殺戮団地

洞見多琴果

第1話 凋落の家族

 愚鈍で、単純な建物だった。

 高級感もセンスの欠片も無い、ただ突っ立っているだけの箱。こんな場所にこれから自分たちは住むのだと、宇野裕香はそう理解するのに時間がかかった。

 感情と矜持が、目の前を拒否している。


「まじかよ」


 息子の高之もショックを受けていた。

 義理の母親である裕香に対して不貞腐れた態度を取り、無視か敵視がいつものの二人のだったが、この場では同調していた。


「何をぼんやりしてんだよ」


 裕香の夫で、高之の実の父親である宇野清一が尖った声を出した。


「さっさと家に入れ。荷ほどきにかかれよ」


 引っ越し業者の若者たちはテキパキと、そして無情に裕香たちの家財道具を運んでいく。

 エレベーターの無い団地の五階。

 階段は幅が狭い。

 引っ越し業者たちの後から、のろのろと裕香たちは階段を登る。

 ドアを開けると、カビと埃の匂いに包まれた。


 低い天井だった。畳もふすまも黄ばんでいる。

 窓はわびしいアルミサッシだった。

 床はフローリングに見せかけた、木目のビニールだった。

古びたシンクの台所は、干からびた匂いを発していて、ディスポ―サーどころか食器洗浄機もない。


 部屋そのものが貧しかった。

 私はここまで堕ちたのかと裕香は思った。


「おい、何ボヤっとしているんだよ。色々することあるだろう」


 清一の声が突き刺さる。


「お前、いつまでそんな態度を取るつもりだ。そんな風でいられても、何もはじまりゃしないぞ」


 あんたのせいじゃないの。

 裕香は、無言の呪詛を返した。

 今まで住んでいたタワーマンションの33階の部屋は、まるで高級ホテルのスイートルームのようだった。

 繊細なルームフレグランスが漂い、空気まで洗練されていたのだ。


 床は淡いグレーの大理石、深紅のペルシャ絨毯。高い天井に全面ガラス張りの窓。

 昼は明るく、夜は街の宝石をちりばめた眺望。

 裕香が選んだイタリア製の家具は、モダンシックな内装と溶け合い、結婚祝いの バカラのクリスタルの花瓶には、店から毎日届けられる生花を活けていた。


 マンションのエントランスは広く、革張りのソファがあるロビーには、24時間を住民に奉仕するコンシェルジュサービスのスタッフが常駐していた。

 それが今、天空から地べた、いや、どぶ水の中に叩きつけられた。

 裕香は、のろのろと段ボールに手を伸ばした。


                 ※


 宇野清一と出会ったのは、4年前だった。

 当時裕香は短大卒業後に中規模の保険会社に就職2年目、清一は裕香の会社近くにあるレストランのオーナーだった。


 清一の経営する『BUONO』は、弁当屋から定食、レストランまで、ビジネス街の飲食店激戦区にありながら、お洒落で美味しいとネット上でも評判の店だった。

しかも裕香の会社から徒歩2分の立地だった。コンパや送別会など会社のイベントで利用するにはうってつけの店だった。

 もちろん、裕香にとってもお気に入りの店だった。


 週末、仕事が終われば店に行く。そして磨き込まれた木製のカウンター席に座り、独りでゆっくりと前菜を口に運びながら、香りのよいワインを楽しむのが一週間の労働を終えた自分のご褒美だった。


「よく来てくれるお客さんは多いけど、裕香のように綺麗な子はそうそういなかった。店の照明は落としているはずなのに、裕香が座るとカウンターはパアっと明るくなったよ」


 後から清一は、裕香にそういった。

 そうして店の常連から店長のお気に入り客へ、そして恋愛と発展した。

 付き合っているうちに、清一には貴和子という妻がいて、当時は中学生の息子、高之がいるという事も知ったが、それもすぐに割り切ってしまえた。


 清一とは20も年が離れているのだ。妻子持ちだとは、会った時から十分想像していたことだったし、社会に出たばかりの22才の裕香にとっての『結婚』はまだ現実から遠く、どちらかと言えば、安定より自由と享楽を求めていた。


 付き合っているのが既婚者だと、道徳心さえ目をつぶれば清一は裕香の理想的恋人だった。

 BUONOだけではなく、他にも経営する飲食店があった。

 次々と店のアイディアを出し、確かな手腕で商売を成功させていく、20才年上のレストラン経営者は、今まで見た男たちの中で最もスリリングで、刹那的で、ビジネスにも私生活にも冒険心を燃やす、オスの魅力に溢れた男だった。


