愛猫を看取った話
三浦常春
看取るまでの話
半年前の今日、2024年7月2日。
我が家の猫、愛猫の一匹が虹の橋を渡りました。
享年15歳。
まだまだこれから、という年齢でした。
私の家には猫が二匹いました。祖父母宅に住みついた野良猫が生んだ兄妹猫です。兄妹とは言いますがどちらが先に生まれたかは、実は分かっていません。
生後3ヶ月頃に我が家にやってきて、以降完全室内飼い猫として暮らしていました。
そんな彼らのうち、兄である猫が今回の主人公です。
◆ ◆
事の始まりは2023年11月。
ご飯を食べている最中に吐き出すような仕草をしました。
ドライフードを口に含んではペッと出したり、手で口ともを掻くような仕草をしたり、果てにはご飯を残して去ってしまいました。
ご飯大好きでどんな時でもガツガツ食べる子が、ご飯を残した。
明らかな異常です。
すぐに病院に連れて行きました。
曰く「歯周病であろう」との診断で、該当箇所の抜歯の手術が行われました。
術後の猫はとても痛々しい様子でしたが、口の中の傷が治るといつも通りにガツガツご飯が食べられるようになりました。これで元のあの子に戻った。
その時は、そう思いました。
左頬が腫れてきました。
左目が潤んで、下瞼がわずかに押し上げられたようになりました。
すぐにかかりつけの医者に行ったのですが、「術後の経過がよくないのだろう」とのことで、目薬を処方されて様子を見ることにしました。
しかしそれでも頬の腫れは引かず、医師の提案で頬の膿を取り除く処置をすることになりました。
頬に開けた穴から垂れる膿と体液。
それを拭う日々。
クッションタイプのエリザベスカラーを毎日交換しながら、「いずれよくなる」と言い聞かせました。
1週間に1回の通院。
それがしばらく……3-4ヶ月、続きました。
なぜすぐにセカンドオピニオンにかからなかったのだろう。今思えば、そんな後悔でいっぱいです。
2024年5月下旬。
「これだけ治りが遅いということは腫瘍があるかもしれない」
医者が言いました。
「だが、調べたり治療をするための設備がうちにはない」
そう言って紹介されたのは、県外の病院です。
うちの子は車が大の苦手で、車に乗せるだけでほえ〜っほえ〜っと騒ぎます。
万全の体調でない今、長距離を移動していたずらに体力を消耗させたくありません。
そう思い諦めかけていたのですが、つい最近、近くに大きな動物病院ができたことを思い出しました。縋る思いでホームページを見てみると、放射線治療を扱っているとの文言が。
ようやく見つけた光明。
さっそく新しい病院へ行き、検査をしてもらいました。
結果は、
猫の「がん」の中で最も多いガンだそうです。
摘出や放射線治療はほぼ不可能。
左頬あたりから内側に広がっているから、進行して脳を圧迫すれば発作が起きるし、喉を圧迫すれば窒息の恐れがある。
おそらく8月は迎えられない。
いざという時は、楽にしてあげる選択肢を取らないといけないかもしれない。
唐突な余命宣告。
そして、すぐ手の届くところに降りてきた「安楽死」という選択肢。
どうしてうちの子が。
ここに死にたいやつがいるのに、どうして命よりも大事な愛猫を連れて行こうとするのか。
どうしてもっと早くこの病院に来なかったのだろう。
もっと早ければ、治療ができたかもしれないのに。
悲しくて悔しくて、ボロボロ泣きながら必死に医者の話をメモに取っていました。医者も本当につらそうで、つらい時期だけを任せてしまうのが申し訳なくなりました。
お医者さんは3つ選択肢を提示してくれました。
1つ目に、抗がん剤治療。
抗がん剤を使えば進行を遅らせることはできるが、効く確証がない上に副作用がある。延命できたとしても数ヶ月。
2つ目に、緩和措置。
抗腫瘍薬や炎症止め、痛み止めなどを使って症状を和らげる。
3つ目に、安楽死。
苦しむ前にという手もなくはない、という、あくまで可能性の話です。また、将来的な選択肢の一つでもありました。
悩みに悩んだ末、私たちは緩和措置を選び、看取るための準備を始めました。
緩和措置を選んだ私たちの生活が劇的に変わることはなく、痛み止めなどのお薬が数個増えただけでした。
歯周病の抜歯を経てからというもの、ドライフードをお湯でふやかしたものをあたえていましたが、それを食べなくなると潰して与え、それすら受けつけなくなると、高齢猫用の流動食を与えました。
流動食を与える頃には口が開きづらくなっている上にお気に召さなかったようで、少し舐めては去り、私はちゅ〜るを混ぜてご飯を誤魔化しつつ、追いかけてはまた少し舐めてもらっていました。
大好きだった食事の時間が苦痛の時間に変わる。それが本当に申し訳なくて、でも少しでも長く生きてほしくて、1時間近くかけてゆっくりゆっくり食べてもらう毎日でした。
やがて流動食を受けつけなくなると、「総合栄養食ちゅ〜る」や「低リン低ナトリウム エネルギーちゅ〜る」を与えました。
流動食と大して変わらんやろと思いましたが、本猫はちゅ〜る100%の方が好きなようで、流動食の頃よりは少し食いつきがよくなったように感じました。
投薬用のちゅ〜るも好きでしたね。
ちゅ〜る、恐ろしい子……。
猫には毎日3食与えているのですが、1食あたりの食べる量が減ってくると食事の回数を増やしたり、濃いミルクを与えたり、いろいろな方法を試しました。
2024年6月下旬。
とうとう食事を一切受けつけなくなりました。
食事を摂らなくなってからは本当に早かったです。
ぽよぽよだった身体はみるみるうちに痩せ細り、口が満足に動かないから水飲み場の前にじっと佇んでは力尽きたように水皿に突っ伏す。
私にできることは歯茎の隙間にシリンジを突っ込み、お湯やミルクを注ぐことくらいです。
左頬の扁平上皮癌は喉の方に進行しているのか、嚥下すら叶わなくなっているようでした。
もう長くない。
医者に見せなくても分かります。
香箱座りやスフィンクス座りすらもできなくなって、横になっている時間が圧倒的に増えました。
それでも日課になっていたマッサージしてやるとゴロ…ゴロ…と、鳴らしづらいだろうに喉を小さく鳴らしてくれるものですから、なんて健気なのだろうと嬉しく、何よりも無力感に苛まれました。
2024年7月1日。
半日で仕事を終えた私は、猫に外の景色を見せてやることにしました。
愛猫はどうやら階段を上がってすぐのところにある踊り場が好きなようで、動けなる前からずっとそこにいました。
猫を横たえたベッドごと運んで、久しぶりに居間へ連れてきました。
居間に設けた窓から見える景色は猫のお気に入りでした。死ぬ前にもう一度見せて、陽の光に当ててやりたい。そう思ったのです。
家族が帰ってきて、食事の時間になれば食卓の近くに場所を移動し、久しぶりに一家そろっての食事の席になりました。
今思えば、第六感的なものが働いたのでしょう。
その日の夜、愛猫の状態が急変しました。
2024年7月2日、午前1:10。
家族に見守られながら、愛猫は旅立ちました。
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