七つの瞳を持つ転校生 ― 禁断の学園能力研究
まとめなな
プロローグ:閉ざされた学園への招待
目が覚めた瞬間、冬華(とうか)は自分が見ていたはずの夢を思い出そうとして首を傾げた。いつもなら夢の端切れすら記憶に残っていないことが多いのに、今夜ばかりはやけに印象的な映像が瞼(まぶた)の裏に貼り付いていたからだ。薄暗い廊下、白い蛍光灯がぼんやりと照らす壁、廊下の先にそびえ立つ無骨な鉄扉。さらに、その扉の奥にたたずむ巨大な建物の姿。それらが何を意味するのかはわからないが、確かに冬華の脳裏に強烈なイメージとして残っている。
「……学園、みたいだった。」
ぼそりと口にしてみるが、その声は部屋の虚空へ消えていく。カーテンの隙間からわずかに差し込む朝日の色合いで、もう少しで日が高くなることがわかる。いつもなら二度寝を貪るところだが、どうにも今朝は落ち着かない。
冬華は布団から抜け出し、自室の窓辺へと歩み寄る。相変わらず外は平凡そのものだ。見慣れた住宅街と見慣れた電柱、通学路をゆっくり歩きはじめる近所の小学生たち――そんな日常が静かに動き出しているはずなのに、なぜか心にひっかかる違和感がある。
「全寮制学園……どこかのパンフレットでも見ちゃったのかな?」
呟きながら、まだ漠然とした不安感を振り払うために頬を軽く叩く。時計は朝の6時を少し回ったところを示していた。高校に通うにしてはずいぶんと早起きになってしまったが、それも仕方ない。とりあえず軽くシャワーを浴びて朝食の準備をするか――そう思ってキッチンへ向かおうとした瞬間、不意に玄関のチャイムが鳴り響いた。
こんな朝早く、宅配便にしては少し時間が合わないし、新聞勧誘かもしれない。冬華は眉をひそめながら玄関へ足を運ぶと、ドアスコープを覗く。そこには黒いスーツ姿の男が立っていた。背は高く、インターホン越しでは表情がよく見えないが、何かしら公的な書類を持っているのか厚い封筒を手にしているのが確認できる。
「はい……どちら様ですか?」
ドア越しに声をかけると、男は落ち着いた声色で名乗る。
「〇〇省特別教育支援課の者です。○○冬華さんでしょうか?」
聞き慣れない役所の名称だ。冬華は戸惑いながらもドアチェーンをかけたまま数センチだけ扉を開き、スーツの男と視線を交わす。男は礼儀正しそうに軽く頭を下げると、封筒を差し出した。
「こちら、お渡ししたい書類がありまして。重要書類となっていますので、ご本人に直接お届けするよう指示を受けました。」
まるで予告していたかのようなタイミングに、冬華は不穏さを感じずにはいられない。相手が名乗った所属に聞き覚えはないし、それ以前に「特別教育支援課」などという部署が本当に存在するのかさえ疑わしい。ただ、相手が堂々としているのは公的機関の人間だからだろうか。それとも――。
「どうして私に? 私、特別なことは何も……」
口走りかけてやめる。どうせ詳しく問うても、ここで丁寧に答えてくれるとは思えない。封筒を受け取ると、中には驚くほど立派な紙質のパンフレットと「入学許可証」と書かれた一枚の書類が同封されていた。
表題に書かれた学園の名前――“聖リュシア高等学院”。そして“全寮制”という見出しがきらびやかに踊っている。初めて聞く学園名。冬華が通う学校はもう別にある。こんな朝早くから届く書類って何だろう? そもそも転校なんて聞いていない。書類をざっと目で追っていくうちに、混乱がじわじわと膨らむ。
「え、あの、これは……どういうことですか?」
思わずスーツの男に問いただそうとするが、彼は淡々とした様子で淡泊な説明を始めた。
「こちらの学園に合格されたということで、〇〇省から特待生として配属、いえ、編入される手筈になっています。詳しい内容は書面にありますから、そちらをご参照ください。最終的には本日中にも手続きをしていただき、明日には学園へ向かっていただく予定です。」
「明日って……え!? こんなの急すぎるじゃないですか。そもそも私、そんな手続き、一切した覚えがないんですけど!」
