第1章:新天地と謎の転校生
翌朝、早鐘を打つ心臓を抱えたまま、冬華(とうか)は再び学園の廊下を歩いていた。窓から差し込む陽光は柔らかいはずなのに、壁の白さと相まって寒々しい印象を強調する。どうやら今日から本格的に“新しいクラス”での授業が始まることになっているらしいが、まだ詳しい説明は受けていない。
食堂で朝食を終えたあと、同じ寮の生徒たちが揃って校舎へ移動していく様子を見て、冬華も慌てて後を追った。大まかな校舎の位置関係はオリエンテーションで教わったとはいえ、構内が広大すぎて迷いそうになる。見上げると“本校舎”と書かれた看板があるが、ガラス張りの外観を備えたエントランスがどこか病院や研究施設を思わせる。高校の校舎とはイメージがかけ離れているのだ。
「これ……本当に学校なのかな。」
誰にともなく呟いてみるものの、周囲の生徒たちも一様に不安そうな表情をしている。近くにいた女子生徒が「なんだか秘密基地みたいだよね」と苦笑したが、すぐに押し黙ってしまった。おそらくあまり声高に疑問を口にしたくないのだろう。この学園の職員たちは常に周囲を監視しているような雰囲気があるし、不用意に目立つことが危険だという気配は冬華にも伝わっていた。
校舎に入ると、最初は大教室に集合するようにと指示が出ている。すべてが“統制”された動きで、個人の自由はほとんど感じられない。廊下をまっすぐ進んでいくと、左右に何十もの扉が並んでいた。掲示板にはクラス分けらしき紙が貼られており、冬華の名前は「1-B」の欄に。どうやら仮クラスという位置づけで、授業内容も後から決定するようだ。とにかく指示された大教室へ向かい、前から三番目の席に腰を下ろす。
部屋には同世代とおぼしき生徒が二十人ほど座っていて、皆が不安げに周りを見回している。その中に見慣れた顔――亜矢斗(あやと)の姿もあった。彼は一番後ろの席でじっと椅子に腰かけ、視線は窓の外を向いている。昨日、彼が“これで二度目なんだ”と言っていたことが頭をよぎる。この学園で一体どんな経験をしたのだろうか。
隣に座った少年が声をかけてきた。
「……あの、もしかして転校組?」
「え? あ、うん、そうだけど。」
少年は浅く息を吐いて肩をすくめる。
「やっぱり。オレもだよ。昨日来たばかり。ここ、なんなんだろうな。全寮制って言ってもやり方が異常だし、実はオレ、元々通っていた高校から強引に移されたんだ。親も“将来のためになる”とか言って納得してたけど、正直訳わからない。」
少年の名は涼(りょう)というらしい。少し日焼けした肌と短髪がスポーツマンのような印象を与える。こうして率直に話しかけてくるあたり、人懐こい性格なのだろう。冬華はわずかな安堵を覚えながら、今感じている不安を打ち明けようか迷った。結局、吐き出すように言葉がこぼれる。
「私も、ここに来る理由が全然わからないの。明日にでも家に帰らせてほしいって思ってる。でも、この施設の警備がすごく厳重で、勝手に外へ出られそうにないよね。」
「だよな。警備員もいるし、どう見ても普通じゃない。というか、何か研究所みたいに感じる。……そう思わない?」
涼の言葉に冬華は深くうなずく。まさに同感だ。普通の高校らしい賑やかさや青春の匂いがこの学園には存在しない。あるのは無機質な建造物と張り詰めた空気ばかり。話し込むうちに、教壇の前に職員が数名並び、姿勢正しく立った。皆が一斉に会話を止めて背筋を伸ばす。自然と静寂が教室を支配した。
先頭に立った女性職員が口を開く。
「皆さん、ようこそ聖リュシア高等学院へ。私が1年B組の担任となる藤田(ふじた)です。ここでは、普通の学校と同じように一般教科の授業も行いますが、いくつか特殊なカリキュラムを受けていただくことになります。詳細は後日、個別面談でお知らせしますが、まずは学園の規律に従って行動してください。質問は許可をとった上で行います。以上、よろしくお願いします。」
藤田先生は淡々と告げると、隣に立っている若い男性職員に目配せをした。その男性は名簿を持っており、出席確認を始める。生徒たちが次々と呼び上げられ、何かのリストに照合していくようだ。気がつけば、この大教室には四十人ほどが集まっているが、どうやら実際の学年を超えた混成なのかもしれない。同世代に見える者もいれば、少し年上らしき雰囲気を持つ者も混じっている。不自然な集団だ。