 付き合っていくうちに、清一との結婚を考えなかった訳ではない。

 愛しているとは思っていたけれど、既婚者の清一が妻と別れる気はないものと割り切ってもいた。


 それが交際2年目の24才の誕生日、清一のジャガーの助手席で、漆黒にざわめく夜の海を見つめながら『妻と離婚を決めた。裕香と結婚したい』カルティエのダイヤの指輪を差し出された時は、すぐには信じられず夢ではないかと思った。


 既婚者の男が妻と離婚して、恋人と結婚する。

 不倫の中で一番困難な、普通なら愛人の夢で終わってしまう結末だ。

 それなのに、魅力に溢れた清一のような男が妻より自分を選んでくれたことに、そして自分が既婚者の恋人ではなく、正式な妻になれるなど思っても見なかった嬉しさだった。


 幸せ過ぎた。

 裕香は清一の胸の中でいつまでも泣きじゃくった。

 しかしこの裕香の幸せな結婚も、世間の尺度の中では不倫以外何物でもなく、清一は妻を裏切った有責配偶者になる。


 こうなると元妻から慰謝料をどれだけ要求されるのか、それが気がかりの一つでもあったが、あっさりとカタがついた。

 元妻は裕香の存在を知っていながら、何故か清一に慰謝料を要求せずに、自分名義の貯えだけを持って家を出て行ったという。


 そして、当時中学生の高之も置いて出て行った。


 高之の養育を拒否したという。

 最初は元妻にも恋人がいるのかと裕香は疑ったが、そうではないという。

 そしてその理由に、清一は口を濁した。


「まあ、高之と母親は、あまり気の合う母子じゃなかったから」


 これからは、清一と二人きりの生活を送るものだと、そう思い込んでいた裕香にとって、これが最初の当て外れだ。

 飲もうとしたワインに、石が入っていた気分になった。

 高之は顔こそ父親によく似ていたが、愛想もなく、裕香にとっては新しい生活に紛れ込んできた異分子でしかない。


 高之も継母になる裕香を全く無視していた。

 裕香だってそんな反抗的な十代の息子とは、仲良くできるはずもない。

 できる事ならお互いを排斥したいがそうも行かない、父親の清一を間に挟んだ、敵意と無関心だけの義理の母子だった。


 清一は、所有していた一軒家を妻に譲り、裕香との新生活のためにマンションを購入した。新しい住み家となった超高層マンションの33階、100平米以上ある5LDKだった。

 高校生になった息子とは生活スケジュールも違い、食事も別々で、広い部屋のおかげもあって裕香と高之はほとんど顔を合わせることはなかったが、生活空間は同じだ。

 気の合わぬ継子の不快さを訴える裕香に向かって、清一は何度もこう言ってなだめた。


「高之の大学進学まで、我慢してくれないか」


 高之だって、いつかは家を出て行くだろう。そして、息子がここにいるから、元妻に養育費を払う必要もない。

 問題点はそれだけだった。割り切ってしまえば、正に天上の生活だった。


 世間体もあって、おおっぴらに結婚式は上げられなかったけれど、それを引け目に感じたのか、清一は何でも若い新妻の我儘を聞きいれた。

 新婚旅行はヨーロッパ一周、それも飛行機のファーストクラスで、ホテルも最高級のスイートルームに泊まり、食事をするレストランも三ツ星。


 つつましい一般の家庭で育った裕香にとって、高級エステやハイブランドのショッピングと夢のような旅だった。略奪結婚をしたと会社に噂が広まったせいで仕事は辞めたけれど、清一からもらったクレジットの家族カードは使い放題だった。

 百貨店や、ブランドの大事な顧客として、そしてレセプション。あちこちから、夫婦そろってパーティの招待を受けた。


 旅行や観劇、コンサートにと呼ばれたイベントには欠かさず参加し、新しい友人も出来た。

 業界人にモデル、会社経営者に芸能人、交友関係は会社員時代のランチ仲間とは別世界の人たち。

 インスタグラムやSNSには、キラキラと輝く時間と自分をさらけ出し、フォロワーも沢山出来た。現実でもネットでも、賞賛と羨望の中に埋もれる日々。


 清一は、結婚後には更にレストランの経営以外にも投資やセミナーに手を広げて、まるで独楽のように精力的に動き回っていた。

 そんな忙しい夫を支える、若くて美しい妻が裕香だった。

 経営者である清一をサポートし、社交を華やかにこなすのが自分の仕事だと、幸福の芳香の中で、裕香はたゆたっていた。


 いつかそのうち、邪魔な連れ子の高之は出て行き、清一と夫婦2人きりになる。2人の間に子供が出来るだろう。

 そうなったら、今まで以上に、幸福と洗練を合わせ持つ、完璧な家族が出来上がるだろう。裕香は、インスタグラムの投稿に精を傾けた。


 私たちの生活を自分の夢と重ね合わせて、励みにしている人が、世界中のあちこちにいるのだからと。

 