もちろん記憶をたどっても、どこかの全寮制学園を受験したことはない。ましてや特待生? 何をどう間違えたらこんな話が舞い込むのかさっぱりわからない。スーツの男は微動だにせず、まるで役所のカウンター業務をこなすように穏やかで事務的な口調を崩さない。
「その点に関しましては、政府特別枠の推薦という形になっています。ご両親にもすでに連絡を取っております。詳細については学園に到着後、改めて説明があると伺っておりますので……では、私はこれで失礼します。明日の正午には迎えの車がこちらに来ますので、ご準備を。」
男は矢継ぎ早にまくしたてると、一礼をして踵(きびす)を返した。驚きと困惑で言葉を失う冬華の前で、黒いスーツの背中が遠ざかっていく。ほんの数分前までは平凡な朝だったはずなのに、あっという間に非現実的な状況に放り込まれてしまった。
封筒から出したパンフレットを見る。そこには美しい校舎の写真が載っていて、「豊かな環境の下で、次世代を担う若者の才能を開花させる」という謳い文句が輝いている。学費が免除とか、施設が充実とか、まるで高級リゾートを思わせるような宣伝文句も並んでいた。しかし何より気になるのは、「政府特別枠」「国の協力」というフレーズだ。
「まさか親が勝手に決めたわけじゃ……」
放心状態のまま、ふと両親の顔が浮かぶ。母は近所のスーパーにパートに出ており、父は単身赴任で家を空けることが多い。確かに経済的には余裕があるわけでもないし、学費免除と聞けば飛びつくかもしれない。しかし、これほど勝手な進路変更があり得るだろうか。すべてが不可解すぎる。
朝食の支度どころではなかった冬華は、意を決して母の携帯に電話をかける。すると、母親は落ち着いた声で「ああ、その件ね、政府から話が来てすごいわよね」と呑気に答える。どうやら昨晩、冬華が眠ったあとに話があったらしく、夢なのか現実なのかもうわからなくなってくるほどだ。
「本当に行くの? 知らない学園だし、私は嫌だよ……」
そう言ってみても、母は「でもこんな機会めったにないじゃない?」と前向きな様子を隠さない。なんでも“特別な指導が受けられて将来にプラスになる”だの“国がバックアップする”だの、甘い言葉を巧みに使って勧誘されたようだ。まるで一種の洗脳のような手際のよさに、いっそう不安感が募る。
それでも、冬華は自分の意思で物事を決めたいと主張しようとするが、母もさほど余裕のある態度ではないらしく、「詳しいことはとにかく入学後に説明してくれるって言われたから」と繰り返すだけで要領を得ない。
“本当に明日行くなんて、信じられない……”
重たい気分のまま電話を切り、冬華はテーブルに入学許可証を広げ、改めて内容を確認する。どうやら書面上はしっかりとした公的機関の押印がなされているらしい。「〇〇省 特別教育支援課」とか「政府認可の高度教育プログラム」とか、いかにももっともらしい文言が並んでいる。もし全部が架空の組織だとしたら、逆にここまで丁寧に作るだろうか。何かしらの真実味があるのもまた奇妙なところだ。
複雑な思いを抱えつつ迎えた翌日、まさしく予告された正午に、黒塗りの車が家の前に止まった。運転席から降りてきたのは、昨日と同じスーツの男ではなく、今度は女性の秘書風の人物だった。淡々とスケジュールを告げられ、そのまま重い足取りで車に乗り込む。
車内は冷房が効いていて静寂が広がっている。窓の外には変わらぬ街並みが流れていき、冬華は通い慣れた通学路の延長にあるはずの風景を眺めながら、自分がこれから体験するものが一体何なのか見当もつかないことを再確認していた。
会話もなく、車は高速道路へ入る。目的地は伝えられていないが、特別支援課の女性によれば「数時間で到着する見込み」だという。数時間――自宅からそんなに遠い場所にこれほど大きな全寮制学園があっただろうか。予想のつかない行き先に、いつしか冬華は車の振動のリズムに合わせて微睡(まどろ)んでしまった。
