【短編版】Trilias*(トリリアス*) ~音楽で想いをつないで~

運び屋さん*

【短編版】Trilias*(トリリアス*) ~音楽で想いをつないで~

 古びた音楽室の窓から差し込む夕陽が、白いグランドピアノを優しく染めていた。埃っぽい空気の中で舞い上がる光の粒子が、まるで金色の雪のように静かに降り注ぐ。放課後の静寂を破るように、ピアノの澄んだ音色が響き渡る。


「お兄ちゃん、ここの部分、もう一回!」


 黒板の前で楽譜を手にしていた少女が、はしゃぐような声を上げる。瑠奈の長い黒髪が、夕陽に照らされて柔らかな輝きを放っている。その横顔は、まるで透き通るように白く、どこか儚げだった。


「はいはい」


 瑠姫は軽くため息をつきながらも、妹の要望に応えて指を鍵盤に這わせる。メロディが音楽室に満ちていく。瑠奈は目を閉じ、心地よさそうに音楽に身を委ねていた。


 春から夏へと移ろう季節の中で、兄妹のこんな時間は日課となっていた。瑠姫は時折、妹の横顔を見つめる。病気で青ざめた頬が、音楽を聴いている時だけ薔薇色に染まるような気がした。


「ねぇ、お兄ちゃん」

 突然の呼びかけに、瑠姫は弾いていた曲を中断する。

「私ね、大きくなったらアイドルになりたいの」


「アイドル?」


「うん!」

 瑠奈の瞳が輝きを増す。

「歌って、踊って、みんなを笑顔にするの!」

 そう言って、彼女は満面の笑みを浮かべた。

 その瞬間、夕陽が彼女の笑顔を優しく包み込んだ。


 しかし、その声がすぐに曇りを帯びる。

「でも……私、長く生きられないかもしれないでしょ?だから……」


 瑠姫は慌てて妹の言葉を遮った。

「そんなこと言うなよ。必ず良くなるって」


「うん、でもね」

 瑠奈は静かに続けた。その声には、年齢以上の覚悟が込められていた。

「もし私が叶えられなかったら……お兄ちゃんが叶えてくれる?私の夢」


 その言葉は、あまりにも重かった。

 夕暮れの音楽室に、重い沈黙が落ちる。


「瑠奈……」

「約束して?お兄ちゃん」


 夕陽に染まる音楽室で、瑠奈は真剣な眼差しで兄を見つめていた。その目には決意と、そして何か諦めのような感情が混ざっている。瑠姫は黙って頷いた。その時は、その約束が自分の人生を大きく変えることになるとは思いもしなかった。


    ◆    ◆


「瑠姫さん、5分前です」


 楽屋のドアをノックする声に、瑠姫は深い物思いから現実に引き戻された。鏡の前で最後の確認をする。長い黒髪、薄いメイク、そして白いドレス。化粧台に並ぶファンデーションやマスカラ、付けまつげ。これらは今や瑠姫にとって、戦士の武具のように感じられた。


 鏡に映る自分は、まるで瑠奈のようだった。それは誇りでもあり、罪悪感でもあった。デビューライブまであと5分。胸の中で、不安と決意が交錯する。


「こんなことで本当に良いのだろうか」

 瑠姫は小さくつぶやく。男が女装してステージに立つなんて……。世間は、こんな嘘を許してくれるのだろうか。でも、これは瑠奈との約束だ。最期のベッドで交わした、譲れない約束。


 瑠姫は深く息を吸い、立ち上がった。鏡の中の自分に向かって、小さく頷く。

「行こう」


 ステージの幕が開く直前、瑠姫は心の中で瑠奈に語りかけた。

(見ていてね、瑠奈。僕が君の夢を……)


 そして、眩しいスポットライトが瑠姫を包み込んだ。光が強すぎて、客席が見えない。それは救いでもあった。今この瞬間、何百という視線が自分に注がれているという事実から、目を逸らすことができる。


 音が鳴り始める。イントロの前奏が流れ、瑠姫は深く息を吸った。

(大丈夫、練習通りに……)


 しかし、最初の一音を出した瞬間、自分の声が震えているのが分かった。


「キミと出会った 春の日の……」


 観客の呼吸が聞こえるほどの静寂。その重圧に、瑠姫の声は更に震えを増していく。汗が背中を伝い落ちる。衣装の下で、体が小刻みに震えているのが分かる。


 そして、二番の出だしで、ついに起きてはいけないことが起きた。

「夢見る空の……」


 違う。これは三番の歌詞だ。一瞬の混乱で、全てが崩れ始めた。音がズレる。伴奏と合わなくなる。頭の中が真っ白になる。ステージ袖から、スタッフたちの焦った様子が見える。


