珈琲文学館2025
北原 亜稀人
第1話 Just a little sign
「ジャスト ア リトル サイン」
サウンドオブサイレンスのギターアレンジが大人しくて物悲しげな雰囲気を演出していた。音の雰囲気からして、多分、ナイロン弦で演奏されているのだろう。物悲しさの中に、小さな温かみ。アウトロで、リードパートが優しさとテクニックに溢れたアドリブでもってひとつの“物語”の完結を予告する。その場に居合わせた誰もが、終わりを惜しみつつも、ここから始まるであろう次なる何かへの期待を胸に抱く事が出来る、僅か数分の短い物語。
僕を少しだけ前向きにさせてくれた旋律。出会う事が出来たのは、ちょっとした偶然か、もしくは、幸運。夕暮れ時で、力強い夕陽が遠景の山々とどこまでも続いていくかのような国道の路面を照らしていた。
その場所は、青森県と岩手県の県境に程近い近代的な道の駅に併設されていた喫茶スペース。国道四号線内で最も標高の高い辺りから、一時間くらい。交通量はそこまで多くない。途中でその道の駅に寄ったのは、ちょうど運転をスタートしてから二時間経ったあたりで、疲れが溜まっていたから。そして、小腹が空いてきていたから。つまり、偶然だ。腹が空き始めていなければよらなかっただろうし、途中でちょっとした事故渋滞に巻き込まれなければ、もう一つか二つ先まで進んでいただろう。
仕事で青森県の弘前まで行ったその帰り道だった。今ではもう辞めてしまったけれど、当時の僕は千葉県にある中古車ディーラーに勤めていて、その日の仕事内容は弘前まで車を一台届けて代車を引き上げるという、極めて単純かつ手間のかかる作業だった。ちょっとした行き違いがあってお客さんがあらかじめ計画していた引っ越しに間に合わなかったため、仕方なく。そんな事情があって僕は青森まで来ていた。非日常的で悪くないなどと思えたのは本当に、最初の一時間くらいなものだ。
往路は社用扱いで高速使用。帰路高速は自己負担、と会社からの通告を受けていて、仕方なく僕は一人黙々と国道を走っていたのだ。ガソリン代は後で誤魔化して回収出来るとしても、青森から千葉県までの高速代金ほど一回が高額になってくると、なかなかそれも難しい。
気分は最悪だった。自分の車ならばいざしらず、ラジオしかついていない走行十万キロオーバーの代車で空調の調子も悪かった。ガラスもUVカット機能のついていない安い車だったから、エアコンを全開で回してもとにかく車内は暑く――七月下旬、真夏日だった――、その上眩しくて仕方が無かった。
*
立ち寄った道の駅には、大きな駐車場、土産物のコーナー、道路状況を案内する端末、軽食コーナー、それに加えて、独立した喫茶スペースがあった。
平日の夕方、周辺に他の商業施設も無かったから客の入りはかなり良く、駐車場は八割方が埋まっていた。周辺住民の利用が多いのか、土産物コーナーは若干寂しさがあったものの、軽食コーナーの座席は殆どが埋まっていた。ざわめきが鬱陶しかったし、この中で決して美味くはないであろう軽食を空腹の足しにするというのは、僕にとって受け入れがたい事だった。軽食コーナーが禁煙だった事も大きい。車のシートで苛立ちながら吸うそれとは違う伸びやかな休憩を僕の全身が要求していたのだ。当時の僕は末期的と表現するのが相応しいようなヘヴィ・スモーカーだった。
併設されていた喫茶スペースはすいてこそいなかったけれど十分に空席があったし、レジも混雑してはいなかった。細長くて奥行のある店内。軽食メニューも何種類かあった。パンでも焼けたのだろう、と思わせる匂いが僕の空腹を刺激した。ちゃんと喫煙席もあった。
それほど多くはない選択肢の中から、ブレンドとベーグルサンドを注文し店内最奥にあった喫煙席に陣取って、ようやく休息の開始だ。西向きに窓が穿たれているらしく、差し込んでくる光が少し眩しかったけれど、焼き立てのベーグルと、熱いコーヒーのおかげで精神的には安定を取り戻していた。
何らかのヒーリングミュージックを流し続けていたBGMが切り替わったのは、僕がベーグルを食べ終え、コーヒーをおかわりして、三本目の煙草に火を点けた辺りだった。夕暮れがひときわ近づいてきていて、僕が店内に入った頃は入れ替わり立ち替わりだった来客も気がつけば随分と減っていた。全部で四十席くらいの店内の入りは半分くらい。誤差無く数えられる量しか用意されていない喫煙席は、十席中、六席が空いていた。
メロウでアコースティックな響きが、店内を満たした。切り替わった最初の一曲目は、ビートルズのイエスタデイ。次が、サイモン&ガーファンクルのサウンドオブサイレンスだった。
従業員の好みなのかもしれない。西側の窓から綺麗な夕陽が見える日にはこのCD……そんなこだわりがもしあったなら、それはとても素晴らしいことだと思う。普段は拝めない力強く濃緑をたたえる山並みと、何もかもを照らし、その光の中に溶かし込んでいく夕陽。重なるアコースティックギターのナイロン弦、柔らかな響き。コーヒーの香りがそれを引き立てて、煙草の煙が僕のそんな、行くあての無い思考を薄靄の中にたゆたわせてくれる。