やがて、意識がはっきりしないまま、車が減速していく気配を感じる。トンネルのような薄暗い道に入り込んだのか、あるいは林道を抜けたのか、窓の外はやけに影が濃くなっている。それと同時に、先ほど見ていた奇妙な夢の断片が脳裏をかすめる。
「全寮制学園……」
夜の廊下、鉄扉。そうだ、あのイメージは一体何だったのか。まさかこれから向かう場所の幻を見ていたわけではないだろうが、胸騒ぎが止まらない。車がゆっくりと曲がりくねった道を進むたびに、吐き気にも似た不安がこみ上げる。
ほどなくして、前方に大きな門が見えた。門の左右に高い塀が連なり、その上には鉄条網のようなものまで張り巡らされている。まるで刑務所か軍事施設のようにも見える物々しさだ。「学園」という看板こそ掲げられてはいるが、まったく華やかさを感じない。門の脇には守衛らしき人物が立っており、車が近づくと電子キーをかざして門を開ける。門をくぐった瞬間、ガードレールや防犯カメラが目につくなど、厳重なセキュリティが張り巡らされているのが一見してわかる。
「ここが……聖リュシア高等学院……?」
車はさらに敷地内を進む。林に囲まれた道を抜けると開けた敷地が広がり、そこにコンクリート造りの大きな建物がそびえ立っていた。パンフレットには“先進的な校舎”だとか“豊かな自然環境”といった言葉が躍っていたが、実物は何とも味気ない灰色の壁と無機質な窓が並ぶばかり。一部は近代的なガラス張りの構造のようだが、全体としてはどこか陰鬱(いんうつ)な雰囲気が漂う。
車が停車し、助手席から例の女性が「着きました」と降車を促す。冬華は緊張でぎこちない動きのまま外に降り立つと、細身のスーツ姿の理事長らしき人物が建物の入口で出迎えていた。名刺には「聖リュシア高等学院 理事長 ○○」とあり、中年だが端整な顔立ちに鋭い眼光を宿している。
「ようこそ、聖リュシア高等学院へ。遠路お疲れだったでしょう。」
理事長はにこやかな笑みを浮かべているが、その奥底にどこか冷たいものが感じられる。冬華は頭を下げ、まずは挨拶をと思うものの、心臓が高鳴って声が出にくい。そんな彼女の様子を見てか、理事長は軽く手を振りつつ続けた。
「手続きはほとんど済んでいますので、残るは転入の書類にサインしていただくだけです。あとは寮へ案内して、明日からのオリエンテーションに備えてもらいます。何か不安なことや質問があれば、遠慮なくお尋ねください。これからの学園生活が、あなたにとって素晴らしいものになりますように。」
たっぷりとした自信に満ちた声だが、逆に言えば「ここから出る方法はない」とでも言わんばかりの雰囲気を冬華は感じ取ってしまう。歓迎されたというよりは、監視下に置かれるような居心地の悪さが首筋をぞわりと走る。これが“全寮制学園”とはいえ、どこかがおかしい。はたして普通の学校なのだろうか。
理事長の後ろに控えているのは、数人の職員のようだった。皆一様にきちんとしたスーツか事務服を着込み、笑顔が練習されたように整いすぎている。冬華はもはや気まずさと恐怖を感じずにはいられない。足元がふらつきそうになったところで、ようやく理事長が建物内部へ案内を始める。
エントランスホールに入ると、中はかなり広い空間が広がっていた。高い天井からは大きなシャンデリアが吊るされ、一見するとホテルのロビーのようにも見える。しかし、壁のあちこちに監視カメラが備え付けられていて、やはりどことなく緊張感が漂う。受付デスクには目元が鋭い職員が立っており、理事長の紹介で冬華と目を合わせると愛想笑いを浮かべるが、その笑顔がどうにも作り物めいている。
「この学院では、生徒の安全を最大限確保するために防犯設備を充実させています。初めは驚くかもしれませんが、すぐに慣れるでしょう。」