そして、最後に名前を呼ばれたのは亜矢斗だった。彼が返事をすることはなく、ただ静かに手を挙げるだけ。その存在感は妙に際立っており、教室中の視線が彼に向かう。何らかの噂でもあるのか、職員たちも微妙な表情を浮かべ、名簿にチェックを入れると気まずそうに顔を逸らした。
「さて、今日のスケジュールですが――」
藤田先生が再び口を開こうとしたとき、突然、教室の照明がパチパチと明滅し始めた。かと思うと、ブツリと音がして部屋の電灯がすべて落ちる。朝の時間帯でカーテンを開け放っているため、教室が真っ暗になることはないが、薄暗い陰が広がり、ざわざわと生徒たちの動揺が響いた。
「停電……?」
職員たちが慌ただしく廊下へ向かう。一部の非常灯やパソコン画面は生きているようだが、冷房や照明が停止し、教室内の空気がぎこちなく感じられる。誰かが「おい、設備が壊れたんじゃ?」と声を上げると、藤田先生は落ち着いた様子で生徒たちに指示を与える。
「皆さん、騒がずにそのまま席についていてください。すぐに復旧するはずです。移動は許可しません。」
どこか軍隊のような統制だ、と冬華は一瞬感じる。普通なら避難や校内放送をする場面かもしれないが、ここでは“座って待つ”のが規則らしい。廊下を職員が走り回る足音がする。生徒たちもそわそわするが、誰ひとり教室を出る気配はない。こういうところにも、この学園特有の圧力が働いているのを感じる。
ふと、冬華の視線が後方の窓際にいる亜矢斗へと向かう。彼は相変わらず何の動揺もなく、むしろ停電を見越していたかのような落ち着きを見せていた。まるで「ああ、またか」とでも言わんばかりに、冷静な眼差しを窓の外に向けている。
教室内の微かなざわめきの中で、涼がこっそりと冬華に囁く。
「おい、あの転校生、なんか変じゃないか? さっきから微動だにしてないんだ。停電ってわりと非常事態だと思うけど……普通なら焦るよな。」
冬華も同感だった。が、理由はわからない。亜矢斗の周囲だけ空気がひどく冷たいような感じがする。彼がこの学園に慣れすぎているのか、あるいは別の要因があるのか。そう考えた矢先、廊下から誰かの悲鳴が聞こえてきた。
「きゃあああああっ!」
悲鳴に混じって、何かが床を転がる音がしている。生徒たちは身を強張らせ、無言のまま視線を走らせた。藤田先生を含む職員の姿はすでに見えない。教室の外で何か事件が起きているのは明らかだが、勝手に動いていいのかわからない。一部の生徒が緊張で声にならない息を呑み、同じように祈るように座り続ける。
次の瞬間、ガコンという音とともに照明が一斉に復旧した。まだチラつきはあるものの、部屋の明るさが戻ってくる。安堵のため息が漏れかけた瞬間、先ほどの悲鳴が気になって仕方ない冬華は、周りの様子をうかがいつつ立ち上がろうとする。すると、亜矢斗の視線が射すくめるようにこちらへ向けられ、静かに首を振った。
“動くな”――そう言っているように見える。その無言の圧力に、冬華は思わず足を止めた。涼も立ち上がりかけていたが、相手の視線に気づいて固まる。一体何がどうなっているのか。生徒たちの耳は廊下の物音に集中しているものの、先ほどまでの悲鳴や足音はピタリと止み、シーンという静寂だけが満ちている。
そのうち、藤田先生が顔を覗かせた。先ほどまでの落ち着きはどこへやら、やや息を荒げている。表情は強張っていて、ドア越しに教室へ向けて短く一言だけ言い放った。
「何もありません。皆さん、座っていてください。すぐに解散させます。」
明らかに様子がおかしい。その場で質問を投げようとする生徒もいたが、藤田先生は振り向きもせずに立ち去っていく。誰かが「何もないわけないだろ!」と声を上げそうになったが、強い制止の視線を職員から受け取り、結局は諦めた様子だった。
こうして結局、オリエンテーションに代わるガイダンスはほとんど進まないまま、「解散」として扱われた。生徒たちは自分の寮や割り当てられたエリアに戻るしかない。納得いかない気持ちを押し殺すまま、冬華も重い足取りで教室を出る。涼も一緒に廊下を歩いていたが、どうにも居心地が悪いらしく、さっさと自室に帰ると言い残して階段を駆け下りてしまった。
廊下の突き当たりでは、職員が二人ほど集まって床を雑巾掛けしているように見えた。少し赤黒い液体の痕が目に入るが、遠目なのでよくわからない。もしや血液では――と考えるのも気味が悪いが、何らかの“事件”があったのは間違いないだろう。冬華は近づくのをためらい、そのまま引き返した。
