顔文字少女は対人関係を読解したい

ごんの者

第1話

 彼女は人の顔を覚えるのが昔から苦手だった。正確に言えば、相手の顔を一度たりとも正しく認識できたことがなかった。一般的に人の顔を覚えられない原因は、顔のパーツは把握できてもそれらを一つに繋ぎ合わせることができないからだと言われている。例えるならば、パズルのピースが認識できてもその正解に辿り着けないようなものだ。しかし、彼女はそのパズルのピース自体、つまり顔そのものが見えていなかった。

 

 それに気づいたのは物心がついてすぐの頃だった。一緒に遊んでいる友達の顔が何か文字のようなものに覆われていたのだ。ただ彼女はそのことに何の疑問も抱かなかった。きっと他の子も同じように見えているものだと思いこんでいたからだ。

 自分が他の友達と違うことを自覚するのには、そう長く時間を要さなかった。


「ねえねえ、高橋くんってちょっとかっこよくない?」

 

 家が近くでいつも一緒に遊んでいる斎藤さんが内緒話をするようにそう言った。彼女は斉藤さんの言っていることがよく分からなかった。恋愛感情の芽生えが人より遅かったからではない。彼女の言う「かっこいい」が何を指しているのかよく分からなかったからだ。

 斉藤さんの言う高橋くんとは、近所に住んでいて一緒に遊んだりする男の子だ。いつも赤のトレーナーを着ており、たまに意地悪をしてくる。それ以外には特に印象に残らない子だった。


「高橋くんってあの意地悪な高橋くん?」

「うん。意地悪かは分からないけど、この前貸した漫画の男の子に顔が似ている気がしない?」


 彼女はしばらく答えに困ってしまった。

 斉藤さんに借りた漫画は主人公の女の子が美形の男の子に振り回されながらも恋に落ちていくというありがちな恋愛ものだ。確かにあの男の子は格好良く描かれていたが、それが高橋くんに似ているとは到底思えなかった。

 なぜなら、高橋くんには顔がなかったからだ。

 正確に言えば、顔はあるのだが文字に覆われていてその内側を見ることができない。それは目の前にいる斉藤さんも同じはず。だから、彼女は純粋な疑問としてこう尋ねてしまった。


「高橋くんがどんな顔をしてるのかなんて分からないよね?」

 

 それから斉藤さんと何を話したかはあまり思い出せない。それまで友達だった斉藤さんがまるで宇宙人のように思えたからだ。きっと斉藤さんも同じように感じたのだろう。目の前の彼女の顔には「こわい」の三文字が文字通り浮かんでいた。


 斉藤さんとの一件を経て、彼女は自分が他とは違う存在だと認識した。自分が今見えている世界は友達が見ている世界とは違うことに気付かされ、広い宇宙に一人放り出されたような途方もない孤独感を味わった。学校で先生が教えてくれるそれも、教科書に載っているこれも、全て自分には関係のないものに思えてしまい、彼女は塞ぎ込むようになった。

 

 両親に打ち明けたとてこの悩みが解決しないことを彼女は知っていた。なぜなら、彼女の両親は決まって自分のことをこう褒めてくれたからだ。


「****は、すごく綺麗な顔をしているね」


 嬉しいはずのその言葉は、血の繋がる両親ですら彼女と同じ世界を見ていないことを裏付けていた。

 

 そんな彼女を唯一繋ぎ止めてくれたものが本だった。彼女は現実世界の顔を見ることができなかったが、絵本や漫画のキャラクターの顔ははっきりと認識できたのだ。

 本の中であれば、自分も他の人と同じように、登場人物を美しいと、格好いいと思えることができた。それは、彼女が他の人と同じ世界を覗き見ることができる天窓のような存在だった。

 

 彼女はやがて、自分が見えている世界に一定の法則があることに気がついた。自分の視界に映る他者の顔は常に文字で覆われているが、その文字数が見る距離によって増えたり減ったりするのだ。

 視界に捉えている人が遠くにいる時には2、3文字程度の言葉が見え、近づくほどにその文字数が増えていく。それは視力に似ていて、近くで見るほど顔を覆う文字が多くなった。

