第2話「行き先」

「……姉様。姉様」


 私の手を引いている弟リシャールの声が遠くから聞こえて、はっとして我に返り私は頬に手を置いた。


「ああ。リシャール……いけないわ。ごめんなさい。私ったら、お父様が家族解散宣言をした白昼夢を見た気がしていて……」


 そんなことあり得ないわよねと苦笑いをして、私より少し背の低いリシャールを見つめれば、彼は大きく息を吐いて首を横に振っていた。


「残念だね。姉様。それって、白昼夢でも何でもないから。ただの現実だよ。父様は既にグレンジャー伯爵邸……いや、もう元グレンジャー伯爵邸から、出て行ってしまった後だよ。僕らのことは何も考えず自分のことだけは準備良く、港へ行く馬車も手配していたみたい」


 再度はあっと大きくため息をついて、年齢の割に大人びた性格のリシャールは、大きく開かれたままの扉を指差した。


 『家族解散宣言』のあまりの大きな衝撃に、私が意識を飛ばしてしまっていた短い間に、父はここから出て行ってしまっていたらしい。


「え……か、解散ですって?」


 か、解散ってことは、私たち家族、再び集合するって事よね。


 待って。集合時間は、いつになるの……?


 いえ……! 混乱し過ぎて、私。少しおかしくなってしまっているみたい。そんな事をなんて気にしている場合でもなくて……!


 お父様は私を置いて行ってしまったんだわ……。


「……いや、うちの父様……本当に、後先を考えない人だと思っていたけど、もう……本当にとんでもないよね。お金を工面することで頭いっぱいで、姉様とか、その後のことを忘れてしまっているんだと思う」


 これから……何処に住むかも決まっていない娘を……忘れてしまっているみたいですって?


 父親にはあるまじきとんでもない行いなんて通り越して、一周回って『こんなことって、本当に起こりうるのね』と、私本人が感動してしまうまであるお話だわ。


 父は大昔からそんな風に真っ直ぐに突き進む猪のような性格だとはわかっていたけれど、これまでは長く傍で支えてくれた執事も紹介状を持って居なくなり、父の性格をどうにかしてくれている慣れた存在は、もう居なくなってしまったのよね。


 ……さて。これから私は……どうしようかしら。


 弟リシャールも渋い表情を浮かべたままで、戸惑っているようだ。ここで私が借金を返すための仕事を探すため隣国に向かい馬車に乗ったという父様を追い掛けたとしても、間に合わないだろうと思う。


 困ったわ。


 だって、リシャールは男子生徒のみの寄宿舎ありの貴族学校に戻れるけれど、貴族令嬢として暮らしていた一人娘である私の処遇は、宙に浮いてしまった。


 私はお父様について行くつもりだったけれど、それはもう出来なくなってしまった。


「姉様。落ち着いて。大丈夫。一人にはしない。僕もこれからは、一緒に暮らすよ。絶対に一人にしないから、そんな風には落ち込まないで欲しい」


 リシャールは亡くなったお母様譲りの可愛らしい顔を凜々しく引き締めて、私の手を握った。


 私はこれからの自分の身を思い落ち込んでいるというよりも、あり得ない状況の把握に時間を掛けているのだけど、リシャールがそう思っても仕方ないことだ。


 だって、貴族令嬢として生きてきた私は、これまでに働いたことなんてもちろんないし、住む部屋だって借りたことがない。


 それを、これからはどうにかしなければいけない。だから、リシャールは自分は貴族学校に戻ることを止めて、私と共に働き生きていくと言い出したのだ。


「まあ……駄目よ! リシャールは、貴族学校を卒業しなくては」


 私は慌てて彼を止めた。グレンジャー伯爵家の跡取り息子であり、輝かしい未来が待つ弟のお荷物になんて、なる訳にはいかない。


 とにかく、ここはリシャールを、もう少しで迎えに来てくれるはずの馬車へと乗せなければ。


「姉様。とは言っても、名ばかり貴族が貴族学校を出たところで、何の役にも立たないんだ。父様は借金を返すとは言ったけれど、とても返せそうにないほどにとんでもない金額なんだよ。お嬢様育ちで何も出来ない姉様を、世間の荒波に一人で放り出すなんて、僕に出来るはずがないだろう」


