第5話 我思う、ゆえに我あり ~借り物の身体と意識の行方~

「我思う、ゆえに我あり」—— デカルトのこの有名な言葉は、人間存在の本質を鋭く突いています。デカルトは、感覚を通して私たちを欺く不完全な身体に対し、意識(思考)こそが真の自己であると考えました。この視点に立つとき、私たちの身体は、あたかも一時的に借り受けた器のように見えてきます。


しかし、この「借り物」の身体こそが、私たちの意識に豊かな色彩を与えているのではないでしょうか。愛する人に会う時の胸の高鳴り、不安に襲われた時の胃の痛み、心が躍るような瞬間。これらはすべて、身体を通して初めて経験できる感覚です。私たちの意識は、この身体という楽器を通じて、人生という音楽を奏でているのかもしれません。


人は時として、この身体が「自分のもの」であるかのように錯覚します。好きなように扱い、酷使し、時には危険な物質で試すこともあります。しかし、このかけがえのない身体は、あくまで「借り物」です。だからこそ、私たちはその使い方に細心の注意を払わなければなりません。例えば、身体に異物を入れる行為 — それが食物であれ、薬物であれ — には慎重な判断が必要です。


私たちの意識は、この借り物の身体を通じてのみ、現世と交わることができます。清々しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込む感覚、温かい陽だまりで心が和む瞬間、愛する人の手のぬくもり。これらの経験は、すべてこの身体があってこそのものです。


さらに興味深いことに、私たちの意識は身体からの影響を強く受けています。疲れ切った身体は、思考をも鈍らせます。健康な身体は、しばしば前向きな思考をもたらします。つまり、この「借り物」は、借り主である意識にも大きな影響を与えているのです。


ですから、この身体を大切に扱うことは、単なる健康管理以上の意味を持ちます。それは、私たちの意識、思考、感情の質を守ることでもあります。適度な運動、バランスの取れた食事、十分な休息。これらは、借り物を大切に扱う当たり前の作法なのかもしれません。


そして最後に、この「借り物」の身体には返却の期限があることを、私たちは知っています。だからこそ、その一瞬一瞬を大切に扱い、感謝の気持ちを持って接することが重要なのです。それは、この素晴らしい「器」を私たちに貸してくれた存在への、最も基本的な礼儀なのかもしれません。


身体は、確かに「不完全」かもしれません。しかし、その不完全さも含めて、私たちの人生に深い意味と豊かな経験をもたらしてくれる、かけがえのない贈り物なのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る