 その時、客席の後方で小さな光が揺れているのが目に入った。誰かがペンライトを振っている。その光が、まるで瑠奈の微笑みのように見えた。


(そうだ、これは瑠奈の夢なんだ)


 瑠姫は目を閉じ、妹の笑顔を思い出した。音楽室で一緒にピアノを弾いていた日々。瑠奈が歌っていた時の、あの無邪気な表情。病室で交わした約束。全てが、この瞬間のために在った。


「すみません、もう一度最初から歌わせてください!」


 突然のアナウンスに、会場がざわめいた。バックステージからスタッフが慌てた様子で覗いている。しかし、瑠姫は決意を固めていた。マイクを握り直し、深く一礼する。


「私の歌を、もう一度聴いてください」


 バンドメンバーが互いに顔を見合わせ、そして頷いた。再びイントロが流れ始める。今度は違った。声が、まっすぐに伸びていく。


「キミと出会った 春の日の午後

桜が舞う校庭で

交わした約束は 今も胸の中

輝きを失わない……」


 会場の空気が、少しずつ変わっていく。最初の緊張が解け、温かいものに変わっていった。ペンライトの光が、一つ、また一つと増えていく。それは夜空に、新しい星が生まれていくかのようだった。


 曲が終わる頃には、会場全体が小さな光で満ちていた。瑠姫の頬を、温かいものが伝う。それは汗なのか、涙なのか、自分でも分からなかった。


「ありがとうございました!」


 瑠姫が深々と頭を下げると、会場から大きな拍手が沸き起こった。その音は、まるで大きな波のように会場を満たしていく。


 その日の帰り道、瑠姫は夜空を見上げながら考えていた。完璧なデビューとは言えなかった。でも、これが始まりなんだ。瑠奈の夢への、最初の一歩。明日からまた、練習だ。


    ◆    ◆


「遅れないように、と伝えてあったはずですが」


 冷ややかな声が、スタジオに響く。瑠姫は思わず背筋が凍る思いだった。目の前には、日本を代表するトップアイドル・綾乃が立っていた。


 完璧な佇まい。膝丈の白いワンピースに身を包んだその姿は、まさに「歌姫」の名に相応しかった。黒髪が優雅に肩を流れ、一つの髪の毛すら乱れていない。しかし、その瞳に温もりは感じられない。そこにあるのは、氷のような冷たさだけだった。


「申し訳ありません。電車が……」


「プロとして、言い訳は控えめにしたほうがいいですわ」


 綾乃の口調は丁寧だが、その言葉の一つ一つが刃物のように鋭い。スタジオの空気が、一段と冷え込んだように感じられた。


「さっそく始めましょうか。時間は既に3分、無駄にしていますから」


 スタッフが楽譜を配る。デュエット曲は、綾乃のヒット曲『星月夜』のアレンジバージョンだった。ページをめくる音だけが、静かに響く。


「まず、私のパートをお聴きください」


 綾乃の歌声が響き始める。その瞬間、瑠姫は息を呑んだ。透明感のある高音が、まるで空気を切り裂くように伸びていく。それは技術だけでなく、魂が込められているような歌声だった。まるで月光のように清らかで、そして星明かりのように儚い。


 歌い終わった綾乃は、冷静に瑠姫を見つめる。その視線に、評価の色が含まれているのを感じ取れた。


「では、あなたの番です」


 重圧に押しつぶされそうになりながら、瑠姫は歌い出す。しかし――。


「止めてください」


 わずか数小節で、綾乃が手を上げた。その仕草には、既に結論が出ているような確信が感じられた。


「息の流れが不安定です。フレージングも曖昧。感情に流されすぎて、技術が疎かになっている」


 的確な指摘が、容赦なく突き刺さる。それは事実であり、否定のしようがなかった。


「申し訳……」


「謝罪は必要ありません。ただ、このままでは私とデュエットする資格はありませんわ」


 綾乃は楽譜を手に取り、細かく書き込みを始める。ペンを走らせる音が、まるで審判の音のように響く。


「この部分は、もっと抑揚を付けて。そして何より」

 一瞬、綾乃の目が鋭く光る。

「素人のような感情任せの歌は、控えていただきたいですわ」


 その言葉に、瑠姫の中で何かが反応した。胸の奥で、小さな炎が灯るような感覚。


(感情任せ……?)


