『 間引く ~ この世の果て ~ 』
桂英太郎
第1話
やってみたら呆気なかった。こうやってヤツの死体を目の前にしても全く感情は動かない。さすがに相手は恐怖の表情を浮かべたまま虚空(こくう)を見つめているが、僕の中ではすでに終わった事としての僅かな達成感しかない。むしろこんなことならどうしてもっと早く済ませておかなかったのだろう。実行までのあれこれの迷い、良心の呵責等が、今では自分の防衛本能の欠片(かけら)でしかなかったことがよく分かる。
僕はもう一度ヤツの顔を見る。相田(あいだ)恭子(きょうこ)、三十九歳・主婦。夫はごく普通の会社員、子どもは小学生の男の子二人(らしい)。この事件が明るみになった後、彼らはどんな気持ちになってその先別の日常を暮らすのだろう。おそらく周囲は当面彼らの言動に必要以上の関心を寄せ、憐れみの言葉を惜しまないだろう。しかしそれはあくまでほんの一瞬だ。それもせいぜい冬場のあかぎれ程度のもの。そしてまかり間違っても、犯人が何故こんなにも無残かつ手際良く、この無様に太った中年女(ほとんど女であること自体放棄していそうな)を殺害するに至ったかなど想像しないに違いない。できるわけがない。
そこで僕ははたと気がつく。もしかしたら僕が本当に憎み、忌み嫌っていたのは、相田のような酷(ひど)い人間を誕生させ、育て、容認してきた世の中そのものだったのかも知れないと。そして僕は俄かに混乱する(併せて恐怖心も芽生え始める)。自分の敵があまりにも不特定かつ漠然としていることに。しかし僕はすんでのところで踏み止まる。負けてなるものか。相田の他にもっと敵がいるのなら、一人残らずその者らを駆逐(くちく)してみせる。そしておのれらが犯した罪の数々を命乞いと共に懺悔させてやる。僕は再び意気を上げる。そうだ、これは前人未到かつ意義深い、謂わば『良心の十字軍(クルセイド)』なのだ。
冷静になろう。僕の最期はおそらく無残至極なものとして果てるだろう。しかしそれでも構わない。僕がこれから行うことは、世の片隅でひっそりと暮らす虐げられた者たちの代理行為、はたまた来たるべき社会への問題提起なのだ。その為になら僕は進んで犯罪者の汚名を被ろう。実際その通りなのだから。僕がヤツらとただ一つ違うのは、自分なりに人間のささやかな幸福を願っていると云うこと。これは間違いない。それだけは期(き)して心に留めておこうと思う。
振り返ってみると僕は相田と碌に会話したことがない。仕事上の最低限の申し送りの他、相田の気まぐれとか意味不明に機嫌が良い時とか…つまりその程度。かと云って僕が個人的に相田を嫌っていたとか恨みを感じていたとか、そんなことはないと思う。実際笑顔を見せた時の相田は普段の仏頂面を返上して余りあるほどチャーミングな表情も持っていた。しかし彼女のそんな両義性は、後になればなるほど僕の警戒心・猜疑心を殊(こと)更(さら)に煽(あお)るものと変化していった。そのギャップたるや、またそのバランスの悪さはおそらく僕だけではなく、周囲の者たちからも怪訝(けげん)(あるいは脅威)に思われていたに違いない。
僕らの出会いのステージはバイト先としてのコンビニだった。僕は二年前に大学院を卒業し、就職浪人中の二十六歳(一応学習塾で働いてはいるが)。訳あって収入増が必要となり早朝のアルバイトを始めることにした。元々そこは自宅アパートから距離が程良く、しかも出来てから一度も入ったことのない店舗だったので働くには何かと都合が良さそうな感じがした。そして実際その判断は間違っていなかった。一番のマッチングは僕が極度の朝型人間(昼寝派)だと云うこと。普段は四時台に目が覚め、夜明けまでは読書か軽い筋トレで時間を過ごすことが日課。それはそれで有意義ではあるのだが、コンビニでのバイトはその時間帯にすっぽり収まる形となった。それに夕方からの学習塾の仕事との兼ね合いも(気分転換的に)。接客もやってみると思いの外自分の性格に合っていた。作業内容は大体シフトで決まっているし、自分のモードを切り替えることで多種多様な客への対応も楽にこなすことができた。考えてみれば人間は誰しもその状況に応じた自分を演じて生きている。僕の場合それに『コンビニ店員』と云う下位カテゴリーがプラスされたと云うだけ。むしろ僕は、その新しい役回りを日々楽しむ余裕すらあったほどだ。