理事長はそう言いながら、受付の人間に軽く合図を送る。すると、受付の背後にあるドアが自動で開き、奥の廊下へと続く。まるでホテルの裏側のスタッフ用通路のようだ。理事長が通るのを合図に、冬華も後に続く。薄暗い照明の廊下はやたらと人工的な匂いが立ち込めていて、冬華は思わず鼻を覆いかけた。ここが本当に学園なのだろうか、と不安が増すばかりだ。
廊下をしばらく歩いていると、正面に重厚なドアが見えてくる。そのプレートには「理事長室」と書かれていた。どうやらここで入学の最終手続きを行うらしい。理事長はドアを開けると、室内のソファを指し示して「楽にしてください」と促す。一応、見た目だけは高級感のある室内だ。大きなデスクと革張りの椅子、壁際には本棚や学園の歴史を飾る写真がかけられている。冬華はその写真が気になったが、今は落ち着いて見る余裕もない。
「さて、転入手続きという名目ですが、内容はごく簡単なものです。お名前と署名、それからいくつかの注意事項に目を通していただくだけ。できれば今すぐにでも済ませたいのですが、何か聞きたいことはありますか?」
理事長は微笑を保ちながら書類を差し出す。冬華は言葉に詰まりつつも、疑問は山のようにある。なぜ突然自分がここに呼ばれたのか、なぜ政府が関与しているのか、そもそも本当に学園なのか。けれど、そのどれを質問しても“まだ説明できない”の一点張りで終わるのではと想像できてしまい、口を開くのをためらってしまう。
「……特にありません。書類を拝見していいですか?」
ぎこちなくそう答えると、理事長は満足そうにうなずき、分厚い冊子を冬華に手渡す。そこには「学園規約」とか「能力開発プログラム」といった怪しげな文言が見え隠れしている。ページをめくるたびに専門用語が並び、何がなんだかさっぱりわからない。もっとも、ここでしっかり読むことを期待されているわけでもなさそうで、理事長も「のちほど詳しいオリエンテーションがあるから、ざっと目を通してくれればいい」と言うばかりだ。
最終ページには署名欄があり、「同意する/同意しない」を選ぶチェック欄がついている。そもそも「同意しない」という選択肢が機能するのかどうか疑問だ。冬華はペンを持つ手が震えるのを抑えながら、恐る恐る名前をサインする。これで、もう後戻りはできないような気がしてならない。
「ありがとうございます。では、寮へ案内しましょう。少し離れた場所にありますが、キャンパスの敷地内にすべてがそろっていますので安心してください。」
理事長はそう言うと、冬華を伴って部屋を出る。先ほどとは別の通路を進み、今度は地上階から少し下った場所に出るようだ。長い階段を下りると、コンクリートむき出しの無機質な空間に出た。倉庫か何かのように見えるが、奥に一本の地下通路が伸びている。冬華は足を止めたくなる衝動に駆られるが、理事長が先へ進むため後に続くしかない。
「この地下通路は寮や体育施設、研究棟などを結ぶ連絡路です。雨の日など天候が悪いときにも便利ですよ。」
理事長は気軽に言うが、冬華からすれば秘密基地のような場所にしか見えない。壁際にはまたしても監視カメラがいくつも設置され、廊下の広さからして大勢が行き来できる造りになっている。
やがて通路を抜けると、地上へ登るエスカレーターのようなものが現れた。そこを上って外へ出た先には、広い芝生のグラウンドらしき場所が広がっている。先ほどまでの暗鬱な景色とは打って変わって日光が差し込み、少し開放感がある。しかし、相変わらず見渡すかぎりは高い塀で囲まれ、“出入口”が見当たらない。遠くに校舎らしき建物がいくつも建っているが、統一感はなく、どれもバラバラなデザインで配置されているのが不気味な印象を与える。
「ここが寮だよ。あなたの部屋は3階。荷物はすでに運び込まれているはずです。」
理事長に促され、冬華は3階の一室――「302号室」のプレートが付いたドアを開ける。そこは白基調の清潔感あふれる部屋で、二人部屋になっているらしい。シングルベッドが二台並び、窓際には簡素なデスクが二つ設置されていた。カーテンや壁紙が新品同様で、寮というよりはビジネスホテルに近い雰囲気すらある。
