水と油は調味料

堺栄路

水と油は調味料

 背中に隠した包みを、早川千尋はやかわちひろはぎゅっと握りしめた。オレンジの光に満ちた教室を、引き戸越しに見つめている。その瞳は、窓際に座る女生徒を映していた。

 早川千尋の手には無数の絆創膏が貼られている。それは彼の努力の痕だった。

 すう、と息を吸い、はあ、とため息をこぼす。ここで怖じ気づいてどうするのだ、と内なる自分が彼の心の奥で叫んでいた。おまえのこの一月を無為にするつもりかと。

 いや、そうじゃない。千尋は首を振る。自身の努力を誇示したくて作った訳じゃない。努力は意思を伝えるための手段だ。目的はあくまで、本意を伝えることなのだ。

 彼は自らの頬をたたいた。

 いつだって、彼は方法を間違えてきた。

 言葉はいつだって、彼の足枷だった。正しく言葉を紡ぐことが出来ない。何をすればいいかも分からない。

 だから、”物”だった。

 意思を込めた物を渡せば、きっと彼女にも伝わるだろう。たとえ今日が、バレンタインから一月遅れであろうと。

 千尋は意を決して扉を開ける。

 予想より大きな音が教室に響くが、彼女は全く顔を上げなかった。彼女の視線はただ分厚いハードカバーに注がれている。タイトルには、『おおいなる眠り』と書かれていた。レイモンド・チャンドラーの名作だ。千尋が彼女にすすめた本でもある。読んでくれていることに胸が熱くなる。瑞々しい達成感が胸にこみ上げたが、なんとか口角が上がるのを自制した。

 艶のある黒髪は彼女の視線を隠しているが、その御簾みすの向こうには、夕焼けの反射した湖のようにきらめく美しい瞳がある。千尋は無意識にそれを想像し、また胸を高鳴らせた。

「こほん、」

 彼は意を決して、彼女に近づいていく。

 


 ○



 紺野桃乃こんのもものが目を覚ますと、教室には二人きりであった。彼女にとって本を読む行為は、活字の海に浸かることである。人間が寝ている時、意識は無意識という海の底に沈むと聞いたことがあった。そういう意味では、彼女にとって読書とは、眠る行為に近いのかもしれない。

 たまたま図書館で目についたレイモンド・チャンドラーの『おおいなる眠り』の中に沈み込んでいた。ついに悪役と対峙した私立探偵が、自らの車を囮に相手を出し抜くシーンは痛快で、胸を躍らせた。

 彼を倒したと確信した悪役に、探偵は側面から回り込んで銃を向ける。

「気が済んだか?」

 ドスン、と鉛玉を食らわせて終了だ。

 キザっぽい言い回しがまた面白い。たくさん本を読んできたものだから、自然と選書力が磨かれてきたのかもしれないと思った。図書館の本棚の中で、この本の背表紙だけが少しだけ前に飛び出していたのだ。

 ——下校の時刻を知らせるベルが鳴る。

 また、やってしまった。

 本を読み始めるといつもやってしまう。五限目とホームルームの合間にちょっとだけ読もうとして、そこから記憶がなかった。

 ああ、もう……。

 ——起立、気をつけ、礼。

 生徒全員が慣れた動作をする中で、自分だけが気づかず本を読み続けている。想像するだけで顔から火が出そうだった。

「気が済んだか?」

 先ほど読んだ私立探偵が話しかけてくる。生徒の本分をほっぽり出した私に、罪の意識を自覚させるように……。

 そこで、彼女は顔を上げた。その声におぼろげにだが、聞き覚えがあったからだ。

 一瞬誰だか分からなかった。前髪が視界をさえぎったからだ。髪をかき分けて、おずおずと相手を捉えた。

「え、と、早川……くん?」

 赤毛の同級生が目の前に立っていた。早見か澤山か悩んだか、確か早川だ。陰と陽で云えば明らかに陽の極北にいるような男、早川千尋が立っていた。

 早川は声が大きく、いつも元気で、誰にでも気さくだ。自分のような陰の者にも気さくに挨拶をする(それの善し悪しは置いておいて)。たったそれだけのことだが、他人に話しかけるだけでパニックになる彼女にとっては、同じ人間とは到底思えなかった。

 紺野桃乃の頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。陰陽とは反目するものであり決して相容れるものではない。いわば『水と油』である。それが彼女の持論であった。