 また、顔を隠す文字の中身にも傾向があることに気がついた。

 遠くで捉える2、3文字の言葉は曖昧な輪郭のようなもので、その人の主義や信念を端的な熟語で表現していた。たとえば、真面目そうな人であれば「誠実」の二文字が、常に輪の中心にいるような人であれば「協調」の二文字が浮かんでいた。

 しかし、実際の顔と同じように近づけば近づくほどにその言葉のディテールが見えてくる。「誠実」の二文字が浮かんでいた人も近目で見れば、「周囲の期待に応えるために誠実であろうとしているが、それ故に期待に応えられない人を自然と見下してしまう」と、その人の内面を精緻に捉えた文章が顔一面に綴られている。遠目では「協調」と書かれた人だって近くに寄れば、「周囲の人間が自分から離れることを極端に恐れており、友達に優先順位をつけて自分が不利にならないよう取捨選択を行なっている」と、「協調」とはかけ離れた深層心理が浮かび上がってくる。

 

 彼女はそれを見るたびにひどく憂鬱な気持ちになり、積極的に他者と関わることを避けるようになった。当然友達もほとんどできず、より一層本の世界に没頭するようになっていった。

 

 中学に進学すると、顔が見える絵本や漫画だけではなく、小説や純文学も読むようになった。登場人物の心情を色彩鮮やかな言葉で表現する文学作品は彼女の感性に強く影響を与え、それに比例するように、他者の顔に浮かぶ言葉もより鮮明なものになった。それまでは表現できなかった心の機微までもが言語化できるようになり、読心術とまでは言えないが、本人さえ気づいていないその人の本質が見えるようになっていた。

 

 話す相手の本質が見えることで、これまで苦にしていた他者とのコミュニケーションが上手くできるようになった。その人を作り上げる核となる部分が見えるので、それに沿って会話を進めれば相手は気分よく話をしてくれた。


 気がつけば自分の周りにはたくさんの友達がいて、クラスの中心的存在になっていた。

「****ちゃんと話していると楽しい」、「****ちゃんは悩みを聞くのが上手い」と友人の間で評判になり、まるで銀座のママのように次から次へと自分に悩み相談を持ちかけてくる始末だった。

 特に多いのが恋愛に関するもので、気になっている人にどう話しかけたらいいのか分からないと相談されれば、その相手の顔を見てそれに適した話題を教えてあげた。

 思春期の色恋事情というのは実に単純で、男子も女子も恋愛という行為そのものに恋しており、自分の本質に合ったパートナーを探すというよりは、自身の学校生活を彩ってくれる相手を探しているようだった。彼女から見たら本質がかけ離れた二人であっても、その瞬間に喜ぶ言葉を教えてあげればカップルが成立する。

 刹那的な感情の動きに囚われる友人たちは愚かしくもあったが、その反面羨ましくも思えた。芯にあるものが異なるため、結局すぐに別れてしまうのだが、その違いに気づいていくまでの期間もそれはそれで尊いものに思えたからだ。

 

 彼女自身も異性から告白されることがあった。両親が褒めてくれたように、彼女はどうやら綺麗な顔をしているようで、クラスの中心になっていくうちに、同級生から想いを寄せられることも増えた。

 ただ彼女からしたら顔も見えない異性に想いを馳せることは現実的ではなく、ましてや近づけば近づくほどにその醜い内面を言語化していく生き物に気持ちが傾くことはなかった。

 周囲に人が増えるほど、彼女の心は疲弊と退屈の二文字に覆われた。ただ自分が過ごしやすいように相手の顔文字を伺い、現代文のテストのようにそれに適した回答を発するだけの会話をこなす毎日はひどく退屈であり、親密になるほどに見えてくる友人たちの繊細な内面は彼女の精神を着実に擦り減らしていった。

 

 やがて彼女は大学に進学した。学部は自身の人格形成に深く影響を与えた文学を専攻にした。

 小さい頃は他者の顔が見えないことに絶望して耐え難い劣等感を抱いていたが、この頃になると顔が見えずともそれよりも重要な相手の本質が見えることが何よりの武器となっており、対人関係に苦労することなく平穏な毎日を過ごしていた。

