第38話
我が身の不自由さに小さく溜め息を吐いたとき、それまでの喧騒から浮いたような高めの声が耳に届いた。
「お久しぶりですわね悠人様。最近はお忙しかったのかしら、連絡がつかなくて少々不安になっておりましたのよ?」
(…何あれ)
今までの女性たちとは、あきらかに態度が違った。口調も、立ち振る舞いも堂々としていて、艶めくような美貌はかなり蠱惑的だ。
悠人の腕にしなだれかかるようにして絡みついたかと思うと、胸を押し付けながら上目遣いで顔を覗き込む。
計算され尽くした行動なのだろう、怖いくらいに自然で、隙のない仕草だった。
「……やだなあ」
媚びるような視線も、鼻にかけた甘ったるい声も、動く指先ひとつにだって、悠人の隣に立っている彼女のすべてが不快に感じる。
東を取り纏める東堂組の若頭に対し、自分はここまで許されているのだという周囲へのマウントが透けて見えるのも嫌だった。
そんな状況が気にならない人間は、その場にそう多くない。視線を走らせると案の定、周囲の目はほとんどが悠人と彼女に引き寄せられている。私の隣に立つ如月ですら、「命知らずって居るんだな…」と呟きながらも視線はあちらに向いていたくらいだ。
そんな中を私はこっそりと抜け出した。
ごめんなさい如月。後で私が悠人に怒られるから許してほしい。
結局悠人に怒られるんだなと思いながら、ついでにトイレを済ませてしまおうと、ちょうど広間の外にあった館内図で、少し離れたトイレの場所を確認して歩き出す。
こんな高級ホテルの中を歩くことなんて、この先ないかもしれない。着付けが崩れないようにゆっくりと歩くついでに、不審にならない程度にあちこちの装飾を観察していく。
「仁科、央華さん?」
広間前の大きな廊下からは死角となる通路に入った途端、名を呼ばれた。
「はい、っ…!?」
反射的に振り返った瞬間、眼前に突きつけられたのは鈍く光を反射する小さなナイフ。そしてそのナイフを手にしているのは、桃色の振袖に身を包んだ、私と同い年くらいの女の子だった。
「あんたのせいで…あんたのせいで悠人様は私と一緒になれなくなったっ!」
叫ぶような悲痛な声と、怨嗟のこもった鋭い眼。その一瞬で、今自分に向けられている殺意が本物なのだと感じた。
「あんたが居なければ!悠人様は私の所に来られるのに……っあんたが、居なければ!居なくなれば!いいのよっ!!」
「悠人様は私を愛しているのに」と、彼女は壊れたように繰り返し叫んでいる。
ひと目でまともじゃないとわかるその様子に、もしかしたら…と、悠人を疑う気持ちは微塵も生まれなかった。
彼女はきっと、妄想に取り付かれているのだ。愛する人に愛される、幸せで悲しい妄想に。
涙を流しながら狂った罵声を浴びせられても、不思議と彼女のことを恐ろしいとは感じなかった。着物を気にせず走れば逃げられるだろうし、このまま彼女が叫び続ければいずれ誰かが来るだろう。この状況で、まったくもって冷静な自分に内心ではかなり驚いている。
考えるべきは今日、私はこの場に『東堂悠人の婚約者』として連れてこられているのだ、ということ。さっさと逃げて、悠人に助けてくれと縋るのが一番安全なのはわかっている。そうなれば悠人はすぐに私を守ってくれるだろう。
だが問題は私でも悠人でもなく、周囲の目だ。そんな場面をここに呼ばれたすべての人が目撃すれば、彼らはそれをどう思うだろうか。
「ねえ、仁科央華ぁ!だから死んで、悠人様の前から消えろ!!」
狂気に満ちた声すらも、どこか遠くのものに聞こえる。
悠人の背負っているもの、居る世界。
私にはそれがどんな形で、どんな色で、どんな重さをしているのか、まだ何もわからない。
それでもたぶん、今ここで無様に背中を見せて逃げるのは、悠人の隣に立つ人間として間違っている気がした。
「…どうぞ?出来るならやればいい。私はここから動かないから」
精一杯の挑発だ。大丈夫。死にはしない。
こんな状況では、案外私は堂々と出来るらしい。パーティー会場では出来ないのに、なんだかおかしな話だった。
「まあ…私に手をかけた貴女を、悠人が受け入れるとは思えないけど?」
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