中をのぞくと、すでに一人分の荷物が片隅に置かれているが、まだ人の気配はない。どうやらルームメイトは不在のようだ。冬華は少しホッとしながらも、この先どんな相手が現れるのか気になるところではある。
「しばらくここで休んでいてください。夕食には私のほうから職員をよこして案内させます。明日朝からオリエンテーションを実施しますので、その準備もあわせてよろしく。」
理事長はそう言うと、またさきほどの優雅な笑みを浮かべて去っていく。部屋にぽつんと一人残された冬華は、ようやく一息ついてベッドに腰掛ける。心臓がまだドキドキしている。あまりに急展開すぎて、感情が追いついていないのだ。
外を見れば、高い塀の向こうに森のような樹木がかすかに揺れている。敷地の外へ出るためには、あの厳重な門を通るしかなさそうだが、きっと自由に出入りはできないだろう。その証拠に、学園の周囲はそれこそ軍事施設並みの警戒態勢が敷かれているように見える。
「何が始まるんだろう……」
やるせない問いが自分の口からこぼれる。だが答えてくれる者などいない。スマホを取り出してみても、圏外なのか電波が通じていない。Wi-Fiの接続もパスワードがわからず手が出せない状態だ。この場所で外部と連絡を取る方法はきっと限られているに違いない。ますます不安が募るばかりだが、ひとまず今は疲れ切っていた。車での移動中もずっと神経が張り詰めていたせいで、体のだるさを自覚する。
時計を見ると、まだ夕方には少し早い時間帯。人影のない寮を探検してもいいが、ルール違反になったらどうしようという恐怖もある。冬華はベッドに横になり、深呼吸してみる。頭の中は疑問でいっぱいだが、一度仮眠をとって落ち着こう、と自分に言い聞かせるように瞼を閉じた。
――どのくらい眠っていたのだろう。ふと息苦しさを感じて目を開けると、室内はもう薄暗くなっていた。外を見ると、夕暮れが深まっているのがわかる。慌ててベッドから起き上がろうとすると、隣のベッドにいつの間にか人の姿があった。
「えっ……?」
思わず息をのむ。そこに座っていたのは、見たところ同年代の少年だった。長めの前髪が目元にかかり、無表情のままこちらを見つめている。声をかける隙も与えないように、相手は一言だけ呟いた。
「……君が、冬華?」
「あ、はい、えっと、そうだけど……誰?」
少年はすっと立ち上がると、自分の胸元あたりを軽く叩いて名乗る。
「俺は亜矢斗(あやと)。おそらく今日から同じ部屋になる。……迷惑かもしれないが、ルームメイトってことだ。」
「亜矢斗……くん?」
戸惑いながら繰り返すと、彼はわずかに口元をゆるめた。それが笑った表情なのかどうか判別が難しい。それにしても、いつの間に入室してきたのか。まるで気配を消すように行動する彼に、一抹の不気味さを感じる。
部屋に漂う沈黙が耐えがたくなり、冬華はぎこちなく切り出す。
「ごめん、勝手に寝ちゃってて気づかなかった。今、何時かな……?」
亜矢斗は自分のスマホを覗きこむ。そして首をかしげるようにしてから「十九時過ぎだ」と返した。もう食事の時間帯であってもおかしくない。さきほど理事長が言っていたとおり、職員が来るのを待ったほうがいいのだろうが、誰も訪ねてくる気配はない。
「この学園、厳重な割に放任というか……何かおかしいよね?」
冬華が正直な感想をこぼすと、亜矢斗は少し視線を下に落としてから、低い声で答える。
「俺はこれで二度目なんだ。ここに来るのは……。でも、この学園の実態を詳しく説明してくれる人なんていない。理事長も都合の悪いことは言わない。多分、君もすぐにわかるようになると思うけど……ここは普通の学校じゃない。」
「二度目? 転校ってこと?」
詳しく聞きたくて問い返すものの、亜矢斗は口を噤んでしまう。浅く息をするようにして、自分の荷物を整理し始める。その横顔には、どこか悲しげな影が落ちているようにも見える。冬華はさらに質問を重ねるべきか迷ったが、ひとまず自分も落ち着かねばと荷物の確認に目を落とすことにした。
