第二十話

 部屋の中央には銀色に輝くステンレス製の手術台があった。

 その上には人影が横たわり、全身がぼんやりと赤い光を放っている。

 周囲には血が飛び散り、床一面も赤く光っていた。

 腹は大きく引き裂かれ、無造作にひきずりだされた腸管がところどころ破け、内容物がもれでている。悪臭がひどく、解剖知識がろくにない人間が臓器の位置関係も分からずに適当に切り開いたようであった。

 あの研究で虫に刺された男だろうかと思ったが、見覚えのない顔だった。

 思っていたよりも若い。ひょっとしたら同い年かもしれない。

 そばには防護服を着た人間が三人立っており、ラシールに気づくとすぐさま頭を下げた。

「君の言ったとおりだった。虫に刺された直後、血を吐いて死んだんだよ。虫が原因だったんだ。あのマーヴですら見落としてた事実だ!」

「マーヴ先生は今、どこにいるのですか?」

「逃げたって言ったじゃないか。研究所の消毒作戦を指揮したあと、あわててどこかに行っちゃったんだ。でもそんなことは今、どうでもいい。僕はこの発見をすぐにでも発表したい。この病気を解明したら大学のポストをもらえるかもしれないんだ。とりあえず、病理検査は君に頼みたい。もちろん論文に名前をのせよう。何が必要だい?」

 言いたいことは山ほどある。しかし、俺の言動ひとつでアルバートの命が左右される以上、ラシールの期待に応じるしかなかった。

「少なくとも、心臓、肝臓、肺、腎臓、脾臓の五臓器が必要です。顕微鏡で病態を観察したい」

「脾臓ってどれだっけ?」

 ラシールは遺体の腹部に手を突っ込み、ずぶずぶと臓器をかき混ぜ始めた。尊厳の欠片もない。彼にとってこの死者は、発見への踏み台でしかないのが明らかだった。

「まあいいか。まだ残っているから安心してよ。僕には協力者がいっぱいいるからね」

「……協力者?」

「そうそう。見せてあげよう。こっちこっち」

 ラシールは部屋の奥へと向かっていった。

 その先には、重厚な鉄製の扉があった。

 そのピタリと閉じられた扉の隙間から――赤い光が漏れ出ていた。

「一体、何をした?」

 頭に浮かんだ恐ろしい状況に声が震えた。

 ラシールはふふっと笑うと、扉を開けた。


 赤い光に満ちた部屋には、あの実験動物飼育室のように檻がずらりと整然と並んでいた

 だが、そこに囚われているのはサルではなかった。

 檻の中にいたのは、紛れもない人間だった。


 檻にもたれた青年がひとり、ひたすら首をかきむしっていた。爪も首の周りも赤黒く染まり、皮膚は無残に裂けている。それでもやめることなく、爪を立て続けている。虚ろな目がこちらを見たが、焦点があっておらず、何を見ているのか分からなかった。

 奥の檻には、長い髪の女が横たわっていた。

 だらりと伸びた手は力を失っている。かすかに胸が上下している。生きてはいるが、ひゅうひゅうと荒い呼吸を繰り返していた。

 檻の中には、男女の区別も年齢の違いも関係なく、若者から老人まで収容さてていた。

 誰もが正気を失っていた。そして、全員の体が、鈍い赤い光を発していた。

 赤色の薄い場所へ視線を向ければ、そこには黒い山があった。

 無造作に積まれた、人間の死体の山だった。

 かつて名前をもち、この町で暮らしていた彼らは今、無言の山をつくっていた。

 人の手によって作られた地獄がそこにあった。


「信者がいるといいね。みんな、簡単にだまされるよ。気高い献体だ」

「この人たちに、なにをした?」

「感染実験さ。あの虫に刺された場合、何日で症状が現れるのか。どんな経過をたどって死ぬのか。男女や年齢による差異はあるのか。知りたいことはいっぱいあってね。今のところ、虫に刺されたらみんな一週間以内に血を吐いて死ぬんだ。すごいよこの病は。ああ、これは、尊い犠牲の上に成り立つ偉大なる一歩だ」

 ラシールは狂気に満ちた声で続けた。

「僕になかったのはチャンスだ。目の前に解決すべき問題がなかったから何も残せなかった。だから大学に残れなかったんだ。そもそもサルたちに病が流行っていると最初に気づいたのは僕だ。僕がすべて解決するはずだった。だというのにあのマーヴという野郎が現れたと思ったら、現場を指揮してあっという間に消毒作業を完了させ研究所を封鎖してしまった。原因追及より命が大事? はっ、冗談じゃない。全部、僕の成果になるはずだったんだ!」