「どこまで進んだ?」

 その言葉が読書の進捗を訊ねたものだと気づくのに数秒かかった。たった数秒の合間だが、それだけの間相手を待たせているということが、どうしようもなく彼女を焦らせる。

「えと、街を出たところで車がパンクして、そのね……」と、しどろもどろで要領の得ないものになってしまう。

 案の定、彼は固まっている。困らせてしまったのだと彼女は思う。その実彼はといえば、かぼそい消え入りそうな声を聞いて、うっとりとしていたのだが。

(俺だけに向けた言葉だ……)

 御簾の向こうから現れた、焦がれた女の声と姿を眺めるだけで、彼は万感の思いに浸ることが出来る。

 そもそも、まともに会話したことが無かった。

 彼と彼女は、クラスメイトであるということ以上の共通点がないままに、ここまで過ごしてきたのである。

 早川千尋は紺野桃乃に声をかけることが出来ずにいた。

 紺野桃乃は早川千尋をずっと遠い存在としていた。

 そんな膠着とも呼べない膠着状態が長く続いていたのだ。三月も末になれば終業式があり、四月になればクラス替えがある。勝負のタイミングは今しか無いのだ。

 早川千尋は我に返ると、何か言葉を探した。

「マーロウはいつも酒を飲んでるよな。あの時代、飲酒運転って違法じゃなかったのかな」

 彼は彼とて、何を話していいか分からぬのである。

「さあ、そういうものだと思ってたから……」

 目隠しをしたキャッチボールは、方向を失って落ちていく。

 紺野桃乃も話題を切ってしまった自覚があるので、より黙り込んでしまう。

 御簾の下に潜った瞳は、早川千尋が手を後ろに回していることに気がついた。

 なんだろう、と小首をかしげる。

 何か隠し持っているのか。彼女の読む小説では、後ろ手に持っているものは凶器と相場が決まっている。まさか、とは思うが……。教室で二人きり、そして今日は三月一四日……そういうことに、気がつかない女だった。

 自分と最も縁遠いものであると、思い込んでいる。

 

 

 ○

 

 

 このままではいけないと、早川の心の中は叫んだ。話題を作るだとか、ムードを作るだとか云っている場合ではない。それ以前のことなのだ。そういうことが出来なかったから、こんな事態を招いているのではないのか。とろろのような粘っこい感情を体にみなぎらせ、早川は口を開く。

「話があるんだ」

「はぃっ!?」

 ひっくり返った声を聞いて、早川の心はチクリと痛む。だが、まだ、まだだ。

「いつも君のことを考えていた。ずっと」

 紺野桃乃はおずおずと彼を見つめる。

「君が誰かと話しているのを見ると、心がざわついた。落ち着かなくなるんだ。困ったぐらいに」

 桃乃は黙っている。その空白が、早川の心を逸らせる。

「気がつくと君を追っていた。君を見ているとゾワゾワ落ち着かなくなるのに、どうしたって目が離せなかった」

 単刀直入な言葉を紡ぐ度胸がないために、こんなことばかりがこぼれ出る。

 自分が情けなくてしょうがない。彼女に聞かれて引かれちゃいないか。流れ出した言葉と一緒に吹き出したささくれが、彼の胸の奥をチクチクと刺してくる。

 ——一方、勝手に話して勝手に混乱する彼を見て、桃乃はさらなる混乱に追い込まれている。殺意(?[#「?」は縦中横])を持って現れた男に「君をずっと追いかけていた」などと云われれば、殺人予告のようなものである。

(まさか、本当に。……そんな人に恨まれることなんてしたこと無いのに。もしかして、私の存在そのものが我慢ならないってこと?)

 派手に思い違いをして、さらに転がっている。

(確かに私なんて、陽の人から見れば同じ世界で同じ空気を吸っていることすら我慢ならないでしょうけど……こんなに直接的に云われるなんて思ってもみなかった!)

 もちろん頭からそんな妄想を信じている訳ではない。だが一度広がった想像の翼というものは、おいそれと仕舞うことは出来ないのだ。当人の意思とは関係なく。

 火のように燃え上がる早川千尋と、水底に沈んでいく紺野桃乃。彼・彼女は確かに水と油で、混ざることのない平行線に立っていた。

 こうして心に振り回されて、偶然混ざり合った。だが、水と油はすぐに振りほどかれてしまうことを、彼らは無意識に感じ取っている。

 だから、早川千尋は用意したのだ。

 起死回生の一石。言葉によらない一発逆転を目指した。

 水と油を混ぜるためには、石鹸を混ぜると良いらしい。水とも油とも馴染みやすい界面活性剤と呼ばれる物質の一種である。

 後ろ手に持つそれが、自分たちの合間を埋めるものになるかは分からない。だけど、一歩踏み出さねば答えは見つからないのだ。

 早川千尋は手を前へと持って行く。

 紺野桃乃は一瞬目をつぶり、それからおずおずと顔を上げた。

「……受け取ってほしい」

 桃の形に似た箱を見て、ようやっと桃乃は彼の意図を悟った。

 

 

 ○

 

 

(な・ん・で?)

