒険譚は、どこの誰にも知られないまま灰になって消えた。おまけに私たちの調べまちがいのせいで、「その子」はこの物語でしか生きていられなくなってしまう。
というのも、彼女が生まれ育ったころ、名前に〈子〉が付く女は士族にさえ稀で、東海道の隅っこにある名もない宿屋で働いていた彼女に、女の子であり続ける贅沢が許されるはずはなかったのだ。
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