まさに相田のような同僚さえ其処(そこ)にいなければ…。
僕は今、自宅に戻っている。現場には特に手を加えなかった。と云うより加える必要がなかった。思ったほど出血はなかったし(リサーチと加減の成果だ)、僕が事の次第を告げても相田はただ戸惑うしかなかったから(無論それで僕の決意が揺らぐこともなかったが)。おそらく二三日中に相田の死体は発見され、警察にも連絡が行くだろう。しかし僕は頓着しない。ただ自分の日常に戻るだけだ。いや、正確には日常に戻った演技をするだけ。それに僕は心のどこかで「捕まっても構わない」、そう腹を括っている。だから証拠品の処分も自分の身を守る為と云うより、むしろ不浄の物、穢(けが)れを拭い去ると云う意味合いの方が強い。事実今日も僕は近所の神社(うつせみ神社)へと参拝に出掛けた。何故かそうする必要を感じたのだ。そしてその甲斐あって僕は日常への帰路に無事着くことができた。
考えてみれば既にこの世は穢れの臨界点に在るのかも知れない。物事を誇大釈するつもりはないが、世間で云うところの労(いた)わりとか、譲り合いとか、許しなどと云ったものは、今やおとぎ話の中にしか存在しないものであるかのように社会は殺伐と乾いている。僕が哲学を学んでいるから特別そう思うわけでもないだろう。夜中に子どもを連れ回し自分の都合に合わせ続けた挙句、普段の食事すら碌に与えないばかりか遂には保身の為に子もろとも社会から孤立する「不適応」親。職場と云う(或る意味)神聖なる人間関係の場で、自分の好き嫌いと物事の良し悪しを混同させ、弱い者いじめ、もしくは自己責任と云う名でカムフラージュした非人道的経済活動を言外に強要する「全能感」経営者とその追随者たち。あるいは早々に自分の将来に見切りをつけ、「一般市民」を騙(かた)ることで後の尻拭いを他の不特定多数に委ねようとする、自称「社会的弱者」たち。挙げればキリがない。そしてその者たちは自ら穢れを作り出しながら、同時に他者をもその渦中に巻き込もうとする。それは決して許されない、恥ずべき無間(むげん)地獄だ。
無論僕はテレビや映画に出てくる連続殺人犯を英雄視するものではない。むしろ彼らは勘違いしているのだと思う。殺人を罪あるものと前提してそこから自分の行為を差別化しようと躍起になるのだ。しかしそれは全くの見当違いだ。と云うのも殺人は人間の社会性に偏重した極めて便宜上の罪状だからだ。本来人間は個別的なもの。それを規定する法も故(ゆえ)に個別的であるべきなのだ。つまり赤の他人が自分の与(あずか)り知らぬ罪を裁くこと自体に無理がある。それこそが真の倫理を衰退させている原因ではなかろうか。
真理は次のことだ。個々人の中にはその人間性において退けられるべき者が現存する。そしてその事実に対してどう行動するかもやはり個々人の責任に懸かっている。ただそれだけのこと。人は生きる為に他の生命を奪いながら生きている。そこには当然「筋」と「礼儀」が不可欠。それを蔑(ないがし)ろにする者はいかなる理由があろうと排除されるしかない。今、事を終えた僕にはすでに相田に対する恨み(?)はない(無論後悔も)。むしろ彼女がそれまでに辿った人生の道行きにしばし思いを馳せるだけだ。そして彼女の来世が蚊であることを望む。そうすればお互いに余計な気を使わずに済むのだから。