「まあ。駄目よ。リシャール……貴方が貴族学校を出てさえいれば、お父様が借金を返せなくても実業家になる道だってあるわ。貴方には教育は必要なの。亡くなったお母様だって、そう望むはずよ」


 それを言いつつ私は、どうしようと困り果ててしまった。リシャールが心配していることに関しては、一理あるからだ。


 何も出来ないと言われてしまえば、それはその通りで、確かに私は何も出来ない。


「それはもう……仕方ないよ。何もかも衝撃だよね。僕は貴族の身分には未練はない。姉さんが心配だよ。妙齢になった貴族令嬢を、何の保護もなく市井に出すなんて、どうかしている」


 私たち二人の父ジョセフ・グレンジャーについて、今ここに残された私たちを見た誰かに、とんでもない父親だと言われてしまっても仕方ない。


 けれど、私は父には悪気はないことを理解していた。あの人はひとつのことに集中してしまうと、それ以外のことを考えられなくなってしまう。


 長年暮らした家族だからこそ、父のそういう性質を知っていた。


 きっと今は、お金を返すために稼ぐことしか、考えられないのよ。


「駄目よ。リシャールの貴族学校の学費や必要経費は、父様のご友人が出してくださる事になったのだから、ちゃんと行きなさい」


 私は貴族学校へ戻ることを渋るリシャールに、諭すようにして言った。


 幼い弟には何も描かれていない、まっさらな未来が広がっているし、それを姉のせいで潰してしまう訳にはいかない。


 たとえ、没落してしまった名ばかり貴族だろうと、リシャールが何かでお金を稼ぎまた領地を取り戻して、元の貴族としての生活に戻ることが出来る。


 今ここで私のせいで、リシャールの将来を潰してしまう訳にはいかなかった。


「けど、姉さんっ……」


「失礼します! ライルでございます。お久しぶりにしております。ウェンディお嬢様。リシャール坊っちゃま」


 リシャールがなおも私へ言い返そうとしたその時、父が出て行って開かれたままだった扉から遠慮がちに顔を覗かせたのは、以前グレンジャー伯爵家に仕えていた騎士ライルだった。


 茶色の髪に赤い目を持つ若い彼は二年前に『竜騎士になりたい』という夢を叶えたいと言って、出て行くことになった。私たちは明るい性格の彼の門出を祝い、快く送り出したものだった。


 ライルは将来の目的があり辞めてしまったというだけで、何か問題があったという訳でもない。もしかしたら、久しぶりに顔馴染みに会いにグレンジャー伯爵邸へと遊びに来てくれたのかもしれない。


 けれど、父の書いた紹介状を手にした彼の同僚たちは、グレンジャー伯爵邸を既に去ってしまった後だった。


「まあ。ライル……ごめんなさい。我がグレンジャー伯爵家は……今、その」


 私が空っぽになってしまった邸の中に視線を向けてから言葉を濁し、口に手を当てて驚いていたライルを見つめた。


 貴方が居ない間に没落してしまったのよ……と、言葉にせずとも伝わるはずだと。


「いいえ! 違うのです。ウェンディお嬢様。実はここで働いていた同僚に偶然街で会いまして、グレンジャー伯爵家の事態を聞いたのです。そういうことであれば大変だろうと思い、僕で良かったら、お世話になっておりましたので、何か力になれればと……あの、旦那様はどちらに?」


