死人花は愛を知らない
深山水歌
序章
序章 人ではない、何か。
あれは、なんだろう——。
木々生い茂り、昼間なのに暗い山の中を必死に手足を動かして前だけを見て走る。耳をすませば、草花を踏みつける音が聞こえるけれど、追いかけてきている者の足音は聞こえない。
錯覚だったのかな——と、走りながら少しだけ後ろ見ると、ひゅっと息を呑んだ。
そこにいたのは、白い服で全身を包み何故か体が透けた女がいた。長い前髪の間から見える真っ黒な穴は、僕を見ていた。
思わず体を止めて、人とは程遠い何かを見つめてしまった。すると、鋭く伸びた爪は、真っ直ぐ僕に向かってきた。逃げなきゃいけないのに足が地面に張り付いて動かせない。
——このままじゃ、殺される。
そう思った瞬間、視界の端にキラッと光るものが見えた。目だけを動かしてみると、そこには、一つの小刀が地面に突き刺さっていた。相変わらず、足は動かないけれど、どうにか手は動く。
「ギィィイイ——!」
その何かは、耳を貫くような奇声を発して、爪を突き立ててきた。皮膚に当たる直前に飛び退いて小刀を引き抜き、横一文字に斬りつける。
「ガァッ——!」
手ごたえを感じて何かを見てみると、片方の手が無くなっていた。ボトンと落ちる音が聞こえて地面を見ると、手が落ちていた。
「僕が斬ったのか……?」
息をつく、つかの間。
「ぐぁっ……!」
首を掴まれた気がした。半目で見ると、何かは僕の首に手を掛けていた。
「はな……せっ!」
手を首から引き剥がそうと手を動かすけれど、やはり体が透けていて、空を掴むだけだった。
——は、離せない……。やばい、意識が……。
落ちてくる瞼に抗おうと、小刀を何かの心臓部分に突き刺してみた。
「ギャァァアア!」
さっきよりもうるさい奇声を発したかと思うと、徐々に体が消えていった。掴まれていた首は解放され、地面に倒れ込む。痛みに耐えながら周囲を見渡すと、そこには誰もいなかった。
何事もなかったように、風に吹かれて草花や木々たちが穏やかに揺れていた。
「一体、なんだったんだ……?」
口から出た言葉は、ただ静かに山の奥へと吸い込まれていった。
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