それから一週間、物事は大体僕の想像通りに進んでいる。死亡から二日後に相田の遺体は県内山中の車の中で発見され、その後捜査は継続している。意外だったのは初動段階で事件が自殺の線で目(もく)されていたこと。発見時、相田の遺体はこれ以上ない程の明瞭さで頭部が陥没し、普通なら高いところから突き飛ばされた後で車中に運び込まれたと推測するのが妥当なはず。僕はテレビのニュース報道を見ながらむしろ警察の動きの方に興味が出てくる。もしかして彼らには別の意図があるのではないか。犯人に向け揺さぶりを掛けるとか、あるいは警察の威信をここぞとばかりに強調する為とか…。気づくとチャンネルはいつの間にか話題を換えている。僕はテレビをオフにする。まあ、好きにすればいい。そんなことは二の次だ。ただ現に僕の起こしたこの事件の為に必死になって動いている関係者たちがいる。そのことが僕を静かに昂奮(こうふん)させている。どうかしっかり調べてくれ。マスコミのように勝手気ままな物語(フィクション)にするのではなく、相田が何故こんな最期を迎えることになったのか、それを綿密に捜査して欲しい。そう切に願っている。
しかし、残念ながら彼らが僕に辿り着くことはおそらく不可能だろう。僕が事を実行に移したのはコンビニを辞めてから半年近く経ってからだし、コンビニ自体すでに閉店してしまっている。つまり繋がりは一応切れている。それに(これはあくまで僕の想像だが)これまでもヤツを亡きものにしたいと願った人間はかなりの数いたと思う。実際僕もそう云う現場を何度となく目撃した。そしてそのことが、この事件を起こすきっかけにもなったのだから。
僕がパチンコ店に入ったのはそれが人生で二度目だった。最初は大学生になったばかりの頃遊び人だった兄に連れられて。そしてその時が二度目。僕は休日で久し振りに街なかまで出てきていた。その日は何故か喉が渇いて朝からお茶ばかり飲んでいた僕は、案の定街をブラついているうちに何度かトイレに駆け込む羽目となった。その一ヶ所がパチンコ店だったと云うわけだ。トイレを借りて用を済ませ一旦は外に出ようとしたが、不意に僕は今のパチンコがどう進化しているか気になって、程良く客が並んだレーンに入りその中ほどの席に腰を下ろした。結果はパチンコと云うより正直「おもちゃ付きCG動画」と云った印象。おまけに音声はちゃんと本家本職の声優を使っている。両隣りを見ると高齢の男たちが食い入るように画面に相対(あいたい)しているが、そのミスマッチ感たるや或る意味異様とさえ思える。しかし一方で僕は思う。個人の印象などは人間の欲の前にはいとも簡単に均(なら)されてしまうものだと。歴史はその純然たる繰り返しだ。
程なく僕が席を立とうとした時、レーンの向こうから二人の女が(それも明らかに客ではなく)こちらの方に連れ立って歩いてくるのが分かった。そしてそのうちの一人が例の相田であることを僕はおそらくコンマ何秒かで識別した。僕は再び目の前のパチンコ画面に目をやりつつ、後方を何やらチェックしながら過ぎていく肥満体の相田とその連れの女を意識した。そしてその時思い出していた。確か相田は元々コンビニでバイトする前からパチンコ店の集客調査の仕事をしているとのことだった。
「ちょっと。言った通りにやんなよ」
その時だった。大きな声ではなかったが(実際は分からない)相田の尖った声が聞こえてきた。僕は思わずそちらの方を見た。どうやら連れの女は若そうだった。そしておそらくまだ新人なのだろう、戸惑いながらも先輩である相田に頭を下げた。その女の頭を、相田は持っていたファイルのようなもので上から躊躇(ちゅうちょ)なく叩(はた)いた。女は首を竦(すく)めるようにして(それでも避(よ)けるわけにもいかなかったのか)、バシッと云う軽はずみな衝撃に辛うじて耐えたようだった。
「なめんなよ、馬鹿」
相田はそう付け足し、そのまま隣りのレーンに去っていき、相手の女は抵抗するでもなくその後を追おうとした。その刹那(せつな)彼女と僕は目が合った。いや、たまたま彼女の向けた目線の先に僕が居ただけなのだろうが、その目は僕に或る種の衝撃を与えた。言葉を越えた、感情をすり潰された者の無言の叫喚(きょうかん)。
