惚れた彼女と夏の夜に

藤田七七

1話完結

20代最後のある夏の夜に僕は由貴と表参道を歩いていた。


少し背伸びをしたい年頃だった僕は、片思いの女性と鮨を食べてワインを飲み、それなりにスマートに会計を終えて、次の手を考えた。


外に出ると夏の夜がはじまっていた。


この夜の行く末に期待を感じながら表参道を歩いていると、由貴は立ち止まり僕の目の前に立った。 正面から見ると、由貴の黒い髪は耳が隠れるぐらい伸びていた。


彼女と出会った頃、僕が照れながら

「短い髪の合間から見える耳の形が好きだ」

と言うと、由貴は

「そんなこと言うのはあなたがはじめてだ」

とにやけていた。

由貴はそろそろ髪を切る頃合いなのかもしれないし、僕はその耳が見えることを密かに期待した。

「今度はわたしがご馳走するから、あなたが行きたいバーに行こう」


由貴はさりげなく僕の手に触れながらそう言った。 美味しい鮨を食べて、ほろ酔いの時に片思いの女性から手を触れられて「バーに行きたい」と言われるような際どいときめきを感じることは、この先何度も訪れることではないだろう。当時の僕はそう思っていた。


僕は都内で行きたいバーの候補をいくつか思い浮かべた後に、南青山にあるバーラジオに行こうと言った。

「わたしもバーラジオだと思ってた」

由貴は僕からその左手を解いて笑顔で言った。 僕の右手は行き先を見失い、自由を持て余した末にポケットに隠れた。


バーラジオに向かってふたりで歩きはじめたとき、夏の風が彼女の短い髪を揺らした。その香りが風と絡まり僕の五感に届くと、この上ない心地よさが感じられた。

「今ここを歩いている時のことは、この先もずっと覚えているからあなたも覚えていてね」


前触れもなく由貴はそう言った。 今こうして文章を書いているから、由貴が言った通り、僕はその時のことを覚えている。


バーラジオに着くと、タイミング良くカウンターが2席空いていて、店主の尾崎さんの目の前に座ることができた。

尾崎さんの著者『バーラジオのカクテルブック』では、村上春樹や村上龍、塩野七生らが寄稿文を寄せているが、尾崎さんの文章は左記の著名人に劣らず品位が保たれている。


〈ラジオ〉は大層な表現をしますと「現代の茶室」でありたいと願うものです。毎晩の営業はさしずめ「夜咄の茶事」と言ったところでしょうか。


僕はその格式高い文章を読んで以来、いつの日かバーラジオで尾崎さんのカクテルを味わうことを切望していた。バーラジオで酒を嗜むことで、大人の男へ近づくのだと根拠なく信じられるほど、僕は青かったのだ。

念願のバーラジオのカウンターで目の前には尾崎さんが、左には由貴が僕に視線を向けている。 静かなジャズが流れる薄暗いカウンターで、尾崎さんが艶やかな夜を整えると、僕らは互いを意識しながら彼女はマティーニを、僕はギムレットをオーダーした。


心地よい緊張感の中で僕はギムレットを味わった。 隣の由貴はマティーニを一口味わうとオリーブを口に含み、そのグラスを僕に傾けた。 代わりに由貴は僕の前にあるギムレットのグラスを手にして、その唇を近づけた。

「美しく官能的なマティーニに出会えたね」

由貴は言った。

「どこまでも鋭くもまろやかなギムレットにも」

僕は応じた。


僕と由貴は尾崎さんが作るカクテルを2杯ずつ味わい、彼女が決して安くはない会計を済ませてバーラジオを後にした。


僕らは来た道を折り返し歩きながら、自然な流れで手を繋いだ。そのとき由貴が何を望んでいるのか分からなかった僕は、青山通りの交差点でタクシーを止めた。 この先の振る舞いとして、いくつかの選択肢を並べた僕は、運転手に行き先を聞かれて、彼女を一目確かめた後に、それぞれの帰路を伝えた。


タクシーの中でただ静かに移り変わる夜の景色を眺めている由貴を見た僕は、その手に触れようとしたが、留まった。先ほどまでの軽やかで甘い空気は、いつの間にか苦い沈黙へと変わっていたからだ。


マンションの近くでタクシーを降りようとするときに由貴は、僕の瞳の奥を覗いて言った。

「後悔しても知らないから」


そう言った由貴に対して、僕が何を言ったのかはどうしても思い出せない。 記憶は前触れなく僕らの意識に訪れては、いつの間にか煙のように消えていく。

ただ確かなのは、僕はどうしようもなく、抗えない程に由貴に惚れていたことと、由貴は僕の想いに気づいていたことだ。

それは恋人と眺める月が我々の瞳に綺麗に映るぐらいに確かなことなのかもしれない。 尾崎さんに真っ先にマティーニをオーダーして、僕に一口味あわせてくれた由貴はいつだって僕の気持ちを先読みしていたから。


