第12話
「げ、げほっ、げほ……う、うぅぅ」
苦しそうに、芥子川が床にうずくまっている。
「……」
その様子を、少し距離をとった位置から気まずい顔の私が見ていた。
「私は……謝らないからね」
私の顔は、まだ赤い。
それは、いまだにひどく興奮していたからだ。
「は、はいぃぃ……。ど、どう考えてもボクが悪かったのでぇ、だ、大丈夫ですぅぅ……げふっ!」
「……だ、だって、だって」
昨日、トイレで自分の「恥ずかしい音」を芥子川に聞かれてしまったこと。そして、自分が「大きな勘違い」をしていたことが分かって、興奮で顔を染めていたんだ。
「あ、あなたが『女』だったなんて……分かるわけないでしょうっ⁉」
さっき、うっかり芥子川を「二人目の犠牲者」にしてしまいそうなほど我を忘れていた私を、ギリギリのところで制止したもの。私がしていた「大きな勘違い」に気づかせた言葉。それが、芥子川が言った、「ボ、ボク、女の子なんですぅぅぅ」だった。
芥子川が女だったら、女子トイレに入っていたのは普通のことだ。自分の「恥ずかしい音」を他人に聞かれてしまったことには、変わりはないけど……男に聞かれるよりは、まだマシだ。
もちろん、いきなりそんなことを言われても、すぐに信じることなんて出来なかった。
「だ、だってあなた……私たちから男として扱われていたときに、否定しなかったじゃないの⁉ だ、だいたい、今だって自分のことを『ボク』とか言ったりして!」
「は、はいぃぃ……。皆さんが勘違いしてそうなことには、もちろん気づいていたのですがぁ……。で、でも、ボクって、こんな見た目と性格ですしぃぃ? ボ、ボクが女だろうが男だろうが、困る人も喜ぶ人も、別にいないと思っていたのでぇ……。あえて訂正するほどでも、ないかなぁ、とぉ」
「何よ、それ……」
そんなことを言いながら、芥子川が見せてきたプラスチックのカード。それが、最後のダメ押しとなった。
「こ、これは……」
カードには、芥子川の顔写真と名前、大学で専攻している漫画学科と、そのコースのことが印刷されていた。それは、私たちが所属しているT美の、「学生証」だ。
「うちの大学ってぇ……LGBTQとかが叫ばれているこのご時世に、いまだに学生証に『生物学的な性別』を載せてて、時代遅れだ……なんて、よくネットで叩かれてますけどぉ。ボクみたいな人にとっては、こういうときに便利なんですよねぇ……」
その言葉の通り、芥子川の名前の横にあった性別欄には、たしかに「女」と書かれていたのだった。
「も、もちろん、②のボクが女ということはぁ……他の二人の芥子川マナオ①③も、女ですぅ。ボ、ボクたちは女の子として生まれ、女の子として育った……しょ、正真正銘の、女の子なんですぅ……くふっ」
「……」
ボサボサで、手入れなんかしてなさそうな長い髪の間から覗く、気持ちの悪い笑みを浮かべた二つの瞳。
改めてそれを見直してみると……そ、そう言われてみれば……ど、どことなく……女の子特有の可愛らしさのようなものが、あ、あるような…………やっぱり、ないような……?
完全に先入観を取り払えず、ジロジロと芥子川の姿を見てしまう。そんな不躾な私の視線も、芥子川には相変わらず「ご褒美」みたいだ。体をくねらせながら恥ずかしそうに、
「も、もしもまだ疑っているようでしたらぁ……こ、この場でパンツを脱いで、その中を確認してもらうこともぉ、やぶさかではないのですがぁ……」
なんて言い出している。
「それは、いいから……」
「と、とっても恥ずかしいですけどぉ……。だ、誰にでも、そんなことできるわけじゃないんですけどぉ……。で、でも、ほかでもない城鳥さんが命令していただけるのでしたらぁ……ボ、ボクにとっても、ありがたいことですのでぇ……」
「そこまでしなくても、いいから」
「そ、その代わり……。命令するときは、出来るだけキツい口調でぇ、ボ、ボクのことは『豚』と呼んでいただけたりするとぉ……」
私の言葉を無視して、勝手にジーンズのベルトを外し始める芥子川。慌てて、私は叫ぶ。
「だ、だから、もういいって言ってるでしょっ⁉ やめてよ!」
「そ、そぉですかぁ……? じゃ、じゃあ、信じてもらえるんですねぇぇ? そ、それはそれは……ありがとぉございますぅ」
そう言う芥子川は、何故か残念そうな顔をしていた。
確かに、「パンツの中にあるもの――というか、無いもの」を確認すれば、ハッキリするのは間違いない。でもまさか、こんなところで下半身を露出させるなんて、たとえ本人が言い出したとしてもダメだ。本当に芥子川が女子なのだとしたら、余計にそうだ。
それに実は、さっき芥子川が途中まで脱ぎかけていたときにウッカリ見えてしまったけれど……ジーンズの下にあったのは、たしかに女性物の下着だった。
結局私は、
「し、信じるわよ! 信じればいいんでしょっ⁉」
彼……いや、彼女の言葉を信じることにしたのだった。
つまり、昨日八時から九時の間、芥子川マナオ三人は、本当にトイレにこもっていた。漆代①②が「誰もいなかった」と証言した男子トイレではなく、女子トイレの個室にいた、ということらしい。
今のところはその証言には矛盾はない。むしろ、女子トイレの個室に入っているときに隣の個室に私がきたということ。そして、その大まかな時間を証言できたこと――実際に、ハイメ②の私は、そのくらいの時間にトイレに行った記憶がある――を考えると、他の人間のうさんくさいアリバイより、ずっと確かなくらいだった。
それから、
「き、昨日のアリバイの話のときに、ボクが自分の性別と、女子トイレにいたということも言えれば良かったのですがぁ……。も、もしもそれを言おうとするとぉ、みなさんがいたあの場で、城鳥さんの『オナラのこと』も、言わないといけないかと思いましてぇ……。さ、さすがにそれは、失礼にも程がありますでしょぉぉ……? ぐふっ」
昨日芥子川の一人から送られた気持ちの悪い視線には、そんな意味があったらしい。
「……」
一旦収まり始めていた顔の紅潮が、また戻ってきてしまった。
「ち、ちなみに……ボクが自分で自分のことを『ボク』って呼んでいるのはぁ……ただの趣味ですぅぅ……。だ、だって……ボクっ娘キャラって、可愛くないですぅ? ……でへへ」
と言って、着ているTシャツの黄色い髪の美少女キャラを愛おしそうに撫でる芥子川。もしかしたら、そのキャラも「ボクっ娘」だ、と言いたいのかもしれない。いや、知らんがな……。
ただでさえ、昨日からわけのわからないことが続いて、驚いてばかりだったというのに。それに加えて、こんなどうでもいい新事実まで発覚して。
「……はぁ」
私はまた、いつものような大きなため息をついてしまうのだった。
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