僕以外その様子を見ていた者はいなかったと思う。もしかしたらそんな事は日常茶飯事なのかも知れないし、おそらくここではそれ以上のことがごく普通のこととして受け入れられているのかも知れない。そう思った時僕は自然と席を立っていた。そしてその瞬間、僕は相田を殺害することを心に決めたのだと思う。
厳密に云うと僕が人を殺めたのは相田が初めてではない。未だに自分の中で整理がついていないが、おそらくあれはそうだったと認めざるを得ない事象があった。小学校最後の年、担任の男性教師が或る朝校庭で死んでいるのが見つかった。どうやら校舎屋上から飛び降りたのだろうとの噂だったが、不審だったのはその位置だった。青木と云う名の、その担任が死んでいたのは校舎から少なくとも十メートルは離れたグラウンドの上。その位置では校舎屋上から助走をつけて飛び出さない限りそうはならない。一時(いっとき)学校とその周辺地域は、それに関する憶測と不穏さにすっぽりと蔽われていた。そしてそれがまだ完全に払拭されないうちに、僕と同級生らはそのまま中学に上がることとなったのだ。
実を云えば僕には分かっていた。担任の死の真相が。
あの男は臆病な人間だった。しかし(だからこそ?)教室では児童を前に好き勝手やっていた。元々変わった性格だったのか他の教師も特に気には留めていなかったが、その裏でヤツは密かに或る児童を執拗に苛(さいな)んでいた。少し小柄で大人しめの男の子。むしろ頭は良かったが空気を読むことが苦手で、教室内でも何かと浮くことが多かった少年。おそらくヤツはそんな彼が邪魔だったのだろう(いや、もしくは必要だったのかも知れない)、殊更体育の時間は酷かった。その子が苦手とする器械体操をしゃにむに煽り、そしてケガをしない程度に転ばせ、その様子を僕らの前で揶揄(やゆ)し続けた。子どもの目から見てもそれは巧妙かつ陰湿で、なにより容赦と云うものがなかった。僕はその状況を半ば呆然と、そして激しい嫌悪感と共に見つめていた。
そして或る夜、僕は夢を見た。ヤツが大空を気持ち良さそうに飛んでいる。まるで我が世の春のように。そしてヤツが僕の存在に気がついた時、ヤツは真っ逆さまに落ちるのだ。まるで砂糖細工のような大地に向かって。そして僕がそのおかしな夢から目覚めた時、担任はもう動かない物として発見されることになったのだ。
相田と担任には共通点がある。それは人間性の腐敗だ。これは抽象的に表現しているのではない。彼らは或る時期を境に生きながら腐敗を始めてしまったのだ。そしてそんな彼らは生き延びる為にどうしても依りわらを必要とする。彼らが犠牲者を見る目に映っているのは、実は自分自身の朽ちかけた姿に他ならない。彼らが生き延びれば生き延びるほど、世の中は腐臭を巻き散らす汚泥(おでい)と化していく。その先に在るものは何か。それが現実のものとなる前に、彼らを潔(いさぎよ)く葬らなければならない。それは彼ら=穢れを纏(まと)ってしまった者らへのせめてもの慰めではないか。僕はそう思う。人格などと云う綺麗なものではない。人としてのギリギリの誇りとして、僕は彼らを葬り続ける。たとえこの身が業火に焼かれようとも。
そう考えれば、僕は相田の件において決定的なミスを犯したと云っていい(事後死体を車内に移動させ、結果余計な意図を残してしまった)。幸い現段階でのテレビ・新聞・ネット情報での取り上げ方はどれも地味な変死扱いに留まっている。おそらく捜査の具体的な進展がないのだろう。自分としては極めて当然な流れだが、警察の当事者たちとしてはまるで雲を掴むような心持ちだろう。致し方ない。それが彼らの仕事なのだから。今後彼らは自然と被害者の背後関係により重点を置くことになる。そして間もなく気づくだろう。被害者自身の闇の深さに。そこでようやく彼らは犯人の止む無い意思を紐解き始めるのだ。
