サッカーの王子様

@MedamaOyaji

第1話 ラス・パルマス

グラン・カナリア島にある「ペペ・ゴンサルベス」練習場の芝から熱が上がっている。夏の日の高温が選手たちの体から水分を奪っている。口の中は乾ききっているが、命が削られるような感覚はそれほど悪くない。


センターラインを少し越えた位置。ボールは右足から二歩ほど離れた位置に転がってきた。ミッドフィルダーのパスは不親切だった。状態が悪いのかと思った。名前は、確かペドロだったか?


「ヒュウガ!」


パスを求めて前進する選手たち。相手チームのディフェンダーとミッドフィルダーの間に隙間ができた。右足の内側にボールを保持し、ゴール正面に体を向ける。


細かいタッチが順調に行われている。コーチ陣が見ていたら満足していただろう。ゴールまで距離があったので、シュートまで繋げるにはもう一度タッチしなければならない。ボールを大きく前に出し、その後を追う。


相手がすぐに反応しても、こちらに優先権がある微妙な距離。ディフェンダー前線を守っていた相手ミッドフィルダーがボールの位置を確認して躊躇し、その後マンマークに出てきた。


罠がうまくいった。


顎ひげが印象的なミッドフィルダー、キリアン・ロドリゲスとは以前にもラス・パルマスBチームでプレーしたことがある。彼がどこまでスペースを詰めてくるか予測できる。足の内側を使い、ボールの進行方向をすぐに変えた。


相手選手のタックルが空を切る。左肩を入れて体をぶつけると、大きな抵抗もなく前方が開けた。キリアン・ロドリゲスは無謀な守備を試みた代償としてバランスを崩したのだ。


ミッドフィルダーのマンマークが崩れると、遠くにいる最終ディフェンダーたちの慌てた表情が見える。同じチームの攻撃手はオフサイドライン上にかかり、ミッドフィルダーはサイドに開いたため、パスを出す意味がない。残る選択肢はシュートだけだ。


ゴールの左側も右側も良い角度がある。スペースが大きく開いているので焦る必要はない。最後こそ落ち着いていなければならない。冷静さを保ちながら刻まれた姿勢に合わせてシュート動作を完了する。


ボールはゴールの左上隅に飛んでいった。遅ればせながらディフェンダーたちはシュート軌道の近くに足を伸ばそうとするが、遅すぎた。そもそもシュートスペースを許すべきではなかった。


キーパーは体を飛ばすこともできずゴールを許した。それまでの訓練がゴールという結果につながったようで気分は悪くなかった。いい感じだ。


「いいぞ!!」


「ヒュウガ、調子がいいね?」


「1軍に上がるのも時間の問題だな。見るたびに腕が上がっている。」


周囲に集まった選手たちが頭を叩きながら一言ずつ声をかける。私は答えなかった。体を触られるのが嫌だった。お互いに親しいわけでもないのに、ここの人々はすぐに境界を越えてくる。


それに話しかけてきた選手たちはビブスを着ていない本物の1軍選手たちだ。子供の戯れを見ているように話すのが苛立たしかった。


試合は2:3。1軍の勝利で終わった。同じチームのストライカーはいつも通り手足が合わず、ウィングでプレーする選手たちは初めから犬猿の仲だったので勝つことを期待していなかった。左上隅と右下隅に決まったゴールの軌道は全て私が作り出したものだということに適当に満足しなければならない。これが2軍で出せる最善の結果だった。