学園全体には依然として張り詰めた空気が漂う。そんな中、これ見よがしに渡り廊下から中庭を見下ろすと、猫のような小動物が横たわっているのが見えた。すでに息絶えているようで、周囲には血が滲んでいる。さっきの悲鳴はこれが原因なのか? だが、ただ動物が死んでいただけで大の大人が悲鳴を上げるものだろうか。何か他に原因がある気がしてならない。
「気味が悪い……どうしてこんなことに。」
冬華は呟いたものの、自分にできることはない。嫌な予感が積み重なっていく一方で、誰にも相談できない息苦しさを抱えながら寮へ向かった。夕方まで時間が空くが、どんな行動をとっていいのかもわからない。部屋に戻ったら戻ったで、誰も何も説明してくれないし、亜矢斗とも妙によそよそしい距離がある。寮へ向かう廊下を歩きながら、頭の中は疑問でいっぱいだ。
部屋に戻ると、先に誰かが入った形跡はなかった。相変わらずホテルのように整えられたベッドが並んでいて、カーテン越しに外の景色が薄青く見える。重たい沈黙の中で、冬華はベッドに腰掛け、思考を巡らせる。“転校生”として連れて来られた以上、こうして普通に授業を受けることがこれからの日常になるのだろうが、謎は深まるばかり。あの停電は偶然だったのか、それとも何かの前兆なのか――。
さらに、数時間後。寮の廊下を一人の女子生徒が慌てた様子で走っているのに出くわした。肩で息をしながら話し始める彼女は、同じ年頃に見えるが顔色が悪い。
「聞いた? 中庭で見つかった小動物の死骸、猫じゃなくてウサギだったんだって……しかも、学園で飼育してたやつらしくてさ、檻が壊されてたらしいよ。これって誰かがやったんじゃないかって噂になってる。もしかしたら“幽霊”の仕業だって……」
「幽霊……?」
冬華は思わず聞き返す。確かに、この学園はただの高校とは思えない不気味さがあるし、なにやら得体の知れない因縁があってもおかしくはない。だが、幽霊とはいささか飛躍しすぎているように思える。それでも、他に説明がつかないほど不可解な事件が多発している、というのが今の状況らしい。
「いや、私も詳しくは知らないんだけど、最近夜になると見回りの職員が変な物音を聞くらしくて、それが停電とか小動物の死に繋がってるんじゃ……って囁かれてるんだ。おまけに、中庭の端っこに隠し扉みたいなのがあるって話も出ててね。何人か好奇心で探検しに行った生徒がいるらしいけど、行方不明になったとか噂されてるわ。」
「行方不明……」
その言葉に血の気が引く。にわかには信じがたい話だが、学園からは自由に外へ出られない以上、“内部で消えた”というのは恐ろしく不安を掻き立てる。寮にも帰らず連絡もないのなら、運営側が何らかの形で拘束したか、あるいは本当に何か得体の知れない存在に……。想像するだけで恐怖が増す。
噂話をしてきた女子生徒は少し落ち着いた様子で「ごめん、変な話しちゃって」と言葉を濁し、そそくさと立ち去っていった。冬華は廊下に一人取り残され、嫌な汗が背中を伝うのを感じる。
あれほど警備が厳重なのに、“幽霊”だなんて非合理的な噂が広がるのは、この場所自体が常識に当てはまらないからだろう。誰もが何かを隠しているようで、真実が見えない。もやもやとした不安を抱えたまま夕食の時間になり、冬華は食堂へ向かう。あの停電の原因についても、誰も説明してくれないままだ。
食堂にはそこそこ人が集まっており、それぞれ思い思いに談笑している……かに見えたが、よく観察すれば皆どこか落ち着きを欠いているように感じる。職員がちらちらと生徒を監視しているためか、気軽に大声で談笑などできる空気ではないのだ。テーブルの一角では、涼と数人の男子が何やら小声で相談している。冬華が近づくと、自然に輪に加えられた。
「それで、夜中に中庭へ行ってみようって話が出てるんだけどさ。さっきの“隠し扉”の噂が本当なら、何か学園の秘密が隠されてるのかもしれない。……どうする?」
涼は思い切ったことを言うが、周囲の男子が尻込みしているのがわかる。確かに、隠し扉を探して運悪く職員に見つかったりしたら厳しい罰則が待ち受けているだろうし、それ以上に、この学園の“得体の知れなさ”を考えると危険が大きすぎる。冬華は迷いつつも、「興味はある」と正直に思った。しかし、恐怖心も同時に湧き上がる。仮に何かを見つけたとして、そこから先はどうなるのだろう。
「うーん……」
はっきり答えを出せずにいると、ふいに涼の視線が食堂の入り口へ向けられた。その先には亜矢斗が立っている。彼は相変わらず周囲に溶け込むことなく、一人でトレイを手にしたまま席を探している様子だ。その姿を見て、涼がぽつりと漏らす。
