海に沈むジグラート26
七海ポルカ
第1話
『おじいちゃん』
船の甲板の舳先に座って、口笛を吹いている祖父の元へ歩いて行く。
そこに座ることは危ないので禁じられているのだが、船の主である祖父が誰よりも率先してそこに座るので、最近まだ走るのもぽてぽてと幼い足音を立てるようになったばかりという感じの孫を、誰も本当はそこに近寄らせたくはなかったのだが「そんな所は危ないから登ってはダメだ!」と、言おうにも彼らの王がそうしているので、注意出来ない。
結局、この祖父と孫は船の走行中もよくそこに座っていて、船員達は心密かにハラハラしている。今日も小さい彼にとっては壁のように見上げる木箱の上に、話しかけている姿に、真剣な顔で単眼鏡を使い、水平線の先を確認していた側の船員が、頼まれずとも彼を持ち上げて、木箱の上に乗せてくれた。
ありがとう、と幼い彼は邪気のない顔で足を揺らし、嬉しそうに船員に笑いかけて来るから、彼としてももう苦笑するしかない。子供など、普通は不平不満を言って泣くのが当然なものなのに、この子はいつも朗らかに笑って、船員たちに混ざって手伝いもする。結局ここの船員たちは、誰もがこの笑顔に弱かった。
持ち上げてくれた船員にお礼を言って、ぼふ! と思い切り祖父の膝の上に飛び乗る。
「今日次の国に着くってみんなが言ってた」
「そうだな。今日は風もいいから夕方には着くぞ。次の国は美味しい果物がたくさんあるぞぉ~~~っ」
孫を腕に抱いて、雛鳥のように柔らかい髪を撫でてやる。くすぐったそうに笑った。複雑な環境で育っているにもかかわらず、彼の孫はよく笑う子供だった。幼いのに人見知りよりも好奇心が勝るようで、人も動物も、全く怖がらない。
普段は駆け回って一瞬たりともジッとしていないのだが、時折、子供だというのに何時間も同じ場所に座って、何かを黄柱石の瞳でじっと見ていることがあった。
人間だったり、景色だったり、動物だったり、見ているものは様々だったが、時々立ち止まっている小さな姿が彼は好きで、何かを眺めている孫を少し離れた所から眺めていると、訳も分からず幸せな気持ちになった。
そういえば船のことも、最初から怖がらなかった。新入りの船員など、風の強い日、転げ回って苦しんでいるのに、この子はまるでそこに生まれたかのように乗ってすぐ船内を遊び場のように駆け回って笑っていた。実家でそうだったのか、どこでも転がって寝るので、よく寝ながら転がっていることに、船のみんなで笑ってしまった。
ただ壁などにぶつかって怪我をしてもいけないので、孫の為にと折角船の中なのに天蓋付きの大きなベッドを用意してやったのだが、天井から吊るしたハンモックにクッションと毛布を敷いて寝かせてやると、大層気に入ったようでいつも気持ち良さそうにそこで眠るようになった。
ユリウス・ガンディノは船の所有者だが、船長と呼ばれる者は、別にいた。
ユリウスは船の戦闘時は自ら武器を持って戦う。そういう戦場の指揮官だったので、自分の船の船長は別にいた。彼とはヴェネト海域暮らしをしていた時からずっと一緒に船に乗っていて、親友だったが、もはや兄弟のような存在だった。
口数は少ない方だが、決して人を遠ざけるような性格をしておらず、二人で飲んでいると、国のこと、家族のこと、全てのことをこの友と話すと心が落ち着いたのでユリウスは好んでいた。
彼もユリウス同様、十代の頃から五十年、海の上の暮らしである。
彼曰く、海の上の暮らしというのは自分やユリウスにとって海の暮らしはもはや日常だが、普通はそうではないのだという。
海の上の暮らしは特殊だった。
酒とは違う意味で、人の本性がよく出る、と彼は言った。
船の上では、例えどんな豪華な船だとしても、その日限りの航海でなければ忍耐が必要になる時が必ず来るものなのだ。嵐や天候のことは勿論だが、陸よりは必ず狭い船内、自由に使えない水、生活に適性が必要とされる。船員は大勢との共同生活に慣れなければならない。
孤高を好む人間も、この世にはいるのだ。そういう人間にとってはきつい、とも言った。 一度体調を崩すと、一層閉鎖的なこの船という空間が嫌になる。ある日彼がそういう話をした。お前もそうだったのか? と尋ねると、頷いたのでユリウスは驚いた。
「今は好きになれた。慣れもある。自分の家を生涯嫌い続けても仕方ない。だが俺が王様なら、王宮で大の字の生活の方を迷いなく選ぶよ。お前は本当に変わってる」
彼は言った。
それは知らなかったな、とユリウスが笑いながら、葡萄酒を友に注いだ。
「色んな苦労や忍耐が必要とされる。だから人それぞれの、苦しみに面した時の対処の仕方が必要になる。人間の色んな対処の仕方を見て来たよ。
祈りや、努力や、慣れや、
誰かを必要としてそれを乗り越える者もいるし、逆に自分の心の陰に籠って、孤高に集中し、自分の中の神に祈って乗り越える者もいる。人間が苦しい時に、どうやって乗り越えていくのか。それを五十年見てきた」
そういう話を全てしたあとに。
「あんな子は初めて見る」
彼が言ったのだ。
「船も海も、一番最初から全く恐れていない。だが、ただ何も分からない無邪気というわけじゃない。あの子は周囲の人間の空気をよく感じ取ってる。船の上の人間達が不穏な空気に包まれると、ちゃんと一歩引いて、彼らを見ている。彼らが安堵している時はあの子もああやって陸のように寛いでいる」
明かりを囲み、楽器を弾いている船員の側で、彼らは自分の武器の手入れをしていたり、一日の終わりにしばし何も考えず音色に耳を傾けていたり、酒を飲んでいたり、カードをしていたり、それぞれのことをしている。
その中に、ひと際目立つ小さな影が、蹲っている。船員の膝に凭れかかって眠っていた。
「船の上の不穏と安堵をあの歳であの子は鋭く感じ取っているし、そういう時どう振る舞えばいいのかも分かっている。動物は生き方というものを、誰に習わずとも会得して生まれて来るものがいるが、あの子は少しそれに似ている。あんな子は初めて見る」
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