 ただ円滑なコミュニケーションと楽しいコミュニケーションは似ているようで非なるもので、失敗するかもしれないと頭に過ぎりながらも相手を解りたいと試行錯誤するその過程を彼女は体験することがなかった。

 

 その日、彼女はいつものようにキャンパス内のテラスで読書をしていた。読んでいた本は今でも思い出せない。常に本を中心に世界が回っていた彼女からするとそれは異常事態である。その瞬間、彼女の世界が本ではなく目の前の現実を軸として回り始めたからだ。

 自分の3つほど向かいの席に腰掛けている男性。初めは何となくいつもの癖で男の顔を覗き見ていた。正確にいえば、その表面を覆う文字を読もうとしていた。

 男の顔には「愛」という一文字が添えられていた。男性の顔には珍しい言葉であるが、今までいなかったわけではない。近くで見れば「愛」という耳障りの良い言葉を隠れ蓑にした見るに耐えない劣情に過ぎなかったなんてことが大半である。それを確かめたかったわけではない。ただ彼女はなんとなく、その男の一つ向かいの席に移動して、再び彼の顔を見遣った。


 「愛」


 そこには相も変わらず「愛」の一文字が爛漫と浮かび上がっていた。彼女はえもいわれぬ感情を覚えた。彼女が今まで出会ってきた人間の中で、遠目で見ても近くで見ても顔に浮かぶ言葉が変わらなかった者はただ一人としていなかったからだ。人間は誰しもこうなりたいという信念や道義がある。しかし、その内面では現実との葛藤や押し込めてきた情念があり、近目で見るとそれはまるで肌荒れのように浮かび上がる。それが目の前の男にはなかった。まるで精巧に造られた美術品のように一貫して浮かぶ「愛」の一文字に彼女は目が離せなかった。

 

 彼女は初めて自発的に人と話してみたいと思った。でも、彼女にはその術が分からなかった。顔の文字に沿って合理的なコミュニケーションしかしてこなかったからだ。彼女が初めて話してみたいと思った男性は「愛」という一文字しか手がかりがなく、話す糸口が掴めなかった。彼女は初めて自分がしてきたものは他者とのコミュニケーションではなく、顔文字の読解に過ぎないことに気がついた。

 

 男性の名前は伊藤といい、自分と同じ文学部の一回生らしい。彼女はキャンパスで伊藤を見かけるたびに、自然と彼の姿を目で追いかけていた。やがて、幼少期の頃から切に望んでいた想いが再び湧き上がるのを感じた。

 

 「彼の顔を見てみたい」

 

 生まれてから今まで他者の顔を見たことがない。そんな自分が今更顔を見れるようになるとは到底思えず、いつしかその夢はその辺の道端に捨ててしまった。捨てたと思い込んでいた。

 どうやら、自分がいま伊藤に抱いている感情は人を愚かにするようだ。彼女は中学時代の友人たちに心の内で謝りながら、他者の顔を見る方法をあてもなく探し始めた。

 

 彼女は自分の人生を支え続けてくれた本に助けを求めた。文学部の図書館は蔵書数が他とは比べ物にならないほど多く、彼女は片っ端からそれを調べ漁った。そして、一冊の本に辿り着いた。

 その本はこう語った。人間の五感とはそれぞれが互いに補完し合うことで、目の前にある物を情報として伝え、感情を動かす。そのうちのどれか一つが欠けた場合には、残りの感覚がそれを補うように発達するのだ。たとえば、耳が聞こえない人は視覚や触覚が他の人より敏感になるといった具合に。

 つまり、自分が顔を文字として認識することも、欠落した何かを補完しているのではないか。本来であれば人に備わっている機能を補完するために、顔に文字が現れるのではないかと彼女は考えた。

 

 彼女は顔に浮かぶ文字を頼りにこれまで人とコミュニケーションを取ってきた。だが、それはおよそ健全ではないはずだ。本来、自分以外の人の心など分かりようがなく、自分の気持ちを相手にぶつけ、お互いに傷つきながら価値観の差異に気づいていく。その過程は恐ろしく険しいもので、そこまでしても分かり合えない人だって当然にいる。だからこそ、分かり合える人に出会えた時に、人はどうしようもなく心を踊らせ、それを失いたくないと足掻くのだろう。彼女が宇宙人だと拒絶してしまった斉藤さんだって同じ星の元に産まれていて傷つくことを恐れずに言葉を交わせば分かり合えたかもしれない。