 人の良いライルは周囲を見回し、ここに居るはずのグレンジャー伯爵家当主のお父様が居ないことに気がついたようだ。


「父様は……金を稼ぐために異国に行くと、さっき慌てて出て行ったんだ。僕たち二人を置いて」


「は!? お嬢様と坊ちゃまを置いて……ですか? 旦那様が……!」


 ライルはまるで想像もしなかったであろう、あまりの事態に絶句していて、リシャールは無表情のままで頷いた。


「そうなんだ。我が父親ながら、あり得ないことになってしまったんだが、全て事実なんだ」


「あの……ライル。今ここに貴方が来てくれて、これもご縁だと思って頼むわ。どこか……私が働けるような、働き先はないかしら?」


「姉様!」


 リシャールは苛立った声をあげたけれど、今はそんなことを、気にしている場合ではない。


 私は現在、住む家もなければ食べるものもない。リシャールは貴族学校に行くはずなのに、一人になる姉と共に居ると言う。


 私はただ心配してくれて来てくれたライルに悪いと思いつつ、働き先を都合して欲しいとスカートを摘まんで頭を下げた。


「出来る事は……何でもします。リシャールはある方のご好意で貴族学校に行けることになっているの。私一人だけでも、暮らしていける稼ぎがあるのであれば、それで構わないわ」


「ウェンディお嬢様……」


 頼み込んだ私を見て、ライルは切ない眼差しになった。


 貴族として生きて来た私が平民のように身を粉にして働く覚悟を決めたことを、幼い頃から知っている彼には、とても複雑な思いを抱いているのかもしれない。


「これまで貴族令嬢として暮らして来た姉様が、平民として一人で生きていけるなんて……そんな事が出来るはずがないよ」


 リシャールは必死に言い募った。それは事実だけれど、偶然ここに居てくれたライルが助けてくれれば可能かもしれない。


「それでも……そうしなければ。借金だって、お父様一人に返せる訳がないほどの金額なのだから、私だって働くべきだもの」


 見つめ合ったリシャールの眼差しは絶対に引き下がらないと言わんばかりだったけれど、そんな私たちの耳にはライルの落ち着いた声が聞こえた。


「ウェンディお嬢様。事態はわかりました。僕が今所属しているアレイスター竜騎士団に共に行きましょう。お嬢様が僕と同じ場所で働いているのであれば、リシャール様だって安心して貴族学校に行けるのではないですか?」


「まあ! ライル! ありがとう」


「しかし、ライル……姉様は、働くことなど」


 祈るように両手を組んで喜んだ私とは対称的に、リシャールは難しい顔をしたまま眉を寄せていた。


「ええ。リシャール坊っちゃま。そういったご心配については、僕とて重々わかっております。しかし、旦那様はこの場に居らず、坊っちゃまとて残ろうがお嬢様の保護者にはなれません。ウェンディお嬢様をお手伝いすることは平の僕の権限では出来ませんが、竜騎士団で働けば安全ではあります。これからの事を考えれば、それが最善かと」


「ライル……坊っちゃまは、いい加減にやめてくれ。僕はもう十四だ。アレイスター竜騎士団内部に居れば、それは確かにその身は安全だろう。だが、姉様は貴族令嬢だ。満足に働けるとは思えない」


 リシャールは私を竜騎士団で働かせることについて、難色を示していた。


「……リシャール様。今の状況を、良くお考えください。ウェンディお嬢様は、リシャール様がこれからも共にあろうが、どちらにしても働くことになるのです。お嬢様の負担になられるのが、リシャール様のお望みなのですか」


 ライルは何もなくなってしまった邸を見回しながら冷静にそう言って、彼の視線を追ったリシャールは悔しそうにして何も言えないままで黙るしかなかった。


 リシャールを迎えに馬車が来て「くれぐれも姉様を頼む」と去った後、安心して胸をなで下ろした私はライルにこれからのことを確認することにした。


「あの……アレイスター竜騎士団には、私にも出来そうな仕事があるのかしら?」


 これまでに貴族として生まれ育ち、自慢ではないけれど、掃除も料理もしたことはない。ライルは少し言いづらそうにしつつも、苦笑いして言った。


「実は竜騎士団には、貴族の血を引く女性にしか出来ない……特別なお仕事があるんです……」

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