試合が終わって、ライオス首席コーチが練習試合後のクールダウンを始めた選手たちの間で私を呼んだ。


「ヒュウガ、来週の開幕戦でペカルタが怪我で欠場する。ウエスカとのホーム開幕戦のメンバーに含まれることになる。あらかじめ知って準備しておけ。」


「...わかった。」


初めて1軍に含まれる知らせにも心は浮かれなかった。スペインに来てまだ1年、2軍で私は散々だった。紙に書かれた記録は悪くなかったが、試合中は絶えず揉めていた。コーチたちは毎回良い評価を与えられないと首を振った。この態度ではいつ1軍に上がれるか分からない、仲間と積極的に親しくなる努力をしろと言った。それは実現不可能な要求だった。私はサッカーをしに来たのであって、私を嫌う誰かと親睦を深めに来たのではないのだから。だから私は自分勝手に、自分ができることだけをした。コーチたちの間で私の評判がどうなっているかはもう言うまい。


したがって、今さら1軍のベンチに座らせてもらったところで、それはただリザーブの私の競争相手があまりにもひどいというのが一番の理由になるだろう。


シャワーを浴びてバッグを用意する。午後4時に練習が終わったので、父が帰宅する前に電気炊飯器に米をセットしておかなくてはならない。軽いジョギングをしながら家に帰る道中、石畳の間に赤い光が絵の具のように広がっていく。


UDラス・パルマスに特別な愛着はなかったが、カナリア諸島の夕焼けだけは素晴らしいと認めざるを得ない。


黄色に塗られたアパートと住宅の間にある不思議な居住区が私の住む場所だ。エレベーターがないので、運動がてら歩くにはちょうどいい。


「Buenas tardes.」


赤いショートヘアの笑顔いっぱいのおばさんの挨拶に無言で手を挙げて応える。無視して通り過ぎたいところだが、このおばさんに対してだけはなぜかそうできない。


家に帰り、掃除機で埃の積もったベランダを一度掃除し、夕食の準備をする。スペインの空港の検疫をなんとか通過した祖母の納豆が父を待っている。


「お父さん帰ったぞ。」


父はまた変な果物を買ってきた。最初から食べなければよかったのに、父の目には私がその果物を美味しそうに食べているように映ったのだろう。


父は無愛想なのに、変なところで細やかだった。


父とはあまり話さないので、いつものように冷蔵庫からおかずの入った容器を取り出す。母と離婚してから父とはなんとも言えないぎこちない雰囲気が漂っていた。


電気炊飯器を確認する父の後ろ姿から疲れがにじみ出ている。父が果物やアイスクリームを買ってくる日は、ついでに家の中の雰囲気も沈んでいた。日本から遠く離れた異国の島。エージェントの言葉を信じて私と一緒にここまで来てくれた父は、時折危なっかしく見えることがあった。


ただ、それだけの話だ。私はクラブで決められた食事を、父は祖母が送ってくれたおかずを食べる。カナリア諸島で繰り返されてきた特別なことのない夕食だ。


***


目を開けると外はまだ暗かった。アラームを止めて体を温める。2019年8月18日日曜日。たとえベンチだとしてもプロサッカー選手としての始まりの日だった。


軽くジョギングをして戻り、できるだけ普段通りにしようと努めながら父に話しかける。声が少し震えた。コーチに初めて通知された時は何とも思わなかったが、私はダメだった。確かに大物にはなれそうにない。


「お父さん、今日の朝食は別で食べるよ。」


「どうして?」


「今日試合があるんだ。」


「どんな試合?」


「ウエスカとの試合でベンチに入ることになったよ。」


日本から持ってきたおこげの袋を開けて粥を作っていた父は、後頭部にハンマーでも打ち込まれたかのように動きを止めた。練習試合で私がゴールを決めた時にしか見せないような浮かれた口調だった。


「ラ・リーガ? 1軍の試合に出るのか?」


「はい、でもただのベンチに……。」


「早く言ってくれれば見に行ったのに!」


「ただのベンチだよ。後で見に来てよ。」


「いや、なんとかして見に行こう。いや、見に行かなくちゃ。」


父の笑顔を見るのは3ヶ月ぶりだ。ベンチに座るだけの権利に父は飛び跳ねるほど喜んでいた。微かに浮かれた父の口調に心の中に心地よい緊張感が残る。試合に出たいと思った。


