第1話「家族」
誰かを助けて亡くなったとか。
激しい激動の果てに、魂が燃え尽きたとか。
俺の人生の最後は、そういう派手な終わりではなかった。
前世で自分の死がどういう扱いになったかは最早知る由もないが、おそらくは凍死とか、そういう風に処理されていることだろう。
今となってはさして興味もない問題であるけれど。
そうして、一つの人生に幕を閉じた俺は、当然のように異世界に転生した。
転移ではなく、転生。
生まれ変わって、赤ちゃんからやり直しているのだ。
自分の幼い手を見下ろす。
転生してから、言語も分からず、見慣れぬ人間に囲まれて過ごすこと早数年。
俺は五歳になった。
成長しきっていない指は、自分が思うように動かせないし、未だに大人としての体の感覚が若干残っている所為で、モノを掴むときなどは違和感を覚える。
人は慣れる生き物であるが、それでも三十年重ねた歳月はそう簡単に忘れられるものではない。
不便ではあるが、しかし早く馴れたいとは思わなかった。
むしろ、覚えていたいとさえ思う。
転移と違って、アイテム一つ持ち込めなかった俺にとって、自身の記憶と体の感覚だけが過去の証明なのだ。
あれだけ逃げ出したいと思っていた人生。
しかし、いざ失ってみると意外にも愛着があったことに気付く。
「最初は、未練なんてないと思ったんだけどな」
赤ちゃんとして生まれなおした当初。
俺は転生したことにも気が付かなかった。
何故なら、生まれたての体というのは、視界も発達していないし、耳も良く聞こえないし、四肢も言うことを聞かない。
自分が声を上げても、口も満足に動かないのだ。
だから事故に遭って、入院しているのだと勘違いしてしまった。
ラノベやマンガでよくある転生の主人公は、すぐに自分の状況を飲み込んで、鍛錬を始めたり、才能の片鱗を見せたり、能力を授かっていることに気が付いたりするが、俺は自分の置かれている状況を把握するだけで相当な時間を使った。
「クランツ?どこにいるんだ?」
などとぼんやり考えていると、俺を呼ぶ声がした。
クランツというのが、この世界での俺の名である。
なんでも、縁起がいい名前であるらしいけれど、その由来を聞かされたのはこの世界の状況把握が十分ではなかった頃。
細かい内容は完全に忘れてしまった。
まあ、名前の由来など些末なことだ。
最悪、名などAとかBみたいな記号が元であるとかでもいいくらいだ。
名など他人と自分を区別するという役割さえ果たしてくれればそれでよい。
と、話がそれたな。
「ここ、ここにいるよ」
俺は呼び声のした方に向かって、相手に聞こえる最小限の声量を出す。
俺が今いるのは、自宅の書斎に当たる場所。
書斎と言っても、豊富に本が並んでいるわけではなく、本当に必要な数冊が無造作に置かれているだけの物置部屋のようなものだ。
俺がこの部屋に来るのが主に本目的だから、そう呼んでいるだけで、家族は屋根裏部屋なんて呼称している。
「クランツ、またここにいたのか。こんな場所にずっといたら、病気になってしまうぞ」
「フィル姉さん、分かっているけど…でもここがお気に入りなんだ」
「それが分かっているから、私も強くは言わないんだぞ」
全く、と屋根裏に続く階段から顔を覗かせた女性が呟いた。
長い黒髪に、青い双眸。
背の低い、俺の家族の一人であり、姉に当たる少女である。
名はフィルという。
「今日は何の本を読んでいたんだ?」
「御伽噺をいくつか。意味が分からないのも多いけど、結構面白いんだよ」
柔らかな雰囲気で、口調も穏やか。
年は正確なところは把握していないが、五歳以上俺と開きがあるのは明らかだ。
前世で例えるなら、中学生手前くらいの年齢。
自分がそれくらいの頃は、他人への気遣いなど一切考えることをしなかったのに比すれば、フィルは随分と精神的に大人な少女である。
こうして、弟の下らない話を積極的に聞いてくれるぐらいには姉としての役割を十二分に果たしていた。
そんなフィル姉さんは、おそらく俺とは血が繋がっていない。
正確なところは聞かされていないが、外見が似ていないのだから、察するところがある。
フィル姉さんは柔らかく長い茶色の混じった黒髪で、白い肌。
それに対して、俺は漆黒の固く短い黒髪に、薄い小麦色の肌。
きっと異母兄弟だとか、父が違うとか、その辺りなのだろう。
家に母はいるが、父はいない。
そんな母は、完全な茶髪でかなり若かった。
所謂母子家庭という奴だ。
だが、家は貧乏という訳でもなかった。
母は収益の高い仕事をしているわけでもなく、身売りしている様子もない。
専業主婦のような生活をしているが、食べ物に困った経験もない。
もしかしたら、貴族の分家か何かで、仕送りがあったりするのかも。
どれも詳しい事情は聞かされていないので、憶測でしかないが。
「へえ、クランツはそういうのに興味がないものだと思っていたぞ」
「僕だって物語ぐらい読むよ」
「ははは、それもそうか。クランツはまだ幼いということを、時々思い出させられるな」
「…」
ちなみに俺は、人と話すときは一人称を日本語では僕に当たるものを使用している。
それは、雰囲気が大人びていると指摘されることが多いからだ。
自分が子供であると、言い聞かせるための自戒でもある。
子供らしさを残していないと、しっかりしている子として扱われることになる。
そうなれば、期待される。
年相応以上の働きを。
年齢以上の精神性を。
折角子供に戻れたのだ。
今ぐらいは小さな子供に許されるくらいのわがままは通しておきたいものだ。
「でも、あまり閉じこもってばかりは感心しないな」
ほら、外を見てみろとフィル姉さんは外を指さした。
この屋根裏にはこじんまりとした窓がある。
そこから、まだ日の高い日中の陽光が差し込んでいる。
俺は傍によって、階下を覗く。
そんなことしなくても、何があるかは明白ではあったけれど…。
「はっ! ふっ!」
抜けるような青空をバックに、金色の麦畑が遥か彼方まで広がっていた。
風に靡く金色の色彩は、優しい音を立てて揺れている。
その麦畑の手前の、広めのスペース。
広いうちの庭だ。
その庭先で、剣を振るう少年が一人。
薄い桃色の長髪を揺らす、整った顔立ちの男。
年は幼く、体躯はまだ小さい。
服を脱いだことで露わになった美しい筋肉質の上半身が汗に濡れて輝いている。
髪と同色の桃色の瞳は、真剣に剣の切っ先を捉えていた。
「アーク兄さん…」
名は、アーク。
俺の一つ年上の兄である。
見目の違いから、彼も血のつながりは薄いと思われる。
しかし、彼は俺の兄であった。
優しい性格で、面倒見がよいので、俺は好きだ。
「アークは朝から庭仕事をして、更にああして自己鍛錬を積んでいるんだぞ。少しは見習って、体を動かすことだな」
「分かってるよ、フィル姉さん」
俺、クランツ。
母。
フィル姉さん。
アーク兄さん。
父は不在なので、この三人が俺の新しい世界での家族である。
そして、この時の俺は知らなかった。
この兄であるアークという男が、どんな男であるのかということを。
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