落ちぶれたアラサー勇者が新米魔王少女にひたすら甘やかされる話

水口敬文

プロローグ

   プロローグ


 小山と見紛うほど巨大な竜が眼前に立ちはだかっている。

 アストレインは三十年近い人生において、何度か竜と呼ばれる魔物と対峙してきたが、これほど大型の種と遭遇したことはなかった。

 さすが魔界の深部、ということか。


 数え切れないほどの命を刈り取ってきたせいで赤黒い色が沈着してしまっている牙や爪を見ていると、それだけで足がすくみそうになる。

 と同時に、形容しがたい高揚感も胸の奥から込み上げてくるのを自覚していた。

 人に害をもたらす邪悪な竜を打ち倒す機会を得て、アストレインは喜びを感じているのだ。


「俺にも、まだ勇者としての本能が残っているってことか」

 やや自虐的に笑ってしまう。


 今のアストレインは『勇者』という単語を口にするのもおこがましいほど落ちぶれてしまっている。

 アストレイン自身、自分はもはや勇者ではないと思っていた。

 だが、勇者失格だとしても、それでもなお、アストレインの奥底には『勇者』の欠片が残っているのだ。

 たとえ、それが吹けば消えそうなほど脆弱な残り火だったとしても、アストレインにとっては大切なアイデンティティだった。


「よし、やってやるか」

 聖剣の足元にも及ばない安物の剣の柄を握り直し、巨大な竜に向かっていく。

 もう、心の中に恐怖はない。

 あるのは、勇気だけだ。


『脚力強化』。

『反応速度強化』。

『視力強化』。

『腕力強化』。

 駆けながら、強化魔法を次々と己に重ね掛けしていく。

 現役時では、こんな魔法に頼ることはなかった。だが、最前線から離れて久しく、三十手前の衰え始めた体だ。使わざるを得ない。


 対する竜は、そんなアストレインを見てニヤリと笑った。

 強大な自分に挑みかかる愚かしい小物を嘲笑っているのだろう。


 確かに、全盛期の自分ならいざ知らず、大きなブランクがある今の自分ではかなり勝率は低い。

 だが、やると決めているのだ。

 確固たる決意と共に剣を構える。


 それを見て、巨竜はガバリと顎を開いた。

 生臭いにおいと共に硫黄に似たにおいも漂い始める。炎のブレスを吐くつもりだ。火炎を跳ね返す盾も魔法も有していないアストレインは食らえば、消し炭になるのが必定だ。


 しかしそれでも怯まず真っ直ぐ走り続ける。

 皮膚が焼け付くほどの熱気を感じた瞬間、巨竜の口から深紅の洪水と見紛いそうなほど太い火炎が吐き出された。


 回避しようがないほど巨大な火炎が迫ってきても、アストレインは冷静だった。

 神経を極限まで研ぎ澄まし、炎を見据える。そして、刀身に自身の魔力を延展した剣を真っ直ぐ振り下ろした。

 迫りくる炎が、バターのように容易く両断される。

 『斬魔』。

 魔法やブレスといった形無きものを切り裂く技だ。

 魔法が不得意なアストレインが魔法使いに対抗するために会得した技である。


 安物の剣の一太刀によって二つに分かたれた炎の切れ間から巨竜の顔が再び見えた。

 魔物は、矮小な生き物を再び見ることになるとは思ってもいなかったようで、驚きの表情でアストレインを凝視してくる。


 それは、巨竜にとっては致命的な隙で、アストレインにとっては逃してはならない好機だった。


 タンッと地面を蹴り、巨竜の頭上に飛び上がる。

 そしてそのまま重力に従って自由落下し、巨竜の上顎に剣を突き立てた。

「――――!」

 火炎を吐く器官を持つ代わりに発声器官を持たない竜の声なき悲鳴が周囲に響き渡る。

 バタバタと苦しみ悶え、夥しい鱗に覆われた尻尾を振り回し、ドスンドスンと地面を踏み鳴らす。それでもアストレインを振り落とせないと知った巨竜は忌々しい小物をはたき落そうと大木よりも太い腕を自分の顔に向かって振り上げた。