 彼女の感情はこの一言で十分に表せた。

 妄想の酷い彼女であっても、流石にこの形を「持ち手のとれたスペード」とは思わない。(……罰ゲーム、とか?)

 その方が彼女にとっては信じられる。クラス一の根暗女に、陽の男が、そんなこと。

 だが、目の前の早川千尋の表情は真剣そのもので、ついでに手は絆創膏にまみれていた。逃げ道は丁寧に潰されている。

(まさか、私の為にってこと? ああ、どうしよう。どう答えるのが正解なの? どういう風にするのが一番なのかな……)

(ううん、そうじゃないわよね。大事なのは自分の心だって、さっき読んだ本にも書いてあった……気がする。私はどうしたいの……)

 ここで初めて——おそらく生まれて初めて——紺野桃乃は早川千尋の顔をじっくりと観察する。

 御簾の向こうから、のぞき見た。

 赤茶色の短い髪に、意外と鼻が高い。じっと彼女を見つめる瞳は、不安げに揺れている。

 顔は整っている方、だと思う。

 まったく悪い感情は抱かない。むしろ……。彼の緊張が移ったように、彼女の心がさざめきだっていく。

 目の前の事態を受け止めきれず、落ち着かない。

「……ありが、とう」

 ひとまず受け取った。いつまでも差し出された手を放置しておくことが、申し訳ないと思ったのだ。

「手作り?」

 彼は頷く。すごいな、と彼女は思う。私は料理なんてしたことが無い。

「どうして私なの? 私なんて、ちっちゃいし、度胸もないし、自信も無いし……」

「理由は無いよ。ただひと目見たときから、ずっと気になっていた。心の中にずっと君がいた。だから、気持ちを伝えたくて……」

 また、すごいな、と思う。

(私の知らないことを、この人は知っているのだなあ)

 驚きの次には感嘆がきた。

(理由が無いなんて、云ったことが無い)

 本の中の内容を眺めているような、自らを俯瞰する自分がいるような、不可思議な感覚だった。

(結局、どう答えるのが良いのかな)

 こんな時、お話の中ではどう書いていただろう。これはもう告白のようなもの……?

(あれ、告白は、されてないような)

 そうだ、物を渡されただけだ。彼の言葉の中に、紺野桃乃とどうなりたい、というフレーズは含まれていない。

 桃乃は顔を上げて、早川千尋を見つめた。そして、言葉を待つことにした。

 その沈黙の意図は早川にも伝わる。自分がまだ決定的な一言を口にしていないことを、彼だって気づいているのだ。

 顔を引きつらせ、次にはプルプルと体を震わせ始める。首から上が徐々に赤くなっていく。息を吸って、吐く。もう一度吸って、震える瞳を、まっすぐ彼女に向けた。

 桃乃も息を呑む。

「好きなんだ。——一生一緒に居てほしい」

 それはあまりに突飛で、かつストレートな言葉であった。

 言葉を投げかけることは時に、拳で殴るのと変わらない。

 相手を殴るとき、自分の拳もまた傷を負う。

 もはやプロポーズであるその言葉は、盛大な爆発力を持って彼・彼女の心に響き渡る。

 紺野桃乃は二度瞬きをして、それから顔を真っ赤にした。

「それって……」

 早川千尋もまた、遅れて自分が何を口にしたか理解したらしい。言葉にならない呻き声をいくつか漏らした後、顔を手で

 覆って縮こまってしまう。

「あー、えー、その……ごめん、ちょっと、その……嘘……いや、嘘じゃない、本気だけど、ええと……」

 (紺野桃乃にとって)珍しく言いよどむ彼は何とも新鮮で、イメージにないものだった。

 鼓動がはねる。耳の奥で動悸を感じる。

(なんと答えるべきだろう)

 先ほどと同じ疑問を再び自分へと投げかける。

 桃乃は黙って、ハートの包みを見つめた。鏡のように何かが返ってくることを期待したけれど、ただ心臓がうるさいだけだった。

 ——水と油を混ぜるには、界面活性剤を使う以外にもう一つ方法がある、桃乃は昔読んだ本の一節を思い出している。

 何も混ぜない水と油を、分離させずにいる為の方法、それは。

 上下の区別の無い、無重力の空間に置くことだという。

 彼女はおずおずと、口を開く。

 夕方の教室で、二人の人影が重なっていた。

  

    

(了)

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