浴室の扉

真奈美は引っ越してきたばかりの新しいアパートで、静かな生活を始めたばかりだった。都会の喧騒から少し離れた、静かな場所にある小さなアパート。部屋は広すぎず狭すぎず、過ごしやすい空間だった。特に気に入ったのは、お風呂場だ。白いタイルの壁と、深いバスタブが心地よく、何よりも広さが嬉しかった。


ある晩、真奈美は一日の疲れを癒すためにお風呂に入ることにした。湯を張り、バスタブに浸かりながら、リラックスした気分で目を閉じた。湯気に包まれて、ほっと一息ついていたそのとき、何かに気づいた。


ふと、浴室の扉がわずかに開いていた。真奈美は驚き、目を見開いた。普段は決して開けっ放しにはしない扉だ。引っ越してきてからも、何度も確認したはずだったのに…どうしてこんなに少しだけ開いているのだろう?


「風かな…?」


そう思いながらも、真奈美は一度そのまま無視してお湯に浸かり続けた。しかし、次の瞬間、その扉がぎしぎしと音を立てて、さらに少しだけ開いた。


「おかしい…」


真奈美は立ち上がり、バスタブから出て浴室の扉を閉めに行こうとした。そのとき、またしても扉が音を立てて動いた。今度はわずかに「誰かがそこにいる」ような気配を感じた。恐る恐る扉の向こうを見ると、何もない。ただの暗い廊下が続いているだけだった。


真奈美は恐怖を感じつつも、何とか自分を落ち着けようと深呼吸をした。そして、再びバスタブに戻ることに決めた。しかし、湯船に戻ってすぐ、背後で「カチッ」という音がした。


振り返ると、今度は浴室の照明が一瞬だけ消え、またすぐに点灯した。真奈美はその瞬間、冷たいものが背筋を走るのを感じた。照明が消えたのは明らかに不自然だった。そして、明かりがついたとき、何かが変わった気がした。


浴室の鏡が曇っていた。その曇り方は普通ではなく、まるで誰かが近くで息を吐いたかのように、はっきりと人の顔が浮かび上がっていた。恐怖に震えながら、真奈美は目を凝らしてその顔を見た。


それは、どこかで見覚えのある顔だった。だが、誰の顔なのかは思い出せなかった。顔の表情は笑っているように見え、目の中には深い闇が広がっていた。その顔は、真奈美を見ているかのように、じっと鏡の中で微笑んでいた。


「や、やめて…」


真奈美は恐怖で声を上げたが、声が震えてうまく出なかった。背後の空気が一層重く、息が詰まるように感じられた。


そのとき、浴室のドアが再び「カチャッ」と音を立てて閉まった。真奈美は驚き、再度振り返ったが、今度は扉の向こうに何かが立っている気配がした。その気配はだんだんと近づいてきていた。


「だれか…いるの?」


恐る恐る声をかけた真奈美の耳に、かすかなささやきが届いた。


「出て行け…」


その声は、まるで誰かが浴室の中から自分に話しかけているようだった。真奈美は恐怖に震え、バスタブから飛び出し、脱衣所へと走った。


そして、振り向いたその瞬間、浴室の鏡の中に映るのは、真奈美の背後に立つ「何か」だった。鏡の中で、それはゆっくりと振り返り、真奈美を見つめていた。まるで、鏡の中に別の世界が広がっているかのようだった。


その顔は、今度は真奈美をじっと見つめた後、微笑んだ。


真奈美はその場から逃げ出すこともできず、ただ震えながら立ち尽くすことしかできなかった。


その後、真奈美は決して浴室に戻ることはなかった。アパートをすぐに引っ越すことに決めたが、最後に浴室を見たとき、鏡には今もあの微笑みが映っていたという…。

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