刑事が僕の家にやってきたのは事件から二週間が経った頃だった。まだ三十前の若い刑事。
「澤田さんですね。以前近所のKマートでバイトされてましたよね」
僕はその質問に、睡眠を邪魔された機嫌の悪さ全開で応える。
「ええ、もう潰れちゃいましたけどね。それが何か?」
「相田恭子さん。ご存知ですよね、事件のこと」
「ああ、殺されたんだと思いますよ。だってひどかったですもん、あの人」
「ひどかった?」
「わがまま、いじめ、言い逃れ、責任転嫁、八つ当たり…。はっきり云って皆迷惑してましたよ。自分では仲間作ってるつもりだったんでしょうけど、いの一番その仲間を困らせてましたからね。店潰れたのも彼女の問題大きかったと思いますよ。雰囲気悪くなるし、どんどん人辞めちゃうから。店長も馬鹿だったしな」
「なるほど。じゃ、あなたも?」
「だって割に合いませんよ。家から近かったんで気楽に始めたんですけど、最後は気がおかしくなりそうで。おまけにあの人、他人のプライベートを勝手にSNSに上げたりするんですから、ホント怖いですよ」
僕は具体的なエピソードを思い出しながら喋るが、相手もそこまでは突っ込んでこない。おそらく余所で既に聞いているのだろう。
「もういいっすか?午後から仕事なんで寝とかなきゃいけなんですよ」
僕がたたみ込むように言うと刑事は一礼して踵(きびす)を返した。見ると表には車が停まっており、周辺地域で一つ一つ聞き込みを掛けている様子。その苦労には一瞬胸が痛む。
ドアを閉めてから、もう少し話を続けておけば良かったなと思う。分かりやすい性格ならやり取り次第で捜査状況を或る程度聞き出すことができたかも知れない。いや、そうじゃない。僕が考えるべきはそう云うことではない。むしろ今は模倣犯等の出現に警戒すべきだろう。犯人(つまり僕)の動機が浮かび上がってくるに連れ、おそらくその手の輩(やから)が動き出す(そして同時にネットでも)。全く連中は退屈しのぎになることなら何でもありだ。それだけ世の中は鬱屈とした思いで溢れている。穢れに塗(まみ)れている。そして気をつけなければ穢れは次なる穢れを生み続ける。
僕はふと思いつき、休日自分の母校である小学校を訪れた。懐かしさに浸りたかったわけではない。また例の事を振り返りたかったわけでもない。ただ、そこに行ってみる必要を強く感じたのだ。
僕は校庭をフェンス越しに眺める。日曜の午前ともあって誰もいない。僕は散歩を装いながら沿道を歩く。校舎を含め、まるで全てが箱庭のように見えるのに、僕の意識はそれとは裏腹にずっとそこに繋(つな)ぎ止められていたことに気がつく(港に停泊したままの時代遅れの客船のように)。僕は俯(うつむ)いて記憶の波をそっと掻き分ける。しかし思い出せるのは事件にほぼ関係ない同級生、在校生、そして教師たちの顔だ。その中にはすでに亡くなった者もいる。僕はもどかしい気持ちを抱えたまま、早くもフェンス越しに校庭を一周し正門に戻ってくる。そしてそこに一人の男が立っているのを見つける。僕はその姿に、瞬間自分がそこにいるのかと錯覚しそうになる。
「あ」
先に相手が僕を見て声を上げる。「澤田くん?」
僕は一瞬底なし沼に沈められたような恐怖感すら覚える。「ああ…」
「そうだよね?君、澤田くんだ」
「君…田所君だね。久し振り」
僕は記憶の沼からその名を拾い出す。そして思う。何てことだ。これはすでに運命の崩壊が始まっている兆候(しるし)ではないのか。神が(そう呼べる者が本当にいるとするなら)余計な事をした僕に早速報復を仕掛けてきたのではないか。
しかし自分に近づいてくる同級生の表情は、そんな暗いものを一切寄せ付けないほど柔和で明るい。「本当だ。中学の卒業以来?」
「うん」
相対してみると相手は以前より随分背が高くなっており、今の僕とほとんど変わらない。
「今日は何?澤田くん家、近所だったっけ?」
「今は違う。市内で一人暮らしなんだ。久し振りに帰ってきたもんでね」
僕は応える。「君は?」