――やがて、廊下から足音が聞こえ、コンコンと控えめなノックが響く。どうやら職員がやって来たようだ。ドアを開けると、中背の女性が立っていて「夕食の時間です。食堂へご案内します」と事務的な調子で促す。冬華と亜矢斗は視線を交わし、まだお互いによくわからない不信感を胸に抱えたまま、そろって寮の廊下へ足を踏み出す。
寮は3階建ての大きな建物で、同年代の生徒が何人も部屋から出てくるのが見える。中には談笑しながら食堂へ向かう者もいれば、不安そうにしている者もいる。見たところ、転校生は冬華だけではないらしく、年に何回かこのような編入が行われているようだ。女子生徒数名の声がちらっと耳に入る――「いきなり呼ばれてきた」「全然説明がなくて不気味」と口々に不満を言っており、冬華と同じように戸惑っていることがわかる。
食堂は広々としたスペースに長テーブルと椅子が整然と配置されていた。献立は一見普通の学食のように見えるが、職員による手渡し制でトレイを受け取る際に名前を確認されるなど、徹底した管理が行われているのが特徴的だ。冬華は渡された夕食を手に、入り口付近のテーブルに腰を下ろす。亜矢斗は一言も発さず、少し離れた席に座った。先ほどの会話から察するに、一緒にいると注目を浴びかねないと思って距離を取ったのかもしれない。
次々と生徒が席を埋めていく中、壇上に職員が立ち、簡単な挨拶と注意事項を述べ始める。「学園の規律を守ること」「外部との連絡は許可が必要であること」「夜間の外出は禁止であり、消灯時間には各自部屋で就寝すること」――さらには、「不要な場所へ立ち入ることは厳禁」という言葉が特に念を押される。やはり閉鎖的だ。異様な雰囲気に胸がざわつく。
食事を済ませたころには、すでに時刻は21時近くになっていた。冬華は亜矢斗を気にかけつつも、彼とは別々に寮へ戻ることになる。部屋で落ち合ったときには、お互い口数が少なく、どこかよそよそしい空気が漂う。亜矢斗からも積極的に話を振ろうとはしない。とはいえ、今はそれでいいかもしれない。心が落ち着かない状態で無理に会話をしても、ぎくしゃくするだけだ。
「今日はもう休むよ。明日からオリエンテーションだって言うし……」
小声でそう伝えると、亜矢斗はうなずいてデスクに向かい、何やらノートに書き込むような作業を始めた。冬華はカーテンを閉め、制服がハンガーにかかっているのを確認する。どうやら入学式のような行事はないらしく、すべてが管理されたスケジュールに組み込まれているのだろうか。
ベッドに横になると、昼間に感じたあの違和感や不安が再び胸を締めつける。けれど、現状では何もわからないままだ。ここが普通の学園ではないことは疑いようがないが、だからといって今すぐ逃げ出せるわけでもない。大きく息を吐き出し、ゆっくりと瞼を閉じる。
――と、その瞬間だ。再びあの“映像”が脳裏をよぎる。暗い廊下と鉄扉。視界の端には何やら白い光がちらつき、その先にはまるで手術室のような無機質な部屋が広がっている。あの夢とまったく同じイメージが再生されるかのように、冬華の意識を侵食してくる。こんなに鮮明に思い浮かべられるのはなぜだろう。もしかしたら本当に、ここに何か秘密の部屋が存在するのかもしれない――。
頭から振り払おうとしても、イメージはしつこくへばりついて離れない。自分の知らない何かがこの学園のどこかで行われている、その予兆のようにも思える。明日からのオリエンテーションで、どこまで真実が明かされるのか。閉ざされた学園での生活が今まさに幕を開けようとしているのに、まるで目隠しをされて歩かされている気分だった。
この場所には、他にも同じように突然呼び出された生徒がいるだろう。皆、困惑や疑念を抱えながらも、どこかで新しい人生の一歩かもしれないと期待しているのかもしれない。しかし、冬華の心は警鐘を鳴らし続けている。普通じゃない。絶対に何かがおかしい。