ヴォーカルラインを装飾しながらなぞっていくギター、煌びやかなアルペジオを淡々と重ねていくメインパートと、控え目にコードを鳴らすバッキング。重ねあわされたそれが、夕陽やコーヒー、煙草と一緒に僕の中に投げ込まれてきて、少し奇妙な気持ちになった。まだ何も終わっていないのに、終わったような、終わってしまったような、そんな気持ち。それは喜びではなく、けれど悲しみでもなかった。達成感だろうか。何も、何一つとして成し遂げたわけではないのに。
*
僕が喫茶スペースを出たのは、その場所の閉店時間になってからだった。サウンドオブサイレンスにすっかりやられてしまった僕は、コーヒーをさらにもう一杯おかわりして、携帯電話を弄んだり、ほんの少しまどろんでみたり。次々と流れてくるギターアレンジに何もかも任せて、結局、店員に“閉店になります”と言われるまで居続けてしまったのだ。
夕暮れを通り過ぎて夜になってしまうと、もうそこには何の感傷も無かった。静かな、田舎町の夜。僕がそこに見出す事が出来るのは取り残されてしまったような寂しさだけだ。ウイスキーを舐めながらのんびりCDでも聞いて、さっさと眠ってしまいたかった。夕暮れとアコースティックギターが僕の中の色々なものを置き替えていってしまったのだ。何かを頑張ろうという気持ちや、今日の走行予定は、全部、気だるさにとってかわられてしまった。
車に戻って乗り込んでエンジンをかけると、ノイズ混じりのFM放送が流れてきた。古臭いボロ代車。アンテナの調子が悪くて、ラジオ受信が上手くいかない時がある。現実への回帰。ラジオが吐き出すノイズが何処となく、車から僕への抗議のように聞こえた。謝る気なんかさらさらなかった。
*
翌日の午後三時過ぎにどうにか帰り着き、そのままCD店に行ってイモン&ガーファンクルのベスト盤を買って来た。我慢しきれなくなって自腹で高速道路を使ってしまったし宿泊費もしっかりかかってしまっていたから、本当だったらCDなんか買っている場合では無かったけれど、まだ何も終わっていない、その事を証明したかったのかもしれない。
幸い、僕が住んでいたアパートの部屋には西向きの窓があった。緑溢れる山並みの代わりに中堅都市的な、それほど大きくはないビル群が見える。ベーグルを買ってきても良かったけれど、二日連続で食べたいほどに好きでも無かったので、食べ物は無し。その代わりに、コーヒーを少しだけ上質なものにした。あの喫茶スペースのコーヒーならばそこらに売っているようなレギュラーコーヒーで十分なのだろうけれど、せっかくだから、と言うことで専門店に行って、感覚で選んだブルーマウンテン。二百グラムで三千円だから、決して安くはない。CDよりも高いコーヒー。これで自分好みの味では無かったら感傷に浸るどころの話では無いけれど、勢いで買った。
「随分高いんですね」
「でも、味はいいですよ。日本人好みの味です」
百グラムでも良かったのに、“二百グラムからになっています”と言われて三千円だ。一緒に、ドリップ用のペーパーフィルターも買った。
我が家のコーヒーメーカーはアパートの納戸に封印されたきり。三年前に今のアパートに引っ越してきて以来そのまま、一度も開いていない。防かび剤と一緒に箱詰めしたところまでは覚えていたけれど、似たような性質の段ボール箱が数箱あって、探しだすのに苦労した。
念のために綺麗な布巾でメーカー全体を拭きあげて、真新しいペーパーフィルターの封を切ってセットし、とりあえずカップに一杯分のコーヒーをドリップするように水の量を調節してスイッチを入れると、コーヒーが蒸らされてメーカーから蒸気が上がり、部屋の中に香りが行き渡り始めた。それを横目に見ながら部屋の隅の押しやっていたCDラジカセに買って来たばかりのCDをセットする。もうすぐ、夕暮れ時だった。
コーヒーメーカーからドリップ音が止んで、出来上がりを確認した後、適当なカップを用意してコーヒーを注ぎ、CDの再生ボタンを押下した。サイモン&ガーファンクルのベスト盤。サウンドオブサイレンスは都合のいい事に一曲目だった。本当だったらアコースティックギターアレンジのそれが欲しかったのだけれど、僕が普段利用しているCDショップには用意が無かったから妥協した。他の店舗に探しに行こうか、とは少し考えたが、原曲でも僕の求めているものは十分に手に入る。そんな、確信めいたものがあったのだ。