「ボクはまだ実家。時々アルバイトしているくらいかな。この歳で恥ずかしいけど」
「そんなことないさ。僕も大学出てから上手く就職できなくてね。今は学習塾で働いているけど、それもいつまで続けるか」
「へえ、そうなんだ」
田所は僕に裏のない表情を向ける。僕は歩き出す。昔通った通学路、実家までの帰り道。自然と田所も付いてくる。そう云えば昔、彼とは途中まで帰る方向が一緒だった。そのせいか彼が一人で下校する姿を僕はよく見掛けていた。同じクラスになったのは例の一年を含めて二回だけだったが、今から考えると彼は自分から気遣って独り教室の片隅にいるような、そんな印象があった。そして中にはそんな彼に声を掛ける同級生もいたが、不毛かつ変則な日常生活の中で結局彼は孤独になる。その繰り返しだった。そして同級生たちはほのかに、また深く自分への無力感を味わうことになる。僕もそんな一人だった。
「この辺もだいぶ変わっちゃったね」田所が言う。
「君は今でもよく通るの?この道」
「そうでもないけどね。でも学校って不思議だよね。昨日まで毎日のように通ってたところなのに、いざ卒業しちゃうとふっと遠い場所になっちゃうんだよね」
「そうだね。それで気がついたら十年なんてあっと云う間だ」
「うん」
田所の表情が一瞬翳(かげ)った。僕は彼の横顔を見る。あの頃と変わらない孤独と朗(ほが)らかさが入り混じった表情。今彼の頭の中ではおそらく当時の記憶がふつふつと呼び戻されているのだろう。僕は思う。もしかしたら僕らはただ時間だけをやり過ごしてしまったのかも知れない。身体はそれなりに大きくなっているけれど、二人の時間はそれぞれあの頃のどこかで止まったままなのだ。
「澤田くんは学者さんを目指しているんだろう?」
田所が再び微笑みながら問う。
「そうだけど状況は極めて怪しいね。今時哲学の講師なんてどこの大学でも需要がなくてさ」
「でもすごいよ。自分に『これ』ってものが在る人はそうはいないと思うよ」
「そうか?ただ本読んでるだけだけど」
「自分の好きな事がはっきりしてるって意味だよ」
「うん、なるほど」
言われてみるとそうかも知れない。確かに僕には読み切れないほどの先人たちからの遺産=書物がある。それはきっと有難いことだ。「君は?君はどうしてるの?」
「さっきも言ったけどまだバイト生活だよ。高校を出て一旦は会社に就職したんだけど、やっぱり上手くいかなくてさ」
「そう」
「でもそれはそれとして、やるべきことはやっていかなくっちゃね。自分の食う分の仕事とか。まあ、その程度だよ」
「いいんじゃないか。それすらも出来ていない奴が世の中にはゴマンといるよ。過去の枠組みで自分を測る必要はないんだ。およそ人間は迷い、過(あやま)つようにできている。その中でどう自分を高めていくかが大事なんだと思うよ」
「それ、誰の言葉?」
「誰でもないさ。常識(コモンセンス)、生きる智恵」
僕がそう応えると田所は急に笑い出す。とても可笑しそうに。
「澤田くんらしいや。君は昔から誰にも靡(なび)かないし、おもねないもんな。そう云うところ羨ましかったな」
「ただの性格だよ。でも、そんな風に思ってたの?」
「うん」
そこまで話をして田所は立ち止まった。「じゃあ、これで。今日は良かったな、久し振りに澤田くんに会えて。きっと何かの運命だね」
同感だった。僕は道を横切って自宅へと去っていく彼をしばし見送る。その背中に僕は語りかける。そうさ、君はもっと誇り高く自分を思って良い。少なくとも君は自分の人生を諦めなかった。そして僕に言わせれば、それだけで君は十分人生の勝利者に違いないのだから。
しかし、それからしばらくして彼、田所からあのような便りが届くとは、その時の僕には想像もできなかった。