「そういえば、あいつも“転校生”なのかな。様子が違うっていうか、何か知ってそうな雰囲気ない?」
「気になるよね……」
冬華はそう答えながら、目を細めて亜矢斗を見つめる。もし彼が噂通りにこの学園に以前も在籍していたのだとしたら、隠し扉や幽霊騒ぎの真相について何か手がかりを持っているかもしれない。だが、声をかけようにも彼は壁をつくるように距離を取っている。意図的に近づきにくいオーラを放っているのだ。
食事を終えて寮に戻った頃、冬華はようやく一日の疲れを強く感じ始めていた。昼間に見た不可解な死骸や悲鳴の記憶が脳裏にこびりつき、現実感が歪んでいくように思う。ふと廊下で誰かとすれ違うたびに、話しかけたい気持ちと警戒心がせめぎ合い、結局は何も言わないまま部屋へ戻る。そんな繰り返しだ。
部屋のドアを開けると、暗い室内で亜矢斗がデスクに向かって何か書き込んでいた。日中、彼を見かけなかったが、いつの間にか同じタイミングで戻ってきたらしい。部屋の中にはかすかなインクの匂いが漂っており、窓は閉め切られている。
「……おかえり。」
そう言われたような気がして、冬華は少し驚く。彼から声をかけられるのは滅多にないことだ。返事をしようとしても喉が渇いて声が出にくい。ようやく「あ、ただいま」と弱々しく言葉を返すと、亜矢斗はノートを閉じ、立ち上がってカーテンを開けた。夜の風がすっと流れ込み、薄暗い部屋の雰囲気をかすかに和らげる。
「……どうだった? 今日一日。」
何を意図して聞いているのか、掴みどころがない。しかし冬華は無理に勘ぐらず、素直に感じていることを吐露することにした。
「停電もあったし、廊下で悲鳴が聞こえたし、あのウサギの死骸も……すごく気味が悪い。この学園、普通じゃないよ。私、できることならすぐにでも帰りたい。」
すると、亜矢斗は小さく頷く。やや伏し目がちに、静かな声で続けた。
「たぶん、まだ序の口だと思う。ここでは、もっとおかしなことが日常的に起こる。今は様子を見たほうがいい。変に探りを入れると、職員に目をつけられる。」
「もっとおかしなことって……具体的に何を知ってるの?」
切実な口調で問いかけると、亜矢斗は短く息を吐き、窓の向こうを見つめた。外は夜の帳(とばり)が下り、構内の街灯が闇に浮かび上がっている。かすかに警備員の懐中電灯らしき光が左右に動いているのが見えた。
「この学園は政府主導の研究機関みたいなものだ。表向きには“国の特別教育プログラム”って言ってるけど、実際は……何もかも秘密裏に進んでる。昔、オレが在籍していた頃も、いろんな異常事態があった。生徒が突然消えたり、奇妙な生物が飼育されてたり。自由なんかどこにもない。最初は反発してたけど、すぐにあきらめるか、耐えるか、壊れるか……それしか道はなかった。オレも、なぜか再びここに呼び戻されてしまった。」
恐ろしいことを淡々と言う口調に、冬華は戦慄を覚える。自分が感じていた以上に、この場所は深刻な“異常”に満ちているのかもしれない。小動物の死骸や悲鳴なんて、ほんの入り口に過ぎないのだろうか。そして、その闇の奥には何が潜んでいるのか……想像するほど血の気が引く。
「……本当に、逃げられないの?」
口を開けばそういう言葉しか出てこないが、亜矢斗は首をかしげて微苦笑を浮かべる。そして、一旦言葉を切ったあとにつぶやくように答えた。
「そう簡単には無理だろうな。この学園は完全に外界と遮断されているし、監視網も徹底している。けど、出口がないわけじゃない。ちょっとした抜け道みたいなものはあるって聞いたことがある。けど……それを探すには、大きなリスクがあるし、下手すれば職員や学園側から強制的に措置されるかもしれない。」
抜け道が存在する――その言葉には少し希望が感じられる。しかし、そこに至る道のりは険しいのだろう。学園側が黙って見逃すはずもないし、下手をすれば行方不明になった生徒たちの二の舞になりかねない。冬華は苦悶の表情で目を伏せ、ベッドの上で両手をぎゅっと握りしめる。
すると、亜矢斗はまるで気を取り直すように、静かに息を整えてから言葉を継いだ。
「……それから、この学園で一番注意すべきなのは、外部からの人間じゃない。生徒の中にも、何か隠された“力”を持っている連中がいる。変な噂がたくさんあるだろ? 幽霊だとか、隠し扉だとか……でも、本当に警戒すべきは“同じ生徒”かもしれない。」
「同じ生徒……?」
