赤信号の天使
柴公
第1話 赤信号
赤信号の天使
最近、理由もなく「疲れた」。しっかり寝ているはずなのに「眠たい」。家にいるのに「帰りたい」。そんな事ばかり言っている。
別に肉体的に疲れている訳ではなく、かと言って精神的に疲れているのかと言われれば、そんな訳もない。惰性で学校に向かって、惰性で飯を食って、惰性で勉強をして。受験への意識が高まる高校二年の冬は、どうやら随分灰色に見えているらしい。
学校に向かう通学路の途中の、公園の隣の交差点の信号が赤に変わって、足を止めた。片手に持ったスクールバックは、冬の朝日に照らされ埃が見えていた。
隣の公園から子供たちの明るい声が聞こえる。なんだか惨めな気持ちになってしまいそうで、聞こえないように聞こえないようにと、自分の内側へ意識を向けた。
別に人生に不満があるという訳では無い。両親の大変な努力によって自分は何不自由なく暮らせているし、学校でイジメにあっている訳でもない。割と平均以上の学力はあるはずだし、友達と買い食いしたり、一人で映画を見たり、読書したり、趣味だって充実している。
そんな人生にこれ以上何を望むという訳でもないが、ただあえて言うなら、これ以上何を望むでもないからこそ、メランコリーな気分を抱えているのだろうか。
今日もそうやって、ぼんやりとまとまらない仄かな自己嫌悪を抱えながら、学校に向かってまた一歩―
しかし、今日は違った。否、間違えた。信号はまだ、危険を示す赤のままだ。
それでも、一歩踏み出してしまった。
あ、まずいかも―
そういう時、ないだろうか。体のバグというか、思いがけず、というか。気がついた時には、もう取り返しのつかないことになっている、そういう時。
とにかく、そんな時に歩き出した足を止めることは、数瞬に与えられた思考力では不可能だった。脳裏を過ぎる死の一文字、赤色灯と雑踏を背景に、自分の体は道路へと突き進む。走馬灯を感じるその刹那、交差点の真ん中に、人影が目に入った。
僅かな時間で動きを止めるのは難しくても、一度推進力を与えられたものに加速を命じるのは簡単だった。
「なにやってるんだッ!」
伸ばした手はその影を捕え―られず、そのまますり抜けた。勢いそのままに身体は宙を舞い、アスファルトに顔から叩きつけられる。
「おい小僧!何考えてやがる、危ねェだろ!怪我してねェか?おい!」
急停止したトラックの窓から、運転手が怒鳴り声をあげる。その声から、急に世界が音を取り戻し始め、顔面はアスファルトとの激突の痛みを訴え始めた。
「おい、大丈夫かって聞いてんだよ、急に飛び出してきやがって、自殺願望でもあんのか!?」
困惑と怒りの混ざった声が、上から浴びせられる。でも。
「い、今、人を轢きませんでしたか、あの、僕、小さい人影が見えて」
すると運転手はさらに困惑して言う。
「何言ってんだお前、お前がひとりでに信号つっ切ろうとしたんだろうが。大丈夫か?打った拍子に頭ぶっ壊しちまったのか?」
その言動から察するに、少なくとも先程見た人とトラックの間に接触はなかったようだ。
「あの、大丈夫です。すみません、見間違いだったのかもしれません…本当にすみません」
はっきりしない態度に運転手は舌打ちをする。そうこうしている間に、誰かが呼んだのだろう警察がやってきた。トラックの運転手の主張と自分の主張に特に違いはなく(実際飛び出したのは自分だし、人影がいようといまいと轢かれていたかもしれないのだ)、事故的なものだったという判断が下され、傷への簡易的な処置が行われたあとに、警察は去っていった。
ちょっと適当すぎないだろうかと思ったが、書類は書かされたし、学校に連絡は行っているだろうし、監視カメラなんかも調べていたようだったから、事故未満の事に対してはそんな風なんだろう。
「見間違いなら、何だったんだろう、あれは…」
足を止め、ため息をついて対岸を見やる。ちょうど青信号が点滅を終え、赤く変わっていた。
「良かった、骨は見えていないみたいね」
耳元で声がする。
「ウワッ!?」
幼げな顔が、顔を覗いていた。
「そんなに驚かなくてもいいのに。もう一回見たじゃない」
「何を言って…もしかして、さっきの人影は君か!危ないじゃないか、赤信号で車道に出るなんて!ていうか君、さっき轢かれて……」
すると女は笑って、
「手を、握ってみて」
と言う。
「…!」
握れなかった。いや、別段女性の手を握ることに抵抗があった訳では無い。彼女の開かれた手が、握ろうとして閉じた自分の手を貫通していたのだ。
「私、人じゃないから」
人じゃない―。そう言って悪戯っぽく笑う。
信じられず、まだ胸がドキドキしていた。彼女は信号の対岸を、憂いを帯びた瞳で見つめていた。
「ねぇ、学校遅刻しちゃ不味いんじゃない?そろそろ信号も青になるよ」
天使に言われて、我に返ったように思い出す。確かにそうだ。慌てて時計を見ると、まだギリギリ間に合いそうだ。
「行くのね。それがいい、いってらっしゃい、往明君―」
時計から顔を上げると、信号機から通行可能を告げる鳥のさえずりが響いていて、隣にいた天使はいなくなっていた。
往明は、僕の名前だった。
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