 ラシールの目は血走り、悔しさと嫉妬が絡み合った感情がその顔に刻み込まれていた。

「このまま終わるなんて、絶対に許せなかった。そんな時だったよ。大学から協力者が現れてね、ぜひとも病の正体を解明したいと言ってくれたんだ。感動したよ。やっと僕の価値を分かってくれる人が現れたって」

 ラシールの目は異様に輝いていた。

「でもね、表立ってやるわけにはいかなかった。またマーヴのやつみたいに、横から手を出して潰されるだけだ。隠密にやろうと言われたんだ。だから邪魔な連中――あの研究所の残りの職員を排除する必要があった。日頃から僕を見下してた連中だ。追い出す理由を作るにはどうしたらいいか考えたさ。それなら、病をもう一度流行らせればいい。簡単だったよ。噂を一つ流すだけで、住民は恐怖に呑まれて、研究所の人間を排斥してくれた。ざまあみろって思ったさ」

 ラシールはうっすらと笑いながら続けた。

「そして、いざ解明だと意気込んだ矢先、君が現れた。あの病気は虫に刺されることで感染する。君がその事実を教えてくれた。おかげで研究は一気に進んだよ。ありがとう。本当に、感謝してる」

 つまり、事の真相はこうだ。

 かつて、あの研究所でサルたちの間に蔓延した病が、人間にも感染すると気づいたマーヴ先生は、直ちに施設を封鎖し、徹底的な消毒を行った。判断は迅速で、犠牲を最小限に抑え病は沈静化した。けれど、住民たちの不安はおさまらず、ラシールはその隙を突いた。意図的に根も葉もない噂をばらまき、病に対する恐怖を煽り、宗教めいた儀式と信仰を装って人々の心を操った。そこへ、俺たちが何も知らずに入り込み、結果的に、眠っていた病を目覚めさせてしまった。

 だが、気になるのは、ラシールが口にした大学の協力者だ。それは一体誰だ?


「さて、どれから解剖してもらおう。もう死にかけているし、この女でいいか」

 ラシールは奥の檻を開けると、死にかけの女をずるずるとひきだした。彼の手際は無感情そのもので、まるで物のように扱っていた。

「まだ、生きているぞ」

 思わず声をあげる。だが、ラシールは気にすることなく、俺の目の前に女の体を放り投げた。

「死んでいたらいいのかい?」

 彼の言葉に、言葉がつまる。死体なら何度も解剖してきた。だから、すぐに違うと言えなかった。

「それに、もう助からないよ。どうせなら新鮮なうちに臓器を取り出したほうがいいだろう。助手がいるから、彼らに道具を準備してもらって今からでも始めよう」

「断る。こんなの、人として間違っている」

「研究に狂気はつきものだよ。君だって、この病気の正体を知りたいと思っているはずだ」

 ラシールの目は鋭く、俺を見据えていた。

「少なくとも君はこっち側の人間だよ。だってさ、この光景を見たら普通の人間だったら、どうしてこんなひどいことをするんだってすぐに怒るはずなんだよ。でも君は違った。じっと観察をしていた。君は人が死ぬことをなんとも思わない。普通の人間のふりをしているだけだ」

 その言葉が胸に突き刺さる。

 ――どうして普通にしてくれないの?

 義母の声が脳裏に浮かぶ。その言葉は、いつも俺を責めるように響いた。

 どうして犬が死んだのか、知りたかった。ただそれだけだった。命が動かなくなった理由を知りたかった。でも、どうしてそんな目で見るのだろう。

 殺した訳じゃない。誰にも迷惑をかけていない。ただ中身を暴いただけだ。

 ――この子は人として何か欠けている

 父の声が聞こえる。どうしてそうやって非難されなければないのだろう。

 謎を究明していく過程は、非情に魅力的だ。

 あの虫の種類はなんだろう。どこから来たのだろう。この虫の体の中に潜んでいる病はなんだろう。もちろんいろいろと知りたいと思う。

 人にわざと感染させてでも知りたいか?という問いに、真っ向からノーとはいえない。あの時、アルバートが隣にいなければ、あの赤い光があの男たちにどんな結果をもたらすか、ただ眺めていただろう。

 ラシールの言葉に、あらためて自分はそういう人間なのだと自覚する。

 けれど、このやり方は違う。

 胸に沸き起こった感情は怒りだった。そんな自分に驚きながらも、ふっと笑みが漏れる。

「これが感染実験だって? 研究なめてんのか?」

「なんだと?」

 ラシールの目が鋭く光った。侮辱されたと感じただろうが、どうでもよかった。

「檻の仕切りもまともにない。虫が自由に飛び回ってる。注射器は床に落ちたまま。遺体は放置。こんなずさんな管理で、比較実験が成立すると思ってんのか? どうせやるなら、まともな設備や環境を整えることから始めろ。他にもいろいろと雑すぎる。これじゃ、データの精度もクソもない」