予想外の警告に、冬華は驚く。そもそも、この学園が普通の学校ではないという認識は強まっているが、生徒にまで警戒が必要だとはどういうことだろう。亜矢斗の言う“何か隠された力”というフレーズが頭にひっかかるが、具体的には何も明かされない。
「ごめん、詳しくはまだ話せない。どこに職員の監視があるかわからないんだ。今の時点ではこれくらいしか言えない。……ただ、あまり積極的に首を突っ込まないほうがいい。君には無理に危ないことをしてほしくないし。」
亜矢斗はそれだけ言うと、デスクのノートを再び開いて黙り込んだ。冬華としては、なおさら疑問が深まるばかりだが、しつこく問い詰めれば余計に警戒されるかもしれない。今は少しでも情報を得られたことを感謝すべきかもしれない――そう考えて、彼の沈黙を尊重した。
夜は更け、時計が22時を指す。消灯時間が近づき、寮の廊下の照明が落とされていく音が聞こえた。冬華がベッドに横になり、気持ちを整えようとする中、亜矢斗も私物を片付けてベッドに体を沈める。視界が薄暗い闇に包まれ、寝返りを打って天井を仰ぐと、今日あった数々の出来事が頭を巡って止まらない。
(幽霊騒ぎ……隠し扉……飼育動物の死……停電……行方不明の生徒……そして亜矢斗の言う“力”……)
一つひとつは風聞や噂の域を出ないかもしれないが、それらが同時多発的に起きている事実は異常だ。この学園で何か実験が行われているとすれば、それが原因で不可解な現象が起きているのではないかと想像してしまう。答えはすぐには得られそうにない。寝つけないまま時が過ぎ、いつしか夜中になっていた。
不意に、遠くからカタカタという小さな物音が聞こえた。廊下だろうか、それとも寮の外か。とにかく鉄や木が擦れるような不快な音が断続的に鳴る。冬華はベッドから身を乗り出してドアのほうに意識を向けるが、亜矢斗もまた気配を察して目を開けているらしい。互いに視線を交わさぬまま、耳を研ぎ澄ます。
(これは……まるで“何か”が徘徊しているような音……?)
そう思いかけた瞬間、音がピタリと止んだ。ぞっとするような静寂が再び訪れる。結局、そのまま朝まで何も起きなかったが、冬華はほとんど熟睡できないまま夜を明かした。
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翌日。鈍い頭の痛みを抱えながら、またしても本校舎へ集合させられる。昨日の停電騒ぎや悲鳴の原因についての説明はなく、生徒たちはただ無為に“授業”と名のつく講義を受けさせられる。国語や数学といった一般教科こそあるが、その中に混じって不可解なカリキュラムが組み込まれていた。
例えば「健康・体力開発」という授業。名前だけ見れば体育の一環のようだが、実際には妙に最先端の測定機器がずらりと並ぶ部屋で、血液検査だの身体測定だのを繰り返し行う。これが何のためか説明はなく、ただ「すべての生徒に義務付けられた検査です」と言われるのみ。職員の硬い表情を見ていると、不用意に質問できる雰囲気ではない。冬華は針で指を刺されて微量の血液を採取され、奇妙なリーダー端末に読み込まれるのを不安げに眺めるしかなかった。
検査を終えたあと、冬華は廊下で涼に出くわした。彼も似たような検査を受けて憤慨している。
「聞いてよ、オレたちは実験動物か何かか? こんなに色んな検査ばっかりして……何が目的なんだよ。成績アップのためとかじゃないだろ。絶対ヘンだよね。」
涼もイライラしているのだろうが、冬華も眉をひそめて同感する。
「確かに……ただの健康診断にしてはやりすぎ。脳波測定器みたいなものもあって、どう見ても研究レベルだったし……。」
そうこう話していると、突き当たりの階段から藤田先生が現れた。こちらに気づくと鋭い視線を送り、涼と冬華は一瞬で口を噤(つぐ)んでしまう。先生は声には出さずとも「余計なことを話すな」というプレッシャーを放っているようだ。おそらくこの廊下には監視カメラもあるだろう。二人は黙って教室へ戻っていくしかなかった。
昼食をとったあと、冬華はやや放心状態で寮の自室に帰る。疲労感でベッドに倒れ込みたいが、次の授業まで時間が限られている。ため息をつきながら部屋のドアを開けると、そこには亜矢斗が、午前中の検査で使われていた端末らしきものを見つめていた。
「……どうしたの、それ。」
冬華が問いかけると、亜矢斗は端末を慌てて隠す。彼は無表情だが、わずかに動揺しているのが伝わる。その反応で、彼が何らかの手段で端末を盗み出したのだろうと察した。