 

 それからの彼女は顔を見ずに人と話すようになった。常人のコミュニケーションとしては0点だが、彼女からすると顔の文字に頼らない最初の一歩だった。当然上手くはいかず、これまで順調に人間関係を築けていた彼女の環境は一変した。

 空気が読めない、人の気持ちを逆撫でする、話していてイライラする、気持ち悪い、と顔を見ずとも相手の感情が伝わるぐらいには、意思の疎通が上手くいかず、彼女はみるみる孤立していった。それでも人と話すことをやめず、嫌われてからがスタートとばかりに、震える足を掌で無理やり抑えつけて会話をしようと試みるが、その度に声が詰まって地上にいるのに溺れそうな感覚に陥った。

 

 大学生にもなるとイジメなんてものはないが、コミュニティが固定されていない分、如実に人が離れていくのを感じて酷く寂しい思いをした。自分の見ている世界が他の人とは違うことに気がつき、一人真っ暗な宇宙に放り出されたあの時の気分を、彼女は再び思い出していた。ただ、そんな真っ暗な宇宙にも燦然と輝く一つの星があり、キャンパス内で伊藤さんを見かけるたびに、彼女は吸えない酸素を全身で取り込み、折れそうな心を今一度奮い立たせていた。

 

 そんな彼女の努力も虚しく、顔の文字が消えることもなければ、コミュニケーションの上達の気配も一向に見えないまま、およそ2年が経過しようとしていた。

 彼女の心は限界に近づいており、もう自分はあの人の顔を見ることができないんだと半ば諦めかけていたところ、携帯に一通のメールが届いた。それは小さい頃に近所でよく遊んでいた斉藤さんからだった。

 

「****ちゃん、久しぶり。もし良かったら一緒にご飯でも食べませんか?」

 

 自分が人とは違うことに気がつくきっかけになった斉藤さんに会うのは勇気が必要だったが、あの日以来話さなくなってしまった友達に会える最後のチャンスだと思い、彼女は食事に行くことにした。

 

 

「****ちゃん、本当に久しぶりだね。昔からそうだけど、より綺麗になっててびっくりしちゃった!」

「うん、ひ、久しぶりだね。斉藤さんも元気そうでよかったよ」

 

 久しぶりに会った斉藤さんは、当然ながらあの頃とは雰囲気が変わっており、顔は見えないがすごく大人びているように感じた。対して自分はあの頃から何も変わっていないようで、ただそこにいるだけで辛くなってしまっていた。


「急に声かけちゃってごめんね。ほら、昔は家も近くてしょっちゅう遊んでたでしょ?でも、ある日を境にあまり会わなくなっちゃって……」

    

「そうだね……、あの時は本当に」

 

「ごめんね!」

 

 彼女が謝るより先に斉藤さんが頭を下げていた。

 

「私、あの日さ、****ちゃんが私のことをからかってると思って怒っちゃったんだよね。友達と喧嘩したのが初めてだったから仲直りの仕方も分からなくて、今の今まできちゃった。

だから、今日*****ちゃんに会った時にすごく自分が情けなくなった。自分は未だにあの時のことを引きずってるのに****ちゃんはこんなに綺麗に大人びちゃって。なんか自分だけ成長しないまま年だけ重なっちゃったなって」

 

 彼女は虚をつかれた。なぜ自分は声を出していないはずなのに、自分の思いが聞こえるんだろうと。暫くして気がついた。それを発しているのは斉藤さんで、つまり、斉藤さんと自分は同じ気持ちで。

 

「今日ね、昔一緒に読んでいた少女漫画の最終巻の発売日なんだ。だから、最初の感想は最初の友達と共有したくて」

 

 気づけば彼女は泣いていた。あの日から一度も溢れることのなかった涙が堰を切ったように溢れていた。

 

「だから、私と仲直りしてくれるかな?」

 