別にコーヒー通でも無い僕は、コーヒーの味なんか分らない。詳しい人であれば、酸味がどうこう苦味がどうこう、とその違いを論じる事も出来るのだろうけれど、僕にはそんな事、真似すら出来ない。大雑把な判断基準として、好きか嫌いか、熱いか、温いか、冷たいか。それだけだ。ブルーマウンテンも、もしかしたら僕みたいな大雑把な人間に飲まれる事を残念に思っているかもしれないけれど、申し訳無い気持ちを心に抱いて飲んだそれは、美味かった。あの喫茶スペースで飲んだコーヒーよりも間違いなく美味い。値段が頭について離れなくて、無理に思い込もうとしている可能性は否定しないが。
CDがノイズの一つも出さずに、サウンドオブサイレンスを再生していた。ポール・サイモンの世界に、アート・ガーファンクルが煌びやかな彩を加え、その物語の奥行きが僕の部屋いっぱいに広がっていった。
コーヒーは悪くない出来だったし、サイモンのメロディラインは確かに美しかった。歌声はとても鮮やかで、夕焼けは開け放った掃き出し窓から確かに僕の部屋を照らしていた。夏の夕暮れ。蝉の鳴き声はこんな中途半端な都会でも、ちゃんと聞こえる。カラスが一羽、視界の中を横切って何処かへと飛び去って行った。
*
少しずつ冷めていくコーヒーをすすりながら、沈みゆく夕陽を横目に見て、僕は物語の結末について考えていた。その間もCDは規則正しい演奏を続けていて、気がついた時には五曲目、スカボロフェアーになっていた。
学生時代に、何かの作業をしながら聞いた覚えがある曲。静かで、それは何処か、湿り気を含んでいる。けれど、流れてくる情景は明るい。雨の降っていない、晴れやかな休日。そこには、ちょっとした幸運と、目指した末にたどり着いた何かがきっとあるのだ。それこそ、必要に応じて買い求める香辛料のようなもの。或いは、1エーカーばかりの土地。もしかしたら途中で銃を磨く兵隊に巡り合うことが出来るかもしれない。
そして、登場人物が望むと望まないとに関わらず物語は終幕する。選べない終わり。本当にこれで良いのだろうか。僕は考える。何かが終わったのだろうか。それは、誰かが終えたものなのだろうか。僕は何をしたのだろうか。何ができるのだろうか。考えて、繰り返し考えて、ブルーマウンテンを飲み干し、CDの再生を止めた。
*
玄関に転がっていたスニーカーをひっかけて外に出て、駐車場に停めてあった代車に飛び乗った。自分の車は会社に置いたままだったから仕方ない。どうせなら自分の金で入れたガソリンを使いきってやった方が世のため自分のため。そういう事にしておく。
特に当ては無かった。此処ではない、何処か別の場所に行ければそれで良かったのだ。少なくとも僕にとっての物語的結末は、そういう類の嘘っぽさを含んだものだった。
アクセルを踏み込むと、何処か覚束ないエンジン音を上げて車が加速する。小さな路地から幹線道路に合流して、速度を上げながら西に進んだ。夕陽が沈む方角。まだ残照が空を染めていたけれど、もう眩しくは無かった。紺色の空。点き始めた街灯。僕の家からだと、西方面は下りの路線だったから、道はそれなりに混んでいて、沢山の車がそれぞれの帰るべき場所へと向かって、じれったそうに走っていた。
車を走らせながら、サウンドオブサイレンスを口ずさんだ。歌詞なんか覚えてなかったから、頭から適当だ。メロディラインだけは出来るだけ正確になぞるように。アート・ガーファンクルの優しい声色を、最低でも自分には分かる程度に真似ながら。きっと、外からみたらものすごく笑える光景だったことだろうけれど、そんなことは取るに足らない事だった。だって、物語はもうじき終わるのだ。余計な事を考えるのはエンディングの、スタッフロールの時で十分だ。
サウンドオブサイレンスが終わって、次は明日に架ける橋。それが終わったら、スカボロフェアーを歌おう。ガソリンはまだ残っていて、ちょうど、残り油量の警告ランプが点いたばかりだった。まだあと、五十キロくらいは走れる。僕の行動範囲という狭い尺度で考えれば、僕はそれこそ、“何処にだって”行くことが出来た。たどり着いたその場所で、何かをしよう。何でもいい。結末に相応しい事。五十キロと考えれば、一番近い海岸までがちょうどそのくらいの距離だった。海に向って、あらゆる不平不満をぶつけてもいい。ガス欠になるまで走って、JAFでも呼ぼうか。
ラジオが、遥か彼方の渋滞情報をノイズ混じりに報告し始めたのに気付いてスイッチを切った。そんなものは必要無かった。決まり切ったものなんて何もいらない。明日から再開されるであろう鬱陶しい日常との接点なんか、何もかも消し去ってしまいたかった。
渋滞が少しほどけてきた。かすかに見えてきた落着点めがけて僕はアクセルを目いっぱい踏み込んだ。口ずさむ「明日に架ける橋」は最後のサビ。耳ざわりな三速オートマの騒々しいエンジン音に負けないように、僕は出せる限りの大声で歌った。小さな、気を抜けばすぐに見落としてしまうような、ほんのわずかばかりの幸福がもうすぐやってくるような、そんな気がした。
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