「悪い、見られちゃったか。いや、あれだけ検査されて放っておくのもムカつくから、ちょっとした仕返しっていうか……中身を探ろうと思って。」
「そんな危ないこと……バレたらどうするの?」
思わず声をひそめると、彼は苦笑いして肩をすくめる。
「バレないようにするさ。オレだって、ここで問題を起こしたいわけじゃない。けど、皆が何も知らされずに検査されてるのが気に入らないんだ。学園の真実を少しでも探りたい。……冬華、君はどう考えてる? やっぱりここはおかしいよな。」
その問いに、冬華は迷わず頷いた。冷静に見れば見るほど“おかしい”。研究設備のような施設、監視システム、そして職員の強圧的な態度。“幽霊”の噂や不可解な事件も後を絶たない。普通の高校では断じてありえない光景だ。
「うん……いろいろ探りたいって気持ちはある。私も、何もわからないまま過ごすのは嫌。けど、どうすれば……」
亜矢斗は真剣な眼差しで続ける。
「少しずつでいい。この端末を分解して解析すれば、どんなプログラムが動いているか、学園のデータベースに繋がるのか、何かわかるはず。そうすれば、将来的に抜け出す道だって見えてくるかもしれない。」
そこまで言ったところで、廊下を行き交う足音が聞こえ、二人はさっと距離を取る。おそらく巡回する職員だろう。亜矢斗は端末をロッカーの奥に隠し、目だけで冬華に「黙っておいてほしい」と訴えかける。冬華は咄嗟に首を縦に振って同意の意思を示した。こんなところで職員に見つかったらただでは済まないだろう。
午後の授業が始まり、相変わらず奇妙なカリキュラムが続く。心理テストと称して不可解な質問を投げかけられたり、謎の機器を装着されて脳波を取られたり。生徒の多くが不審を抱いている様子だが、職員の厳しい視線にさらされて声を上げられない。そんな沈鬱な空気の中、教室の後ろに座る亜矢斗だけは妙に平然としている。もしかすると、彼はこれらのテストに何らかの馴染みがあるのかもしれない。
こうして混乱しきった一日が終わりかけた夕方、冬華が寮の自室に戻ると、ドアに鍵がかかっているのを見つけた。自分の部屋なのだから鍵がかかっていてもおかしくないはずだが、普段はオートロックではない。疑問に思い、近くにいた寮母のような女性に声をかけると、「あなたのお部屋は今立ち入り禁止になっています」と言われる。
「え、どうしてですか? 私が使ってる部屋なのに、勝手にそんな――」
「理由はわかりません。上からの指示で、しばらくクリーン作業をするとのこと。部屋には近づかないでください。」
それだけ言い残して、寮母は立ち去ってしまう。冬華が廊下に取り残されていると、同じフロアから人影が現れた。見れば亜矢斗だ。どうやら彼も同様にドアを封鎖されてしまっているようで、不快そうに眉を寄せている。
「……やられたか。多分、オレが盗んだ端末のことがバレたんだろう。証拠を探してるんだ。」
冬華の心臓が跳ね上がる。もし職員が端末を見つけたらどうなる? 二人とも“学園規律違反”で処罰されるに違いない。しかも、どんな罰が待っているか想像するだけで恐ろしい。
焦りのあまり、冬華は声をひそめて問いただす。
「まさかロッカーの中に隠したんじゃないでしょうね?」
亜矢斗は苦い顔をして、うなずきかけてから視線を逸らした。
「仕方ないだろ。いきなり来られたから時間がなかった。くそ……まずいぞ、このままだと確実にバレる。あの端末のことだけじゃなく、オレの“過去”まで引っ張り出されるかもしれない。」
「どうしよう……。もう私たちの荷物って持ち出せないの?」
話しているうちに、寮の向こう側から数名の職員がバタバタと動いているのが見えた。まるで部屋の調査が完了し、あるいは途中なのか。どちらにせよ、ここに留まっていれば事情聴取を受けかねない。
「とりあえずここから離れよう。今は下手な言い訳をしても通用しない。部屋に入れないなら、やり過ごすしかない。」
亜矢斗は冬華を促して階段へ向かう。胸がざわつき、足が震えているのを感じる。どうしてこんなことになったのか。普通に生きてきたはずが、まさか学園でスパイ紛いの真似をする羽目になるなんて想像だにしなかった。
階段を下りる途中、寮母とすれ違うが、向こうは職員たちの指示を受けて何か急いでいる様子で、こちらに関心を向ける余裕はなさそうだ。三階から一階へ降りると、外へ通じる扉が見える。外といっても、建物と建物の間の渡り廊下のような狭い空間だが、今は少しでも人目を避けたい。二人はそこへ駆け込み、ほうけたように息をついた。