 上顎に全力で剣を突き立てているアストレインはまるっきり無防備で、回避することも防御することもできない。


「――エスカ!」

 だから、アストレインは相棒の名を呼んだ。


「待ちかねたぞ!」

 それに呼応し、少し離れたところでアストレインと巨竜の攻防を見守っていた一人の少女が嬉々とした声を上げた。

「ふっ飛べぇ!」

 尋常ではないスピードで一気に巨竜に詰め寄ると、走った勢いそのままに大きく跳躍する。

 そして、上顎にしがみつくアストレインに気を取られてがら空きになっている下顎にアッパー気味の拳を叩き込んだ。

 ドウッ‼

 まともに食らった巨竜が、砦が崩壊するかのように凄まじい砂煙を巻き上げながら仰向けに倒れる。


「アハハハハハッ! 無様な姿を晒したな竜よ! その命、もらい受ける!」

 少女は高笑いを上げながら完全に無防備になった竜の胸に飛び乗り、ズブリと左胸に手刀を突き刺した。

 二の腕が見えなくなるまで深く沈み込ませた手刀を引き抜くと、その傷口から間欠泉のごとく鮮血が空高く吹き上がる。

「――――!」

 巨竜が声なき悲鳴を上げながら、ジタバタと暴れ始めた。生にしがみつこうと抗い続ける。

 だが、少女はそんな竜の抵抗など歯牙にもかけず、ズブリズブリと手刀を繰り出し続けた。

 そのたびに、血の噴水がブシュリブシュリと上がる。

 だが、その勢いは少しずつ弱まり、いつしか完全に血の吹き上がりは止まってしまった。と同時に、巨竜の抵抗も終わった。


「よしよし、討伐完了だ! さすが私とアストだな。実に見事で、文句のつけようのない素晴らしい連携だった。うむ、やはり私たちは相性がいい」

 巨竜が息絶えたのを確認した後、手刀を引き抜いた少女はトンと地面に降り立った。その表情は存分に泥んこ遊びをした幼子のように無邪気で幼く、可愛らしい。

「失格勇者と新米魔王の相性がいいってどういうことだよ」

「さほどおかしいことではあるまい? 魔王と勇者は表裏一体の存在なのだからな」

 深紅の噴水を浴びてベットリと付いた血を拭い、黒髪をかき上げる。髪の間から、人間ではあり得ない漆黒の角が二本、顔を覗かせた。


「表裏一体、か。言いたいことはわからなくもないけどな」

 量が仰向けに倒れたせいで天地が逆転し、突き立てた剣にぶら下がる状態になっていたアストレインはドスンと着地した。

 そして、不要になった身体強化の魔法を解除する。

 すると、蓄積された疲労が一気に噴き出してきた。


「つ、疲れた……」

 現役の時はこの程度の戦闘など物の数ではなかったが、最底辺の暮らしを長く送ってきたせいでスタミナなど皆無になっていた。

 立つ気力も残っておらず、ぐしゃりとみっともなく地面に座り込んでしまう。

「明日は絶対に筋肉痛だな……」

 うまく力が入らない太ももを叱咤するように叩き、自嘲する。

 全盛期の自分を取り戻そうと決意し、頑張っているつもりだ。だが、ちっとも体がついてこない。往年の自分に戻れるのはいつの日だろうか。いや、ひょっとしたらそんな日は永遠に来ないかもしれない。


 疲労も手伝って、思考がネガティブになってしまう。

 すると、こちらの様子を伺っていた魔族の少女がアストレインの頭をクシャクシャと撫でてきた。

「貴様は情けなくなどない。よくやった」

「俺は、そうは思えないんだがな」

 全盛期の自分なら、あんな竜など一人で充分に勝てた。だが、今の自分では誰かの助力がなければ絶対に勝てない。


「やれやれ、仕方がない奴だな」

 討伐成功にもかかわらず、かつての自分と今の自分のギャップを痛感して落ち込んでいると、魔族の少女が両腕を広げてアストレインを抱きしめてきた。

「お、おい、さすがに外だとちょっと恥ずかしいんだけど……」

「何を今さら。それに人の姿はない。気にすることはないだろう」

 二人の周囲にあるのは巨竜の亡骸だけである。彼女が言うとおり、誰かに目撃される心配はないだろう。


「何より、そういう風に落ち込んでいる貴様をそのままにしておくなどできるはずがない」

「…………」

「貴様はすごく頑張っている。すごいぞ。さすがアストだ。胸を張れ。貴様がいなければこうも容易く竜を倒すことはできなかった。貴様がいてくれて本当によかった」

 ストレートに褒めてくれる。

 それが素直に嬉しい。


 返り血のせいでベタベタするし鉄臭い。

 だけど、やわらかさとぬくもりはしっかりと伝わってくる。それがアストレインにとって何よりの安らぎだった。

 半ば無意識に彼女の胸の谷間に自分の顔を擦り付けるように埋めて、双丘の感触を堪能していると、疲労も心の奥にある不安も溶け出していく。


「ふふふ……」

 アストレインの頭を撫でながら、少女は少しくすぐったそうに笑った。

「貴様は、私のおっぱいが大好きだな?」

「……うるさい。好きで悪いか」

 まるでこちらの心の中を見透かしたかのような言い方だが、今さら否定するのも恥ずかしい。素直に肯定して、子供のようにギュッと抱きつく。

 ものすごく落ち着くし、幸せな気持ちになる。よくないことだと思っても、やめられない。


「貴様は本当に甘えん坊だなぁ」

「こんな風にしたのはお前だろ」

「それは、否定しない」

 魔族の少女は心底楽しげにクスクスと笑い、

「そうだ。城に帰ったら体を洗ってやろう。血と泥でドロドロだからな」

「いや、それはさすがに……」

 大型犬のように洗われる自分を想像し、ちょっと顔をしかめてしまう。

「私がしたいのだ。やらせろ」

「……だったら、まあ」

 不承不承といった感じで頷く。


「代わりと言っては何だが、夕飯はアストの好きなものを作ってやろう。何がいい?」

「ハンバーグ」

 即答すると、少女はまた面白そうにクスリと笑った。

「わかった。作ってやろう。しかし、材料はあっただろうか……? いや、目の前にあるか」

 アストレインを抱きしめつつ、少女の視線が巨竜の亡骸に注がれる。

「おいおい、竜の肉を食べるのかよ」

「竜の肉は脂質が低く、高たんぱくで栄養価は非常に高いのだぞ。体作りに最適な食材の一つだ」

「ボディビルダーみたいなことを言われても困るんだが」

「何を言う。貴様だってしっかり栄養を取ってしっかり体を作らないといけないだろう」

「とっくに成長期は終わっているんだけどな。……エスカって年下のくせに時々母親みたいなことを言うよな」

「そういう文句は、乳離れしてから言うのだな」

「…………」

 返す言葉が出てこないアストレインは、少女の胸にますます顔を埋めるのだった。



 これは、落ちぶれてしまった勇者が再び立ち上がるまでの物語である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る