 彼女の視界はもう何も映していなかった。ただ呼応するように深く何度も頷いた。


「うん……!私も仲直りしたい!」


「よかった……、目も合わせてくれないからきっと嫌われているんだなと思ってた」

 

 彼女は涙を拭って、慌てて斉藤さんの顔を見あげた。そして、目を丸くした。

 

「……斉藤さんも、すっごく綺麗になったね!」

 

 そこからの話はよく覚えていない。でも、今度のは嬉しさ余ってのことだった。初めて見た友人の顔は確かに大人びていて、でも涙に濡れた子どものような表情も見え隠れして、彼女は幼少時代の思い出を取り戻すかのように斉藤さんの顔を暫く見つめていた。

 そこからは斉藤さんが持ってきてくれた少女漫画の最終巻を読み、二人で感想を言い合った。感想を言い合う中で、漫画に出てくる男性キャラが近所で一緒に遊んでいた高橋くんに似ていたという話題になり、その流れで斉藤さんが高橋くんに電話をかけた。高橋くんは彼女が通う大学の近くに住んでいるようで、今度は高橋くんも交えて3人で大学の学食でも食べようかという話になった。彼女は斉藤さんの屈託のない笑顔を見ながら、初めて人と分かりあう尊さを体感していた。

 

 あの日以降、彼女の視界には顔を覆う文字は見えなくなった。いざ顔が見えるとなるとそれはそれで緊張するもので怖気ついたりすることもあったが、彼女はようやく人の目を見て話をすることができるようになった。

 顔に浮かぶ文字がなくなったことで、昔のように円滑にコミュニケーションを取ることはできなくなったが、彼女は一つも後悔していなかった。なぜなら、彼女は初めて友達ができたからだ。

 

 

 

 

 

 

 早鐘を打つ鼓動を深呼吸で宥めながら、彼女は伊藤に声をかけた。彼女に闘う勇気を与えてくれた人に。


「こんにちは、少しお話してもいいですか?」

 

 初めて見る伊藤の顔は、それはそれは端正な顔立ちをしているが、その瞳は空洞のように暗く、何か気後れするような独特な雰囲気を醸し出していた。伊藤は彼女の声には眉ひとつ動かさず、ビー玉のような目でこちらを捉えながら機械的に答えた。

 

「文学部の****さん。人の気持ちを汲むことが苦手で大学では有名な嫌われ者。でも、きっと誰かが自分のことを分かってくれると信じている。可哀想に。もっと早く僕に話しかけてくれれば救いの手を差しのばせたのに」

 

 彼女は底冷えする感覚を覚えながら目を閉じた。聞けば伊藤は新興宗教の学生部で教徒の勧誘をしているとの話だった。彼女は伊藤が説く愛の話を聴きながら、希望の星が静かに消えていく音を確かに聞いた。

 

 暫く目を閉じていると、伊藤の姿はなくなっていた。彼女は唇を強く噛み締めながら、あの底が見えない瞳を忘れようとキャンパスを走り去ろうとした。

 自分は何のために戦おうと決意したのか。周囲にいる学生たちの顔も途端に能面のように見えてきて、何を考えているか分からない恐怖に息が詰まりそうで、彼女は下を向きながら構内を走った。

 

 暫く走ったところで、彼女の視界は痛みを伴いながら地面に急接近した。前を見ず走ったために段差に躓き転んでしまったようだった。酷く惨めな気持ちになりながら起き上がろうとすると、目の前の男が手を差し出した。

 

 「大丈夫ですから、自分で起き上がれます……」

 

 そう言おうとするや否や、男は彼女の手を掴み起き上がらせた。

 目の前の男は赤いトレーナーを着ており、大層心配した様子だった。

 

 「大丈夫かよ、****。すぐ救護室行くぞ!この大学にあるかは知らないけど」

 

 顔を見て、彼女は納得した。

 

 「なんだよ、俺の顔に何かついてるか?」

 

 「ううん、ただ昔読んでいた少女漫画の男の子にそっくりだなって、そう思っただけだよ」

 

 彼女は生まれて初めて刹那的な感情に囚われた。

 

 

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