「これじゃ、今夜は部屋に戻れないかもしれない。」
冬華は不安で押し潰されそうな気持ちになる。ここは警備員の巡回も多く、夜になるとさらに厳しくなる。外へ逃げようにも、あの高い塀とセキュリティが待ち構えている。途方に暮れていると、亜矢斗が急に何か思いついたように呟く。
「……他に仮眠室がある。職員用のスペースだけど、オレは昔、そこに逃げ込んだことがあるんだ。たぶん今も使われてない部屋があるはず。そこならしばらく隠れられるかもしれない。」
「そんな、職員用の場所に……大丈夫なの?」
「確証はないけど、今はそれしか手がない。調査が終わるまで時間を稼ごう。」
捨て身の策だが、背に腹は代えられない。二人は周囲の視線を警戒しながら渡り廊下を抜け、非常階段の裏手へ回る。そこから地下通路へ下りるルートが存在するが、夜間は施錠されている可能性が高い。やむを得ず、本校舎の角度を変えた裏側へ回り込むと、目立たない裏口が見つかった。運よく鍵はかかっておらず、中に入ると薄暗い通路が伸びている。
亜矢斗が思い出すように角を曲がり、階段を一つ上がった先に小さなドアがあった。錆びついてはいないが、ノブは一度も使われていないような固さで、ギギッという不気味な音をたてて開く。中は狭く、照明はあるが電源は落とされているらしく、備品のロッカーやカーテン付きのベッドがいくつか放置されていた。まるで医務室のような雰囲気が漂う。
「ここか……昔、オレが自主的に“隔離”された部屋だ。」
「隔離?」
冬華は疑問をぶつけるが、亜矢斗はノーコメントのままカーテンを開き、埃まみれのベッドを指さす。ここで一晩をやり過ごすつもりらしいが、冬華は神経がすり減って仕方ない。すでに夜が近いが、職員や警備員がここを巡回しない保証はない。そう考えただけで落ち着かない気分だ。
「もし見つかったらどうするの……?」
声が震える。亜矢斗は少し考え込んだあと、「言い訳は考えてある。大丈夫だ」と短く返す。どの程度“大丈夫”なのか疑わしいが、今のところ頼ることしかできないのも事実だ。仕方なく、この仮眠室で様子を見ることに決めた。
ベッドに横になっても、心臓の鼓動がやけにうるさく感じられる。冬華は重いまぶたを無理やり開き、天井の染みをぼんやりと見つめた。外がどんどん暗くなっているのは窓の隙間からわかるが、何もすることがないため時間の感覚が狂う。すると、不意に亜矢斗がポツリと零す。
「……なあ、冬華。君が“異能”について聞いたら、どう思う?」
唐突な問い。思考が停止した冬華は、わけがわからず言葉に詰まる。しばらく沈黙が続き、ようやく呟くように答えた。
「異能って……超能力みたいなこと?」
すると、亜矢斗はわずかに口元を歪める。笑っているのか、悲しんでいるのか判別がつかない。ただ、その声には苦しみが混じっていた。
「そう。まさにそういう類の話。非現実だろ? でも、この学園にはそういう力を持った生徒が集められている。君も気づいてるかもしれないが、何か普通じゃない空気を感じるだろ? それは単なる監視社会だからというだけじゃなく、……一部の生徒は人智を越えた能力を宿しているんだ。」
冬華は思わず息を呑む。確かに、学園が怪しい研究を行っている可能性を考えてはいたが、“超能力”と直接結びつけたことはなかった。あまりに荒唐無稽な話だからだ。しかし、何があっても不思議ではないこの環境においては、その可能性も否定しきれない。
「でも、そんなこと……現実にあるわけ……」
言いかけると、亜矢斗はそれを遮るように続ける。
「オレもはじめは信じられなかった。……けど、実際に目の当たりにした。たとえば、何も触れずに物を動かしたり、他人の思考を読み取ったり……学園側はそういう能力を“教育”して兵器化するつもりなのかもしれない。少なくとも昔はそういう話を聞いたことがある。理由はわからないが、オレもその対象だったらしい。だから、また呼び戻されたのかもしれないけど……。」
最後のほうは声が小さく沈んでいく。冬華は言葉を失った。昨日、彼が「同じ生徒を警戒しろ」と言ったのは、彼らが単に凶暴とかではなく、本当に“得体の知れない力”を持っている可能性があるという意味だったのか。頭の中で俄(にわ)かには受け止めきれないが、これまでの謎めいた出来事が一つの線で繋がっていくようにも感じる。
(幽霊騒ぎも、もしかしたら“能力”の暴走が原因なのかも……?)