 生活に翳りがちらつき始めたのは、結婚して1年が経過したころだった。

 まず、清一が裕香の買い物に、浪費が過ぎると文句をつけ始めた。


「パーティに出るドレスなんて、何で毎回買う必要がある? 似たようなものばかりじゃないか。使い回せばいいだろう」


 それが結婚して、初めての喧嘩だった。

 男には分からないだろうが、同じ黒いドレスでも、ブランドやデザイナーによってはカットやシルエット、素材が違う。気づかないだろうと思って着まわして、目ざとい誰かに『あのドレス、この間も着ていたわね」なんて言われたら、貧乏たらしくて見っともない。貴方は妻に恥をかかせたいのかと、裕香は泣いて抗議した。


 だが、招待状やメールの数が減り始めた。

 パーティや会食の誘いも来なくなった。

 ある日、クローゼットの中に保管していたはずの、ハイブランドのバッグがいくつか見当たらないことに気が付いた。


 清一の不機嫌な時間が増え、些細なことにも声を荒げ始めた。

 カードの請求書明細を細かくチェックし、裕香の買い物に文句を言い始めた。今までには言わなかった、『節約』を口にするようになった。

 清一が、次々と車を手放した。


 最後に残った外車も、国産車に買い替えた。

 生活に散乱するわずかな違和感に首を傾げていても、裕香は社交で忙しく気にすることはなかった。そして稼ぐのは清一の役割で、自分が口を出すことではない。

 だがそんな内に、清一の経済状態は火の車どころか、すでに燃え尽きて灰になっていた。


 裕香が全てを知った時、燃えるものも燃やすものも残っていない状態だった。

 経営に手を広げすぎた、投資や株に失敗した、信用取引に手を出した、融資が通らなかった、経済活動の失敗全てのパターンを踏んで、清一の手元に金は無くなっていた。


 裕香が激怒したのは、それを清一が黙っていた事よりも、金繰りの失敗に裕香の浪費を理由にしたことだった。

 その上、清一が若い妻を甘やかせた結果、金を使い込まれたのだと噂されていると知った時、清一が裕香の襟音を掴み、二人一緒に底なし沼に沈もうとしている、そんな気がした。


 ――引っ越し業者たちが去って行った。

 裕香は段ボールと家具、そして清一と高之の中に取り残された。


「倉庫みたいだな」


 高之の呟きに、清一が応じた。


「山田がいうには、相続したのは良いけど住む気も無いし、賃貸でも借り手がつくか分からないし、面倒だからたまに倉庫の代わりに使っていたらしい」


 昭和に建てられた、築50年の団地の3DKだった。

 北園和団地という、県営の住宅公社が管理している分譲団地だ。

 一戸ごとに家庭菜園の割り当てがあり、住民による自治会や管理組合もあるとか、清一が言葉を垂れ流す。


 古い木目の天井を眺めながら、裕香は引っ越しトラックと自分たちに、無遠慮でじろろとまとわりつく好奇心丸出しの視線を投げてきた、いかにも貧しそうなこの団地の住民たちを思い出した。