昼間家を出た時はなかったから、おそらく夕方以降に届いたのだろう。僕は自宅アパートの郵便受けからその白い封筒を取り出す。そして差出人の名前を見て緊張する。田所(たどころ)康(やす)晴(はる)。あれ以来僕の中では、彼の存在が引き出物の観葉植物のように重く居座っている。そしてこの手紙。まるで最近の出来事が実は全て仕組まれていたような、そんな錯覚さえ覚える。僕は遅い夕食を摂りながらその手紙を一瞥する。そこにはこう書かれてあった。
「手伝って欲しいことがあるんだ。もちろん君に迷惑を掛けない範囲で」
僕はしばし考え込む。今の、このタイミングで彼のリクエストを受けるべきなのだろうか?しかし一方で僕にはもう分かっている。自分がこの元クラスメートの誘いを受けるだろうことは。そして実際僕はその日のうちに田所へメールをし、次に顔を合わせる段取りを早々と決めていた。
僕が深夜のコンビニに着いた時、すでに田所はイートインのスツール席に背中を向けて座っていた。ガラス越しに人通りの少なくなった往来(国道)が見える。
「おい」
僕は彼に声を掛け、それから一旦売り場の方に戻り、彼と同じドリップ・コーヒーを注文する。
「御免ね。急に変な手紙なんか送っちゃって」
「いや、いいんだ。それよりも頼みって何?ずっと気になっててさ」
彼の隣りに座る。
「うん。その前に一つ聞いてもいいかな?」
「何?」
「澤田くんは人生に意味があると思う?」
「え?急に難しい質問だな」
「でも澤田くんなら大丈夫かと」
僕は彼の目が至って真面目なのを確認する。
「そうだな。人生に意味なんてないよ。それはきっと希望と混同してるんだと思う。人間はつい物事に意味を見い出したがるけど、それは決して前以(まえも)って在るんじゃない。自分の意思と体験を経て生まれるものだし、そもそも人生には今しかない。過去はもう終わっているし、未来はあるかどうかさえ分からない。意味を問う前に人はまず前を向いて、それでも歩き出すべきなんだと思うな」
僕は思いつくがままに言葉にする。その一つ一つをまるで噛み味わうかのように田所は耳を傾けている。
「そうか、有難う。これで安心したよ。やっぱり君で良かった」
「え?どう云うこと?」
「いや。こう云う質問、誰にでもできるってわけじゃないから」
田所はにっこりと微笑む。
「それで?」
「ああ、御免御免。本題に入らなきゃね。頼みって云うのはね、ボクを殺して欲しいってことなんだ」
「ん?」
「驚くのも無理はない。気違いじみてると思われるかも知れない。実際自分でもその辺のところが分からなくて困ってるんだ。ボクはどこかおかしいんじゃないかってね」
「ちょっと待って」たまらず僕は声を掛ける。後半田所の言葉を余所(よそ)に僕は周囲を意識する。誰がどこで聞いているか分からない。「訳を聞かせてよ。あんまり唐突過ぎて検討(?)のしようがないじゃないか」そして人知れず呟く。それに現に僕は…。
「そうだね」そう言って彼は僕を見る。「さすが澤田くんだな。こんな話をするとほとんどの人は取り乱して中には怒り出す人だっている。そしてそれが最後、その人はボクの前から去っていくんだ」
「無理もないさ。誰だって人を殺したくはない。それが知り合いなら尚更だ」
「だね。でもどう切り出していいか分からないんだ。だからいつも単刀直入になっちゃう」
彼の口調はあくまでフラットだ。
「君は死にたいのか?」
僕は幾分押さえた声で訊く。そしてそれには少なからず失望感が含まれている。
「いや、そう云うわけでもない。ただボクなりの責任の取り方だと思う」
「責任?」
「これからボクが行うことへの」
「君は一体、何をしようって云うんだい?」
「ボクは…」田所はガラス越しに外を見る。そこにはもう漆黒の闇が広がっている。
「ボクを苛(いじ)めた者たちを抹殺する」
田所の計画内容はこうだ。小・中学校を通じて自分を苦しめ続けたイジメ集団。彼らを同窓会を装って集合させ、その席で全員まとめて毒殺する。すでにとある飲食店をその実行場所に選び出し、田所は今そこでバイトしていると云う。
「そんなこと、いつ思いついたの?」