そう考えたとき、全身に鳥肌が立つ。未知の力を持つ生徒がいる。政府が関与する研究施設としての学園。次々と起こる不可解な事件。すべてを総合すれば、あり得る話かもしれない。だが、そうだとしたら自分はどうなる? “能力者”ではない冬華も、このまま研究対象にされてしまうのか。
得体の知れない恐怖と混乱に苛(さいな)まれる中、仮眠室のドアが急にノックされた。二人とも一瞬で息を止める。ノックは小さく、静かな音だが、こんな時間にここへ来るのは職員に違いない。亜矢斗は素早く身を起こし、ドアのノブに手をかけると、緊張した表情でこちらを振り返る。
「もし何かあったら、オレが話をつける。冬華は黙ってて。」
そう言い残してドアを開ける。だが、そこに立っていたのは職員ではなく、一人の女子生徒だった。見たところ柔らかな印象の顔立ちで、髪をお団子にまとめている。制服からして同じ1年生かもしれない。その生徒は安堵したように微笑むと、小声で「よかった、ここにいた」と口を開いた。
「あなたが亜矢斗……よね。聞いてる。私、円(まどか)っていうの。あの、実は……今日は特に警戒が厳しくて、あなたの部屋に職員が押しかけてるって噂を聞いたんだけど、本当だったのね?」
円は部屋の中をちらりと覗き込み、冬華の姿を認めると会釈する。亜矢斗が怪訝そうな顔をしながら「どうしてここがわかった?」と問うと、彼女はさらりと答えた。
「ちょっと、小耳に挟んだの。この仮眠室が昔から使われてないことも知ってたし、あなたが“逃げ場所”にするかもしれないって。」
どうやら嗅ぎ回っていたらしいが、悪意がある感じではない。むしろ自分たちの窮地を心配してくれているようにも思える。冬華は勢いに任せて尋ねる。
「もしかして、私たちのことを助けに来てくれたの……?」
円は困ったように笑みを浮かべ、「ええ、そんなところかも」と答える。どうやら彼女もこの学園の異常性に気づき、裏でいろいろと情報を集めているらしい。噂が飛び交う中で亜矢斗の名前も聞きつけ、同じ“能力者”なのではと睨んでいたそうだ。
「詳しい話はここじゃ危ない。職員の巡回が来る前に移動しましょ。怪しまれないルートがあるの。」
円に導かれ、三人は仮眠室をそっと後にする。廊下の暗がりを歩きながら、円はまだ多くを語ってくれないが、「私も、あなたたちと同じように普通じゃない力を持ってる」とだけ打ち明けた。すると亜矢斗が警戒心を解くように微かに笑みを見せ、「そうか、じゃあ協力できるかもな」と小声で返す。
まるで仲間か同胞を見つけたときのような空気が漂う。冬華は置いてきぼりになったような感覚を抱きつつ、背筋を凍らせながら先を急いだ。円がどんな力を持ち、何の目的で自分たちを助けようとしているのか――まだ何もわからない。しかし、互いに不安を抱えながらも、こうして手を取り合うことでしか生き延びられないのかもしれない。
学園の不気味な夜は始まったばかり。停電や血痕、小動物の死骸といった出来事は序章に過ぎないのかもしれない。亜矢斗の語る“能力者”たちの存在。そして、円という新たなキーパーソン――。冬華はその背中を追いかけながら、深く息を飲み込んだ。
**「この先、どんな闇が待ち受けているんだろう……」**
答えはまだ遠い。けれど、亜矢斗を中心に、確実に物語は動き出していた。幽霊じみた噂や隠し扉の正体、そして学園が狙う“本当の目的”を突き止めない限り、この閉ざされた世界から抜け出すことは叶わないのだろう。薄暗い廊下を進む三人の足音がかすかに響き、すべてを飲み込む夜の帳が彼らを包み込んでいく。
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