「山田の奴、どうせ倉庫代わりに使っていた場所だから家賃も要らない。いつまでも住んでくれて構わないだと。持つべきものは友達だ」


 学生時代からの友人の好意に、嬉しそうな清一の横顔は裕香の胸をキリキリと締め上げた。

 維持費が払えず、借金返済のためにもタワーマンションを売却するしかなかった。

 家財道具を売った。

 店も人手に渡し、最後に残った国産車も手放した。


 借金整理をして無一文になった。そして着いた先が他人の倉庫だと、そしてそこに住めて  私たちは有難いのかと、裕香は目の前の男へ唾を吐いてやりたい。


「明日、矢島さんのところに行ってくる。今後の事とか仕事とか色々話があるし」


 最近、清一はこの矢島という名前を良く出す。それは友達なのか何者か、裕香は良く知らない。詳しく聞く気にもならない。


「ああそ」裕香は生返事した。


「お前も、さっさと仕事を見つけろよ」

「……」

「仕事、選り好みさえしなきゃ正社員の口はどこかにあるだろ。とにかく、パートでもとりあえずでもいいから働けよ」


 私に働けというのか。

 失望すら、もう腐食している。裕香には文句を言う気力も無い。


           ※


 仕事を探せと清一は言うが、簡単に見つかるものじゃない。

 しかし、清一は生活費を渡してくれなくなった。

 裕香は、実家に泣きつくことにした。父はすでに亡くなっていて、今の実家は母と姉の二人が住んでいる。


 姉に子供はいないし、もしかしたら二人とも裕香の惨状に心を痛めて、離婚して戻っておいで、面倒は見てあげるからと言ってくれるかもしれない。

 しかし、その希望はあっさりと敗れた。


 元々、母も姉も、裕香と清一の結婚には大反対だった。

 姉は元夫の女癖の悪さで離婚し、実家に戻った境遇だし、母は過去、亡き父の浮気に苦労していた。

 当然、裕香と清一の関係にも凄まじい嫌悪感を示し、あんな男と結婚するなら、もう顔を見せるなと言い渡されていたのだ。


 家に入れて欲しい、清一と離婚したい、懐かない義理の息子にも疲れた。

 この家に戻りたいと2人の前で泣く裕香の訴えに、母は沈黙するだけだった。

 姉は冷めた声で言った。


「裕香、あんたあの男と結婚する時、私たちに言い放った言葉を憶えている?」

「……」

「不倫だなんだって、私たちの愛を通俗的な言い方をしないでって。例え世界中を敵に回しても、私は彼と生きていくとかなんとか。それを聞いた時、まあ何てどこかの恋愛ドラマをなぞったバカなセリフなんだろうって思ったけど、あんたはそれで本気だったんでしょ? 」


「それは」言いかける裕香に、冷たい声が注ぐ。


「私とママに、幸せの邪魔をするなって言ったわよね。そこまで言い切ったんだから、自分で自分の責任を取りなさいよ。義理の息子の悪口言っているけど、あんたは彼の父親を奪ったのよ。元奥さんや息子にとってあんたは、泣く権利だって無いよ」


 ひどい、と裕香は泣き叫んだ。


「ママ、お姉ちゃんの意地悪に、なんで黙っているの? お姉ちゃんは妹がどうなっても良いの? 今、ひどいところに住んでいるんだよ。前のマンションから追い出されて、今まで他人が倉庫代わりにしていた古い部屋に、3人で押し込められているのよ!」


 だが、姉はどこまでも情はなかった。


「野宿よりはマシじゃない。屋根も壁もあるんでしょ」


 清一のせいで、生活のために自分が働くのは運命に負ける気がしたが、生活費が無い事実は動かしようもなかった。

 できるだけその日を引き延ばしたくて、サラ金が頭に浮かんだ。


 だが会社員時代に、ホストに貢いでサラ金に手を出し、風俗で働いているのを会社に知られて職場を辞めた女がいて、しかも、ホストの彼氏か風俗の客、どちらに感染させられたのか、性病に罹っていたという噂を思い出すと、勇気が出ない。