* * *


エスタディオ・グラン・カナリア。


観光客が島の大半を占めているため、普段は観客数が3万人の席をすべて埋めることはないが、今日はラ・リーガの開幕戦にふさわしく満員の観客が詰めかけていた。スペインというよりはアフリカのモロッコに近い島の特性が我がチームの最大の強みだ。2時間半のフライトで飛んできたウエスカの選手たちは表には出さないが、普段通りの状態ではないだろう。


先発出場する選手たちのウォーミングアップを手伝い、試合開始が近づくとベンチに入った。ラ・リーガのマークを持った4人の子供たちの横で、選手たちは握手を交わす。ラス・パルマスとウエスカの選手たちが満員の観客の歓声の中で所定の位置に立った。


審判の笛と共にラス・パルマスの攻撃手、カストロのキックオフで試合が始まる。


最初の攻撃でペドロのロングパスがカストロを超えてアウトになると、ため息をついた観客がすぐに先導して「ペドリ-」と叫ぶ。


そうだ、ペドロではなくペドリだった。惜しい攻撃失敗にも関わらず、観客は選手たちに惜しみない拍手を送る。ペドリならそれも当然だ。


名前は混乱したが、ラス・パルマスB所属の有望株として、ペドリの成功物語を知らない人はいない。


ペドリはこの夏、バルセロナに選ばれた。


16歳の若い才能。


再レンタルを通じて再びラス・パルマスに戻ってきたペドリは、コーチが耳にたこができるほど話していたマンチェスター・シティのダビド・シルバと共に、ラス・パルマス出身の系譜を作り上げる期待の人材だった。


私もいつか来るチャンスを掴めば、あのような位置まで行けるだろうか?


同じ2008年生まれだから、いつかその近くくらいには到達できるかもしれない。


私が考えた未来への過度な楽観が不運を呼んだのか、試合の流れは徐々に押され始め、やがて一方的にやられる状態に陥った。


ペドリは素晴らしい選手だが、彼一人で試合の流れ全体を覆すことはできなかった。


昨年と同じく、私たちはラ・リーガ2を支配できる戦力を持ったチームではなかった。


ユニフォームを着替えただけのアトレティコ・マドリードの選手たちではないかと錯覚するほど、試合内容の差は歴然としていた。


歓声で励ます代わりに、観客の顔には心配の色が浮かんでいた。


ウエスカの21番選手が対角線のスルーパスをペナルティエリア内に送り、ボールは僅かな差で中央ディフェンダーのアイタミの足をすり抜ける。


ディフェンダーの後ろから侵入したウエスカのフォワードのファーストタッチは粗かったが、チャンスを逃すほどの大きなミスではなかった。


一対一となったゴールキーパーの左側のスペースにボールが通過する。失点だった。


ラス・パルマスの選手たちは当惑している様子が明らかだった。先週の練習試合で見せた余裕はどこにもなかった。


失点後もウエスカの攻撃は続き、毎回鋭かった。


前半20分が過ぎた頃、ベンチに座っていた選手たちの間から、1失点で済んでいるのは幸運だという声が聞こえた。


スペイン語が不得意な私にも、観客席から聞こえる罵声が理解できた。雰囲気は険悪だった。


「くそったれ、何回抜かれるんだ!」


まるで呪文のように、ベンチの後ろから試合内容に対する罵声が聞こえるや否や追加ゴールが決まった。クロスから右側のゴールポスト近くへのヘディングだった。


ラス・パルマスの守備は追加点と共に完全に崩れた。


練習で準備していた独特の高い守備ラインからミッドフィルダーラインの前方プレスに続く戦術を考えると、少なくとも前半に反転は期待できなかった。


ウエスカのミッドフィルダーラインは、中央ディフェンスが下がったことで生じたディフェンダーとミッドフィルダーの間のスペースを弄び、絶えず有機的なパスを交換していた。


スペインの公共放送で流れるラ・リーガ1部リーグのハイライトのようだった。

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