「違います」


 思わず声が出ていた。綾乃が眉を僅かに上げる。その表情に、初めて驚きの色が浮かんだ。


「感情を込めて歌うことは、間違いじゃない。それは……」

 瑠奈の笑顔が、脳裏に浮かぶ。

「大切な人との約束だから」


 スタジオが静まり返る。時間が止まったかのような沈黙。綾乃は長い間、瑠姫を見つめていた。その目に、何か別の感情が浮かんでいるように見えた。


 そして、「面白いですわ」予想外の言葉が返ってきた。その声には、僅かだが、温もりのような何かが混ざっていた。


「あなたの『感情』が、どこまで通用するのか。見せていただきましょう」


 その瞬間、瑠姫は直感的に理解した。これは単なるデュエットプロジェクトではない。二つの歌声の、二つの魂の、ぶつかり合いなのだ。




 スタジオでの練習は、毎日が戦いのように続いた。綾乃の容赦ない指摘。完璧を求める姿勢。その重圧は、時として瑠姫を窒息させそうになる。


「もう一度!」


 練習開始から3時間が経過していた。瑠姫の喉は既に限界に近かったが、綾乃の声には一切疲れの色が見えない。まるで機械のような正確さで、同じフレーズを何度も繰り返す。


「ここのハーモニーが全く合っていません。私の声に合わせてください」


 何度やっても、綾乃の求める完璧さには届かない。汗が首筋を伝い落ちる。喉が焼けるように熱い。


「休憩を……」

「本番で休憩は取れませんわ」


 容赦のない言葉に、瑠姫の中で何かが切れた。積み重なっていた疲労と焦り、そして自分の未熟さへの苛立ちが、一気に溢れ出す。


「どうして、そこまで……」

「何ですか?」

「どうしてそこまで、冷たくできるんですか!」


 スタッフ達が、息を呑む音が聞こえた。空気が凍りつく。


 綾乃は静かに瑠姫を見つめ、そして、「冷たいですって?」僅かに苦笑を浮かべる。

「私はただ、プロとしての当然の要求をしているだけです」


「プロ……」


「そうですわ。舞台に立つ以上, 全てを完璧にする。それが、観客への礼儀」


 その言葉に、反論できなかった。事実、綾乃の姿勢は間違っていない。むしろ、感情的になっている自分の方が、プロとして未熟なのかもしれない。


瑠姫は黙って俯く。そんな時、スタジオの扉が静かに開いた。


「失礼します」


 透き通るような声が響く。そこには小柄な少女が立っていた。肩まで伸びた栗色の髪、凛とした佇まい。真っ直ぐな眼差しには、どこか懐かしさを感じさせるものがあった。


「千尋と申します。今回のオーディションを受けさせていただきます」


 瑠姫は思わず身を乗り出していた。透明感のある声、しかしその奥に秘められた力強さ。何より、その歌には「想い」があった。綾乃も、わずかに表情を柔らかくしている。


「その曲、自分で作ったんですか?」

 思わず瑠姫は声を上げていた。他の審査員が驚いたように振り向く。


 千尋は少し照れたように頬を染めた。

「はい。作詞と作曲、両方です」


 会場に小さなざわめきが起こる。オリジナル曲で勝負するのは、相当な覚悟が必要だ。その選択自体が、彼女の強さを物語っていた。


「瑠姫さんの歌に憧れて、私、ここを受けようと決めたんです」


 率直な告白に、瑠姫は言葉を失った。自分の歌を聴いて、誰かがアイドルを目指してくれる。それは、想像もしていなかった喜びだった。同時に、重い責任も感じる。この純粋な想いを、嘘で返していいのだろうか。


(瑠奈、聞いてる?私の歌が、誰かの夢になったんだ)


 その喜びと葛藤が、瑠姫の心を掻き乱す。それは、綾乃の鋭い目を逃れることはなかった。


 練習を重ねる日々の中、千尋の才能は着実に開花していった。彼女の書く曲には、独特の透明感があった。それは瑠奈を思い起こさせる、清らかな輝きを持っていた。


「瑠姫さん、この部分どう思いますか?」


 レッスン室で、千尋は新しい曲の楽譜を広げる。純粋な瞳で見上げてくる彼女に、瑠姫は胸を締め付けられる思いだった。


(私の歌声は、嘘なのに)

(この姿は、偽物なのに)