「今ここを歩いている時のことは、この先もずっと覚えているからあなたも覚えていてね」


由貴のその言葉は、僕との未来を示唆していたのではないか。それを思った僕は今さらながら、どうしようもなく由貴を抱きたくなった。

このまま終わらせたくはないと思い電話をしてみたが、由貴から折り返しが来ることはなかった。


夜が明けて日が昇っても冷静になりきれずにいた僕は「由貴と話がしたい。連絡を待っている」とだけメールを送ったが、その後メッセージが既読になることはなかった。


日々未読のメッセージを確かめる内にようやく僕は、由貴がひとつの結論を出したことを悟った。

同時に、本気だったからこそ許せないこともあるという現実を知ったが、それを受け入れるには僕はまだ若すぎたのだ。


本当に欲しいものが手に入る機会を得ながら、自らその機会を逃した痛みを知った僕は、後悔と未練を断ち切るためにとにかく酒を飲み続けた。

ひどく酔った夜には由貴に連絡をたいし気持ちを必死に抑えながら眠りについた。当時の僕は、見境なく飲み続けることしか、自らを保つ術を知らなかったのだ。


数年振りに由貴に会ったのは、ある夏の夕暮れ時だった。

僕がカフェで文章を書いていると後ろから聞き覚えのある声がした。

「相変わらず書いてるんだね」

由貴の前には、コーヒーカップとサリンジャーの短編小説『ナインストーリーズ』が置かれていた。


由貴は照れながらも、僕の目の前の席に移ってきた。

その黒い髪は肩まで伸びていて、僕が好きだった彼女の耳は完全に隠されていた。


「やっぱりサリンジャーは野崎訳だね。バナナフィッシュにうってつけの日って訳すなんて最高だよ」

久し振りという挨拶も近況を確かめ合うこともなく、由貴は続けた。

「バナナが大好きな魚が、穴の奥にたくさんのバナナを見つける。魚は穴をくぐり、バナナを食べ続ける。太った魚は穴から出られなくなる」


「入口と出口は変わらない。変わったのは魚だけ」

僕が応じると由貴は笑った。

久し振りに会う由貴はとても陽気だったが、そこには不自然な明るさが含まれていた。

わずかな沈黙の後に由貴は僕の目を見て言った。         「ねぇ、覚えてる。あの夜に表参道を2人で歩きながらわたしが言ったこと」

「覚えているよ」

「今ここを歩いている時のことは、この先もずっと覚えているからあなたも覚えていてね」


由貴は当時自らが言ったセリフを一字一句違わず再現した。

由貴の後ろから西日が差し込み、その表情が陰に隠れた。

僕が冷めかけたコーヒーを口にすると彼女は言った。

「ねぇ、どうしてあの夜好きって言ってくれなかったの。わたし、バーラジオでマティーニを飲んだんだよ。あの夜だけはあなたに、わたし、あなたに抱かれたかったのに」


何も言えずにいる僕に由貴は笑って続けた。

「あの夜じゃなきゃ断ってたけどね」

再び苦い沈黙が訪れると、僕は由貴の左指に眩しくて目を背けたい輝きが灯っていることに気がついた。


僕はもう由貴の髪の合間からその耳を見ることはないだろうと悟った。

コーヒーは冷めて、苦味が増していた。

僕の視線に気づいた由貴は言った。

「わたし、来月にね」

「やっぱりサリンジャーは野崎訳だね」

不自然に話題を変えることしか出来なかった僕の気持ちを察した由貴は「入口と出口は変わらない。変わったのはわたしたちだけ。サリンジャーっぽいね」と言った。

由貴は席を立ち「じゃあね」と言ってその場を去った。

僕は「またね」を期待するなと自分に言い聞かせながら、由貴の後ろ姿を見ていた。

由貴の席には飲みかけのコーヒーと共に『ナインストーリーズ』が置かれていた。

曖昧な別れの挨拶だが、僕はもう2度と彼女に会うことはないと確信した。

その夜、僕は由貴が置いていった『ナインストーリーズ』を片手に、表参道を歩いてバーラジオへと向かった。久し振りに酒を飲まないと自らを保てそうになかったからだ。

バーラジオへ向かう途中、夏の風は生暖かく、当時感じた心地よさは失われていた。

いや、夏の風は変わることはなく、由貴が言ったように変わってしまったのは僕らの方なのかもしれない。

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惚れた彼女と夏の夜に 藤田七七 @Fujita77

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