 仕方なしにネットで求人を探した。


 時給の高い水商売も考えたが、求人のある店は昔の会社に近い繁華街ばかりだった。

 昔の知り合いに会ってしまう可能性を考えると、足がすくむ。

 今の住所からも、以前の会社からも離れた場所にあるスーパーマーケットの募集を見つけて入った。


 経験不問の仕事の内容は昼前から夜まで。商品整理とレジ打ちだった。

 立ち仕事は辛かった。

 そして、客との関係が煩わしい。


「すみません。このチラシの商品、どこにありますか? もっと分かり安いところに置いてくださいよ」

「ねーちょっと、これ、この醤油同じメーカーでⅮ店なら103円よお。オタク、何考えて商売してんのさ。消費者をバカにしてない?」

「レジ、おせえよ。早くしろよ愚図。俺、急いでんだよ」


 虫けらのような品の無い客を相手にして、そして入る時給は1,000円以下だ。

 昔の自分なら下に落ちていても拾わなかった金額のために、今は神経を使っている。


「お客が少ない時に、適当に休んでいいのよ。でないと体力保てないからね」


 励ましてくれるベテラン社員の優しい言葉に多少は救われても、粗暴で横柄な客を相手にしているうちに気力はすり切れてしまう。

 その日の夕方、スーパーのレジは混雑していた。

 店は大きくないが、駅近の立地のせいで会社員が帰宅してくる時間帯の18時頃は、夕食前とその後の客のピークになる。


 こういう混雑時のレジは、列の長蛇回避のために、ベテランの店員が入る事になっていた。

 裕香はビールやチューハイ缶の商品補充に回っていた。


 段ボール箱から缶を取り出して、必死で商品を棚に並べるが「果汁感たっぷり!」とアイドルがCMしている人気商品だった。次々に客が手を伸ばして奪っていく。

 補充が間に合わないと、クレームに繋がるので気が気じゃない。


「あのお、すみません」


 背後から、若い女の声がかかった。


「このチューハイのりんご味は?」

「すいません、今からすぐお出ししますので……」


 そのまま、声が消えた

 裕香は、愕然と女の顔を見つめた。

 相手もまた、驚いた顔で裕香を見つめている。

 女の口が動いた。


「……まえださん?」


 旧姓を呼ばれた裕香は、呼吸困難を起こしかけた。

 間違いない、結婚して退職した会社の元同僚、山崎三津子。

 裕香は咽喉を喘がせた。

 何でここに? だが理由はすぐに思い当たる。


 会社帰りのようだった。だとすれば、このスーパーは三津子の生活圏の中にあったのか。

 裕香は動けなかった。

 三津子は、裕香がレストラン経営者と結婚したことを知っている。

 今着用しているスーパーの灰色の制服と、足元の段ボール箱を交互に見ている三津子が、何を考えているか明らかだった。


 どうすれば良いのか、取り繕うのか、それとも人違いだと笑うのか。

 裕香は口を動かした。何かを言おうとした時だった。

 三津子の口が動いた。


「あの、わたし……このこと言わないから」

「え?」

「言わない、じゃあね」


 くるりと背中を向けて、小走りで自分から離れていく三津子を、裕香は視線で追いかけた。


『言わないから』


 その言葉は、プライドに焼き付く烙印となった。


――三津子の言葉の意味は、明らかだった。


「あの女、私を哀れんだ」


 冷たい泥水が、裕香の咽喉を滑り落ちて臓腑を冷やす。

 裕香の結婚は、当時社内でセンセーショナルだった。会社近くの有名レストランの経営者と不倫して略奪婚。

 その裕香の道徳観念に陰口をたたく者ばかりだったが、一方では玉の輿だと羨んでいたはずだった。


 誰にも言わない。

 貴女の今の惨めな場面を、人には言わない。

 だって私は優しいから。落ちぶれたあなたが可哀そうだから。

 他人を傷つける一番上手な方法は、そうやって善人の椅子に座り、相手を見下すことだ。


「なんとかしなきゃ」


 心臓がギリギリ痛んだ。

 誰にも言わないと、三津子はそう言った。

 だけど、そんな保証はなかった。

 会社で三津子が何かの拍子で同僚に話したら? 自分の手の届かない場所で噂は爆発し、拡散する。裏で笑われるなんて我慢できない。


 それ以上に、三津子は憐みで裕香をズタズタにした。今でもプライドから赤い血が流れ落ちていた。


 憎しみと不安で、脳みそは黒く染まっている。


「どうしよう」「どうしたらいい」


 不安がざわめき、裕香を苛む。三津子の顔が消えず、一晩中三津子の声がいつまでも聞こえた。


『言わないから』


 次の日、スーパーの仕事を休んだ。そして裕香は夕方近くに家を出た。

 黙って外出する義母に、息子の高之は何も言わなかった。

 電車に乗って昔の職場へ向かった。


 裕香は、職員の通用口がある裏側に回った。

 道を挟んで向かいにあるコンビニの中に入り、うろうろと商品や雑誌を物色するふりをしながら、退社時間を待つ。

 三津子は営業ではなく、事務職だ。経費削減もあって、残業が少ない部署だったが今はどうだろうか。