やがて、廊下の照明が一斉に落ち、消灯時間を知らせるチャイムが鳴る。昼間の職員の話では、消灯時間が過ぎれば部屋の外へ出るのは禁止とのことだ。外を見れば、塀の上に巡回灯が並び、警備員なのか、構内を歩いている懐中電灯の明かりが見える。まるでここは軟禁状態とも言えるのではないか。簡単に逃げ出すことなどできそうもない。
隣を見ると、亜矢斗がベッドに横になっていた。彼の呼吸は浅いが、明らかに眠りに落ちていないのが伝わってくる。うかがい知れない事情を抱えているらしい彼のことを、冬華はほんの少し気にかける。ここでは誰もが多かれ少なかれ“秘密”を持っているのだろう。ましてや、亜矢斗が言った「二度目」という言葉が気にかかる。過去にここで何を経験し、なぜまた戻ってきたのか。問いただしたい気持ちもあるが、今はやめておこう。眠ることすら心許ない状況なのだから。
暗闇の中、冬華は自らに言い聞かせる。何か大きな謎と陰謀が潜んでいる。この学園が「国の特別機関」であるらしい点も不穏だし、自分がここに来させられた理由もわからない。いずれにせよ、流されるだけでは本当に取り返しのつかないことになりそうな予感がする。
――鉄扉の夢。白い光。そして暗い廊下。あれがただの悪夢ではなく、何らかの“予兆”だとしたら。思いのほか近い将来、あの扉の向こう側に足を踏み入れることになるのかもしれない。鳥肌が立つような寒気を感じながら、冬華は固く目を瞑(つむ)った。
翌朝、宿直の職員がノックする音で目を覚ます。ほとんど寝付けなかったような感覚で頭がぼんやりしているが、オリエンテーションが始まるのだから起きなければならない。亜矢斗も同じく気だるそうな表情を浮かべている。二人で無言のまま部屋を出て、他の新入生たちと合流し、食堂へ向かうことになった。
廊下にはすでに生徒たちの列ができている。前の方に目を移すと、どうやら年長らしき上級生も混じっているようだ。皆一様に顔が強張(こわば)っているのが気になる。むろん、朝だから機嫌が悪いのかもしれないが、どこか軍隊のように規律を守らされている空気が感じられる。
食堂に着いてみると、壇上には紺色のスーツを着た男性が立っていて、厳かな声で「これより新入生オリエンテーションを始めます」と宣言した。理事長の姿は見当たらないが、代わりにこの男性が仕切るようだ。簡単な学園紹介の後、続いて「本学園では特別なカリキュラムが準備されています」とだけ触れられる。詳しい説明は後日とのことだが、その言い回しはやはり胡散臭く、冬華の不安を掻き立てる。
ふと視線を横にずらすと、亜矢斗がまったく興味がなさそうに俯(うつむ)いている。そのまなざしはどこか遠くを見ているようで、昨夜言っていた「二度目」という言葉の重みを再認識させる。彼にとって、この光景は既視感のあるものなのだろうか。
――こうして、冬華の“転入初日”は始まった。何のために自分がここにいるのか、謎は深まるばかり。閉ざされた学園、徹底された監視体制、そして「普通じゃない生徒たち」が存在することを示唆する雰囲気が満ちている。亜矢斗が放つ不可解なオーラも含め、これから何かが起こる予感が濃厚だ。
この地点では、冬華はまだ知らない。自身がごくかすかに“異能”を宿していることを。あるいは、学園側がそれを覚醒させようと狙っていることを。すべての謎が明かされるまで、この閉鎖空間からは逃れられない――そんな運命に巻き込まれたことさえ知る由もなかった。
朝日の眩しさとは裏腹に、冬華の心は深い闇と不安に覆われている。今はただ、何の情報もないまま指示に従うしかないが、やがて学園の真の姿が次第に明るみに出たとき、彼女は誰を信じ、どのような行動をとるのか。波乱の日々の幕開けとなる、長い長い一日の始まりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます