若菜Ⅴ

 千種と若菜を労おうと彷徨っていた僕がその騒ぎに気づいた時、は既にのっぴきならない雰囲気になっていた。若菜と、一人の若い青年。二十代前半くらいだろうか、今は進学か就職して普段は村の外にいるのだろう。僕がしばらく様子を窺っていると、やがて僕を見つけた若菜がまっすぐこちらに向かって駆けてきた。そして僕の右の袖口を掴むと、何も言わずに引っ張っていくので、訳も分からないままついて行った。そこは斜面に墓地の広がる場所だった。神社の敷地とは別なのだろう。僕らはいつの間にか神域を外れていた。

「……」

 若菜の足が止まると、しばらく僕に背を向けたまま何処か一点を見つめながらぼんやりとしていた。何か、考えているのだろう。僕は彼女が落ち着くのを待った。やがてこちらを振り向く。

「ごめんね、急に。ありがと、着いてきてくれて」

 それは珍しく70点くらいの笑顔だった。気丈に振る舞っているが、今にも空模様が崩れそうな、そんな儚さがあった。

「腹の中のものを吐き出したら、代わりに屋台で若菜ちゃんの好きなものを詰め込もう。奢りだ」

 そう言うと、若菜は眉根を寄せ、一方の口の端を歪めた。

「今日は、自分で出すよ」

「そう?じゃあ、千種さんと琴音さんの分だけ出すか」

「……それはズルくない?」

 非難がましい若菜の顔に僕は思わず吹き出してしまった。若菜も釣られて笑う。よかった。若菜が調子を取り戻したのを見て安心したのか、僕は自然、彼女の巫女装束に目が行った。

「巫女姿、似合ってるね」

 伝統的な赤い袴に白衣、襟元には掛襟と襦袢がレイヤーを成していた。しかし何故か若菜は腕を組んで険しい表情になった。

「だよね?フツー褒めるよね?まったく、なってないよ、悠斗は」

 ユウト。

「あの、彼の名前?」

「そう、神崎悠人。社の禰宜の家の息子で、ボクより二つ年上でさ。今はソトの大学に通ってて、久々に帰ってきたかと思ったら、ボクのこと見るなり『なんでそんなもの着てるんだ?』だって!」

 落ち込んでいるよりは怒ってる方がいくらか安心だ。

「その彼は、若菜ちゃんが巫女を継ぐのに反対ってことなのかな?」

 琴音の例もあるし、その気持ちも分かる気はした。

「ソーなんでしょうねぇ。自分が家の仕事継ぐのが嫌だからって、勝手にボクのことまで同志みたいに思ってたんだよ、きっと!」

 そこまで言うと、若菜は首都高速の分岐みたいに複雑な表情を浮かべた。

「結構厳しく躾けられてきたみたいだからさ、結局いまも神道系の大学行ってるんだけど……本当は先生になりたいんだよ、彼。だから、ボクも応援したいとは思ってたんだけど……」

 若菜らしい話だ。

「『娼婦まがいのことはやめろ』って。そんな言い方なくない?」

 僕は思わず眉をひそめた。そして口元に指を当てる。難しい問題を考える時の僕の癖だ。その様子を見て若菜が戸惑う。

「まさか、結人さんまでそう思ってるの?」

「いや、僕はそんな風には思わない。断じて。僕は僕なりに断片的だけどこの村の伝統を理解してきたし、何より若菜ちゃんや千種さん、和夫さんらの想いを知っている。そう思えるはずがない。セックスワーカーを蔑むつもりは全くないし、敬意を払うべきだとも思ってるけど、区別されるべきだ」

 そこまで言うと、若菜はほっとした表情を浮かべた。

「ただ……」

 僕は一度言葉を切った。どう伝えるべきだろう。

「そういう風に思う人もいるということ自体は、神崎君が証明してしまっている。今回みたいな葛藤に今後も苛まれる可能性は、頭の片隅におかないといけないのかもしれない」

 これには若菜もすぐに返せないのだろう。目を伏せ、それについて考えているようだった。遠くから祭りの賑わいが聴こえてくる。こんな日にそんなことを考えたくはないだろう。僕は彼女が気の毒になった。

「でも、一つ言えるとすれば――」

 彼女の目が僕を捉える。

「若菜ちゃんのその怒りは正当なものだと思う。これからも怒っていい。むしろ怒っていかないといけないのかも。それはそれで疲れるだろうけどね」

 僕は困ったような顔になっていたと思う。そう、困ったことだらけの世の中なんだ。

「そっか……そうだね。ボク、間違ってないよね?」

「間違ってないと思う。でも、間違っててもいいんだ、そんなことは本当は誰にも決められない。よほどのことでない限りね。もちろん、文明人として法律は守らないといけないけど」

 若菜はまた腕を組んで何かを考えている風だ。

「よほどのこと……ヒトを殺しちゃうとか?」

 僕はまたも困った顔をすることになった。

「まぁ、そうかもね。でも難しい問題だよ、それは」


「うーん……!」

 若菜が天を突くように伸びをする。

「話したらなんかスッキリしちゃった。いつもアリガトね……結人さん、なんか話やすくてさ」

 笑顔の若菜を眺めながら、こうやって周りの男は勘違いしていくんだろうな、と僕は無意識に生温かい視線を送っていただろうと思う。

「それじゃあ着替えてきちゃうね。汚しちゃうといけないからさ」

「巫女のお勤め的なものは、もう他には大丈夫なの?」

 お神乳の奉仕以外にも何かあるかもしれないと思って僕は訊いてみた。

「片付けとか手伝うって言ったんだけど『今日は疲れたろうけ、あとはお祭り楽しんで帰ぇらっしゃい』って言われちゃってさ。ま、それなら若者はお言葉に甘えようかなと」

「初めてのことで緊張しただろうし、それがいいんじゃないかな。僕には想像もできないけど、けっこう大変なことなんだろうとも思うし」

 僕がそう言うと、若菜は草履で土を穿りながら、お勤めのことを思い返しているように見えた。

「まぁ、そんな飛んだり跳ねたりするわけじゃないけどさ……楽しいときとか、怖いときとかもそうだけど、やっぱり興奮すると疲れちゃうよねぇ」

(……興奮するものなのか?)

 気が昂ったりするのだろうか。とても想像できない領域のことなので何とも言えないが、どちらかと言うと静かに心を落ち着けて事にあたる風なイメージを持っていた。あまり突っ込んだ話をするのも気が咎める。話題を変えよう。そう思ったが――

「男の人もオナニーすると疲れるんでしょ?」

「……え?」

 なぜ急に下の話になったのかついて行けず、僕は戸惑いがそのまま口から出てしまった。

「え?って……あれ、もしかして結人さん知らない系?」

 僕はこの会話を続けていいのかよく分からなかったが、終わらせ方も分からなかった。

「たぶん、知らない系」

 自然、僕の反応はオウム返しのようになり、若菜は呆れた表情になった。

「ひょっとしてお神乳が母乳みたいに勝手に出てくると思ってた?」

 僕は馬鹿みたいに何度も頷いた。

「はぁ……まぁ、そうだよね。分かんないよね。でもよく考えてみてよ、お神乳が母乳みたいに勝手に出てきてたら、それってかなり大変だよ?垂れ流しってことでしょ?」

 確かに、母乳の場合は出産というトリガーがあり、断乳することで分泌が治まっていくという程度の知識は僕にもあった。垂れ流しというのは大げさにしても若菜の言う通り、そうしたトリガーがないとすれば、日常生活にもかなり支障が出るだろう。

「だからね、その……いや改めて意識すると、さすがのボクでも言うのちょっと恥ずかしいけど、お神乳はセーテキコーフンで出るんだよ」

「……」

 珍しく頬を赤らめながら若菜が言った内容は衝撃的だった。僕はとりあえずいつもの様に腕組みをしながら拳を口に当て、目を伏せて考える姿勢をとった。なるほど?つまりお神乳というのは、その生成メカニズムとしては母乳よりは愛液に近いということだろうか。和夫さんがあの夜に語っていた意味がようやく分かった。確かに、その効能を考えれば、性的興奮によって分泌されるというのは理に適っている気がする。生命の神秘だ。しかしそうすると、お神乳の奉仕というのは単に搾乳しているだけではなく、自慰行為のようなことが裏では行われていたということになる。

「……」

 僕は思わず顔を手で擦って、そのまま彼女から目を逸らし、斜面の適当な墓石を見つめた。どうでもいいことだが、この顔を手で擦る行為は手に負えない事態に陥った時についやってしまう。一体どういう心理的機構により行われるのだろうか。そんな現実逃避的思考をする程度には、僕は混乱していた。いや、彼女だって恥ずかしいのだ。それでも親切心から僕に教えてくれた。僕が恥ずかしがってどうする。なんてことない。たかがオナニーだ。誰だってする。そう思うことにした。そして彼女の方を見ると、なんとも言えない表情で僕を見ていた。

「たしかに、そうだよね。垂れ流しなわけがない。僕の想像力不足だった。ありがとう、教えてくれて」

「ドウイタシマシテ」

「……行こうか」

 僕は社の方に向けて歩き出した。後ろからついてくる若菜の気配を感じたが、なんとなく睨まれている気がして、背中がぞわぞわした。

 その後、祭りの会場内に戻り、若菜が着替え終わるのを待った。そして既に着替えて出てきていた千種と、休憩に入った琴音にも声をかけて、四人で縁日を回った。僕は最初しばらくは千種の顔もまともに見ることが出来なかった。途中、昨日会えなかった起一さんと巧二さんにも逢った。起一さんは千種と何か話していた。家族計画がうまくいっているといいのだが。巧二さんは僕を『両手に花だ』と揶揄からかい、琴音にたしなめられていた。やれやれ。だが、しばらく回っても神崎君の姿はどこにも見当たらなかった。