 その苦しみは、日に日に重くなっていった。


 そして、ついにその日は訪れた。


「瑠姫さん!」


 楽屋のドアが開いた瞬間、全てが崩れ落ちた。千尋の目の前で、メイクを半分落とした素顔をさらけ出してしまった瑠姫。時間が止まったように感じた。


 千尋の目が、大きく見開かれる。楽譜が、床に落ちる音が響いた。その音が、まるで瑠姫の心を砕くように感じられた。


「瑠姫……さん?」

 声が震えている。

「男……なの?」


 その問いに、瑠姫はただ黙って頷いた。それ以外の言葉が、見つからなかった。


「どうして……」

 千尋の目に、涙が浮かんでいた。

「どうして、騙したんですか!」


 その言葉が、ナイフのように突き刺さる。千尋は声を詰まらせながら続ける。


「私、瑠姫さんのことを……信じてました。憧れてました。全部……嘘だったんですか?」


「違う!」

 思わず声が大きくなる。

「私の歌は、嘘じゃない。これは……」


 そこで言葉が止まった。妹との約束。その話を、どう伝えればいいのか。言葉を探す瑠姫を、千尋は既に聞く耳を持っていないように見えた。


「もう……分かりません」


 そう言って、千尋は部屋を飛び出していった。残されたのは、床に落ちた楽譜だけ。そこには、千尋の想いのこもった音符が並んでいた。「瑠姫さんへ」という文字が、悲しげに微笑んでいる。


 その夜、瑠姫は久しぶりに泣いた。化粧を落とした素顔で、鏡に向かいながら。男と女の狭間で揺れる自分の姿に、答えの見つからない問いを投げかけ続けた。


 そんな中、事態は更なる転機を迎える。


「瑠姫さん、大変です!」


 早朝、マネージャーの悲痛な声で瑠姫は目を覚ました。差し出された週刊誌のゲラ刷り。その見出しが、瑠姫の血の気を引いた。


『衝撃スクープ!人気女性アイドル「瑠姫」の正体』


 記事には、瑠姫が男性であることを示唆する写真が掲載されていた。スポーツジムから出てくる姿。明らかに男性の服装で。現実とフィクションの境界が、一瞬にして崩れ落ちる。


 SNSは炎上し、憎悪の言葉が溢れかえった。事務所は騒然となり、活動自粛の声が上がる。全てが、崩壊していくような感覚。


 しかし、その中に一筋の光があった。一通のファンレターが、瑠姫の心を揺さぶる。


 病室で微笑む少女の写真。『私も、病気と闘っています。でも、瑠姫さんの歌を聴いて、頑張ろうって思えました。妹さんの夢を背負って歌う瑠姫さんの姿に、勇気をもらいました。だから……これからも、歌い続けてください。どんな姿でも、瑠姫さんは瑠姫さんです』


 瑠姫の目から、大粒の涙が零れ落ちた。


(そうか……逃げちゃいけないんだ)


 決意が、静かに心の中で形を成していく。


「記者会見を開きます」


 瑠姫の言葉に、事務所中が驚きの表情を浮かべる。しかし、その目に迷いはなかった。


「全て、話させてください。妹との約束も、この姿の理由も」


 綾乃が静かに立ち上がる。

「私も同席させていただきます」


 千尋も、小さく頷く。

「私も……一緒に」


 三人の新たな物語は、ここから始まろうとしていた。


 ラストステージ、その日が来た。


 会場は息を呑むように静まり返っている。瑠姫は、いつもの「瑠姫」として最後のステージに立つ。しかし今夜、全ては変わる。


 千尋が作った新曲。綾乃が手がけた編曲。そして、瑠姫の想いが込められた歌声。それらが全て、この瞬間のために在った。


 ゆっくりとメイクを落とし始める。かつらを外す。会場から小さなため息が漏れる。


「これが、本当の私です」


 照明が変わる。男性としての姿が、はっきりと浮かび上がる。会場は息を呑んだように静まり返った。その沈黙は、永遠のように感じられた。


 しかし――。


 パチ……パチ……パチ……


 小さな拍手が、会場の後方から始まった。それは徐々に広がり、やがて大きな拍手となって会場全体を包み込んでいく。


 綾乃と千尋が、静かにステージに上がってくる。三人の声が織りなすハーモニーが、会場を満たしていく。


♪ きっと明日は 新しい空

共に歩こう 風の中

たとえ違う道でも 響き合える

この歌が proof of life……


 初冬の夕暮れ、小さなライブハウス。瑠姫は短く刈られた髪、シンプルなシャツ姿でギターを手に取る。かつての「瑠姫」のファンたち、そして新しい観客たちの前で、静かに弦を鳴らし始める。


 ふと後ろの壁に目をやると、そこにかすかな影が映っているような気がした。幼い少女の姿。長い黒髪が、夕陽に照らされて輝いている。


「ありがとう、お兄ちゃん。私の夢、叶えてくれて」


 幻影の声は、瑠姫にしか聞こえない。でも、確かにそこにあった。瑠姫は小さく頷く。


「これからは、僕の夢を探していくよ」


 幻影は満面の笑みを浮かべ、夕陽の中に溶けていった。瑠姫は再びギターを構え、観客に向き直る。


 新しい物語は、ここから始まる。音楽室で交わした約束は、形を変えながらも、永遠に響き続けていく。


[完]

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