 昔のように定時退社ではなく、残業がある可能性もあった。

 それでも裕香は三津子を待つつもりだった。

 三津子の顔を見て、どうなるのか。

 どうしたいのか、何をするか。


 自分でも何でこんな場所にいるのか分からない。

 それでも焦燥が裕香を動かしている。

 三津子に会わなくてはという強い義務感がある。


「……出て来た」


 退社の定時時刻から10分後に出て来た三津子の姿に、裕香は怯え、歓喜した。

 歩行者が多いオフィス街、そして利用者の多い地下鉄へと、足を震わせながら後を追う。

 尾行されているとは想像もしていない、そんな三津子の背中は全く無防備で、しかも目立つレモンイエローの上着を着ていた。

 人ごみに隠れても、すぐにまた色が浮かび上がる。


 三津子の背中を追っている内に、裕香の中で、自分の行動の理由や意味が徐々に形を作っていく。

 三津子が持つスーパーでの記憶、そして自分への憐憫への情が、裕香にとって忌まわしいものだった。

 三津子が裕香の記憶を持つ限り、三津子そのもの、彼女の存在が裕香を責め苛む。それは呪いだ。


 呪いから解放されるには、三津子という元凶を消さなくては。

 これは、紛れもない正当防衛で、裕香の世界の聖戦だった。

 地下鉄は、都市のターミナル駅に到着した。

 ここから私鉄に乗り、三津子はあのスーパーのある駅に降りる。


 駅のホームは、到着する電車を待つ人の列が溢れていた。


『線路内のトラブルにより、電車の到着が少々遅れております……』


 駅のアナウンスが電車の到着の遅延を告げていた。

 それでホームに利用客が堆積しているのだ。

 ホームの後ろは混雑している。

 ホームの後ろで人をかき分けながら進んでいた三津子は、やがてホームの前へ進みだした。そして乗客が立ち並ぶホームの前を小走りで抜け始めた。


 三津子のすぐ横の空間は、線路だ。裕香は三津子を追う。

 ホームに入ってくる電車が見えた。

 裕香は三津子に追いついた。肩が並ぶ。

 傍から見れば、混雑を避けて危険なホーム脇を歩く女と、それを追い越していこうとする女。


 裕香は、思い切り肘を突き出した。手ごたえがあった。

 ひ、と小さな悲鳴。

 三津子がバランスを崩した。

 よろけた先に線路の空間があった。

 電車の警笛が、駅を切り裂いた。


『お急ぎのところ、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません。○○線のホームでの人身事故発生により、〇〇線の運行を停止しております。現在、振り替え輸送を……』


 改札の前は、ホームから降りた乗客や、これから向かうはずだった乗客たちがぶつかり合って渦巻いていた。

 乗客たちは電光掲示板を見つめ、そして携帯でツイッターなど状況をチェックしている。


「若い女がホームに飛び込んだって」

「電車の前が真っ赤っか。死体のグロさにホームで吐く奴も出たらしいわ」


 緊迫した駅員たちが、利用客たちの中で走り回っている。

 裕香は、ゆったりとした気分で人々の中で泳いだ。

 山崎三津子の呪いは解けた。

 久しぶりに、素晴らしい気分だった。


 その日の夜、三津子の事故はネットやニュースで報道されたが表面的なものだけで、三津子の死よりも、電車の遅延による利用客の影響が主だった。

 コンビニ弁当のゴミを片付けながら、裕香は小さく笑った。


 だからといって、裕香の生活が変わったわけではない。

 生活費を稼ぐためだけの仕事へ行き、熱意のない日々がだらだらと続いた。

 団地の住人には、嫌悪感が募る。


 団地の敷地には、各戸に一つ、家庭菜園が出来る畳二畳分ほどのスペースが割り当てられている。

 そこでは毎日のように老人たちがたむろし、土をいじり、隣人との立ち話に花を咲かせ、話題を探して周辺に目を光らせていた。


 老人たちの関心は、世間より団地の人間関係だ。

 そのテリトリーに入ってきた新参者の宇野一家は、格好の詮索と観察対象だった。

 仕事へ向かうために家を出ると、立ち話をしている老人たちは、裕香へ無遠慮な視線を向け、こそこそと話をしていた。


 窓から身を乗り出して、裕香の出勤と帰宅を観察しているものまでいる。

 クモの糸のような正体の無い視線が、毎日絡んでくる。


「もういやだ! なんなのこの場所は!」


 裕香は清一に嚙みついた。


「気持ち悪い、変な年寄りばっかり!」

「そう言わないで、上手くやれよ」


 清一は疲れた顔で、裕香を突き放した。


「しばらく、ここに住むなら近所とそれなりにやってくれよ。近所付き合いなんて、前のマンションだって同じだろう」

「全然違う!」


 裕香は地団太を踏んで怒鳴った。

 ベランダで高之が携帯をいじっている。

 ――裕香が、同じ団地に住む女性『チズ』と出会ったのは、そんな生活に中で倦んでいた最中だった。


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