「そういやぁ、結人さん、来週末のご予定はどうですかね?」

 少女らが金魚を掬っている間、巧二さんが僕へにじり寄ると、含みのある笑みを浮かべながら小声で尋ねてきた。

「来週末ですか?……いえ、特に決まったものはなにも」

 僕は少し自嘲的になりながらそう返した。だがそんな僕の表情を彼は計るかのようにしばし見つめていた。

「そうですかねぇ、いやぁね、ちょっとした御祈祷みてぇなのがあってさぁ、結人さんはもう招待されてるんじゃねぇかって思ったんですよ。結構格式のあるもんみてぇなんで、まぁそのうちに声もかかるでしょうがね。参加されるんだったら、流れでまた一杯、と思ったんですけどねぇ、また今度ですわな」

 わざわざそのためだけに飲みに誘うのも気が引ける、ということなのだろう。こういう時、真に社交的な人間は食い下がって逆に飲みに誘うのかもしれないが、僕は流れに身を任せる。

「お気遣い、ありがとうございます。そうですね、特に何も聞いてないので、機会があればまた」

 そんな僕の返しに、巧二さんはむしろほっとしたように見えた。あるいはそれは、僕の自虐的バイアスがそう見せていただけかもしれないが……ただ最初のあの笑みは引っかかった。そもそも、そんな小声で訊かなければならないようなことなのだろうか?釈然としない思いはあったが、特に追及する理由も見当たらず、僕らはそのまま祭りの平和な空気を楽しんだ。

 

 やがて本格的に闇が迫って来た。村民らがまた社務所の前に列をなし、何かを受け取っていることに気がつく。

「そろそろテントウの時間だね」

 隣に立った若菜がそう口にした。

「テントウ?」

 若菜は説明を求める僕の背中を押して、強制的に列に並ばせた。見ていると、受け取った者は適当な場所に腰掛けると、四角柱型の和紙の箱のようなものを組み立てている。短冊に何か書いている者もいた。願い事だろうか。やがて、その光は灯り始める。ランタンだ。

「天に、母の『燈』の字で『天燈』と言うんです」

 そう語ったのは、千種だ。

「七年前に母が考案して始まったイベントなんです。必ずしもソトに向けたアピールっていうんじゃなくて、たとえ衰退していく村でも、少しでも自分たちの想いや願いを検めて、大切に生きるために何かしたいんだって」

「燈子さんらしいね」

 千種が微笑む。あるいは知ったような発言だったかもしれない。でも、以前の夕食会の場だけでも伝わるくらい、燈子さんは温かかった。

(……売女……)

 昼間の老婆の言葉が甦る。この村で何があったかは分からない。僕に知る資格があるかも分からない。でも、若菜と神崎君の一件だけでも、この村の伝統は微妙なバランスの上に成り立っていることは分かる。それをただ上辺だけで判断するのは、正しい間違っている以前に、勿体ない気がする。この時、僕の中にひとつの想いが生まれた。例えこの先、この伝統がどんな結末を迎えるとしても、そこに息づいていた人々の想いを、何らかの形で語り継いでいきたいと。

 列の順番が来て、天燈のセットを受け取る。

「LEDなのか」

「なんかちょっと、ガッカリですよね」

 そんな、なんだか琴音らしからぬ言い様に思わず頬が緩む。

「火だと危ないし、仕方ないよね。それに――」

 僕は周囲で数を増し、さざめくように灯り始めた想いの火たちを眺めた。

「人工の火でも、とっても綺麗だ。本質は、たぶん何も変わらない」

「まーた難しい顔しちゃってー。キレイなものはキレイ、それでいいんだよ」

 そうだ、いくら僕が訳知り顔で講釈を垂れても、そんなものは無粋だ。若菜の方がきっとずっと本質を捉えている。

 中庭に移動し、皆で各々にキットを組み上げ、短冊に想いをしたためる。僕は何を書くべきか随分と迷った。こういうところで優柔不断さが出る。先刻の若菜の言葉が甦る。何も小難しいことを考える必要はないのだ。

「結人さん、何て書いたの?」

「特別なことは何も。好きな歌の歌詞を少しもじっただけだ」

――ただ一日でも多く、みなの幸せが傍にありますように――

 じっと短冊を見つめていた若菜の表情が綻ぶ。細められた瞳は、文乃さんを髣髴とさせた。

「いいんじゃない」


 やがて時間になり、皆が集まってくる。水を打ったような静寂の中、虫たちの求愛の声だけが夜空に舞っている。輪の中心には、巫女装束に身を包んだ文乃さん、すみれさん、そして燈子さんがいた。手にした一回り大きな天燈が、三人の相貌を淡く照らし出す。顔を見合わせ頷き合うと、そっと赤子を抱くようにして手を離す。僕は矛盾したことを言っているだろうか。それを合図にして、笙の音が響き渡り、村の皆も次々に想いを載せた光のはこを天に捧げた。そうして、目の前に灯篭の海が現出した。それは花のようにも見えた。光が咲いている。想いが咲いている。世界に想いが混ざる。世界が滲む。涙が頬を伝った。滝のような音がする。嗚呼――僕は遠くまで来た。

 

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