 ラシールの表情がこわばる。だが俺は続けた。

「研究ごっこでいたずらに命を消費するな。お前がやっているのは、ただの無計画な虐殺だ。こんなのに協力する価値なんて、なにひとつない。これで論文を書くだって? 冗談だろ。一緒に名前が載った方が恥ずかしい。死んだ方がマシ。こっちから願い下げだ。こんなんで大学のポストがもらえるわけないだろう。絶対に騙されているよ?」

 静寂が走った。怒りに満ちた眼差しが俺を射抜く。目に見えて肩が震えている。

「貴様!」

 ラシールが怒号と共に飛びかかってくる。

 すばやく、そばの檻につけられた給水器をつかみ蓋をあけ、ラシールの頭に向かって投げつけた。

 水が勢いよく飛び散り、ラシールの頭に降りかかる。彼は驚き、ひるんだ。

 その一瞬の隙を突き、床に転がっていた注射器を拾い上げる。そして針をつきたて、ラシールの防護服を切り裂いた。内部の肌が露わになる。

「ひい! 虫が、虫が入る!」

 情けない悲鳴をあげてラシールは破れた箇所を両手で押さえた。

「もう遅いよ」

 裂けた防護服の隙間からのぞく彼の体皮膚を見て、やっぱりそうだったと心の中でつぶやく。

 ――ラシールの体には、赤い光が浮かんでいた。

「残念だけど、お前はもう発症している」

「嘘だ。そんなはずはない。防護服を着ていた!」

「じゃあ聞くが、首がかぶれていないか?」

 言った瞬間、ラシールは条件反射のように手を首元へやった。その仕草がすべてを物語っていた。

「虫に刺されてなんていない! ちゃんと着ていたんだ、刺されるわけがない!」

「たしかに、防護服をきちんと着ていたら虫には刺されない。でもお前は一つ勘違いしている。この病は血液を媒介して感染する。だから、虫に刺されなくても感染する。なあ血のついた防護服を脱ぐとき、どうしていた? まさか捨てるとき、直接、素手で触ったりしていないだろうな。そのとき手は消毒した? 免罪符とかいう紙に触れすぎてボロボロになった手には、傷口がいっぱいあって血の中にいる病原体は入り放題だろうな」

 ラシールの顔がみるみるうちに青ざめる。証拠はない。だが、俺にだけ見えるこの赤い光が病原体の放つ光だとしたら間違いはない。

 一番最初は、虫が病を運んできたのだろう。それがサルに広まり、やがて傷口や虫を媒介にして人へと感染していった。マーヴ先生がすぐさま研究所を封鎖したののも納得だ。あまりに感染力が強すぎる。

 原因解明をしている間に、どんどん人が死んでしまい、やがて町ごと大変なことになっていただろう。

「僕は感染していない! 感染していないんだ!」

「そう思うなら勝手にすればいいよ。でも自分の症状は逐一メモしたほうがいい。せめて役に立てよ、貴重な観察記録として」

「貴様っ……!」

「あ、虫が服の中に入ってる」

「ひっ! どこだ、どこにいる!」

 ラシールは慌てふためき体をひねり、体をくねらせて転げ回る。人には感染実験だと称して、散々虫に噛ませていたくせに、虫におびえきった姿は滑稽だ。

「だから、もう発症しているって。今さら虫に気をつけても遅いよ」

 冷ややかに言い放つと、ラシールは顔を歪ませ、憎しみに満ちたまなざしでこちらを見据えた。

「なら、道連れにしてやる」

 ラシールが立ち上がり突進してくる。俺は一歩下がり、狙いすましたように彼の足を引っかける。ラシールはたたらを踏み、重心を崩して地面に倒れ込んだ。即座に、破れた防護服の端をつかみ、そのまま手足を縛る。

「さて、これからどうしよう。このままこの部屋に放置してもいいけど」

「僕を殺す気か? この、人殺し!」

 彼の言葉に肩をすくめた。

「さっきあんたが言っていたとおりだよ。――俺、人が死ぬことをなんとも思わないんだ」

 ――そうだ。普通なんて分からない。でも、どうでもいい相手の前では普通を装う必要はない。開き直りだ。だが、気分はすがすがしかった。

 ラシールの顔が目にみえて青ざめた。目を見開き、口をパクパクと動かすが、言葉が出てこない。

「アルバートの居場所、教えてくれない?」

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