僕はあまりにも大胆なその告白に、ついどうでもいい質問をしてしまう。
「忘れちゃったな。でももう随分前だよ。ボク、高校に上がるまでずっと苛められてただろ。義務教育で逃げ場所もなかったし。それでいつの間にか逃れられない体質(?)になっちゃったのかも知れない」
「…」
「でもね、もうダメなんだ。苦しくてたまらない。自分はいいけど、ボク家では親にずっと暴力振るってるんだ」
「え、そうなの?」
「うん。もうボコボコになるくらいにね。救急車も何度か呼んだ」
「君の家、お母さんだけだったよね?」
僕がそう言うと田所は一瞬沈黙した。「うん」
「それで、どうして僕が君を殺さなきゃいけないんだい?君は復讐したいんだろ、そいつらに」
「そうだよ」
「君が死ぬ必要はない」
「まあ、そうだけどね」
田所はそう言って笑った。コンビニにはまばらながらも客の行(い)き来(き)がある。最初は気を遣っていた僕も、いつの間にか日常/非日常の狭間で感覚が麻痺している。
「いざと云う時の保険みたいなものだよ。手段はもう考えてあるんだ。迷惑は掛けない」
「迷惑だなんて…」
言いかけて、思わず「代わりに僕がやってやる」、そう口に出しそうになる。何も被害者の君が責任を感じることはない。そんな理不尽が通ってなるものか。
「どうだろう、変な頼みだけど聞いてくれるかい?」
「…」
「ダメかな?」
「御免、急な話で上手く飲み込めないんだ」
「そうだね。当然だよ。まるで何かのお話みたいだもんね」
彼は言った。しかし僕は内心それを強く否定する。いや、違う。お話なんかじゃない。これは正真正銘の現実だ。そして君は覚えていないのか。小学校最後の年の、あの事件を。
「この前、君は小学校の校門前で何やってたの?」
僕は尋ねる。
「いや、別に。時々ああやって引き寄せられるんだ。ボクの心はまだあそこに留まってるみたいだね」
「そんなことって…」
「嘘みたいだろ。でも本当なんだ。周りはどんどん変わっていくのにボクだけ…いや、ボクの心だけが学校に釘づけなんだ」
田所の言葉は僕自身の心を射るように響いてくる。こんなことがあっていいのか。僕は例の教師の事件ですでに事は終わったかのように思っていた。しかし彼の場合は違ったのだ。田所の中ではその後もずっと呪縛は続いていた。むしろあれは序章でしかなかったかのように。
「分かったよ。詳しい話は追々聞かせてもらうことにしよう。それでいいかい?」
僕は応える。
「有難う。澤田くんならそう言ってくれると思ったんだ」
田所は再び人懐っこい、とびきりの笑顔でそう言った。それからは二人共もうその話に触れることはなく、しばし世間話をした後そのまま別れることになった。
約束通り、田所とは毎週一回だけ会って話をするようになった。町外れにある深夜のファミレス。僕は塾の仕事が終わってからそこまでオートバイで向かう。片道40分。田所はいつも先に窓際の同じ席で待っていて、僕の姿を見つけると軽く手を上げて会釈する。僕はバイクをファミレスの脇に停めて中に入る。見ると田所はまだ窓の外を眺めている。多分彼はいつもそうしているのだろう。僕が席に近づくと自然とこちらに笑顔を向ける。そして必ず決まってこう言う。
「お疲れ。今日はどうだった?」
それから僕はその日に(あるいはその週に)自分に起きた出来事を訥々(とつとつ)と話すことになる。田所はそれを飽きずに聞き続ける。その意味では彼は有能なカウンセラーだ。僕は普段の生活で溜まった心の沈殿物をそうやって浚(さら)い続ける。そしてその後で今度は僕が田所の話に耳を傾ける。彼はその都度断片的に自分の計画について話す。まるでその一つ一つが薄氷(はくひょう)でできたトランプ・カードであるかのように。僕はそれを捲(めく)りながら、一方で別のことを考え続けている。
「川上くんはあれから医薬品の卸会社で働いている。どうやら近く結婚をするようだよ」
「そうか。結婚ね」
僕は応えながらその事に現実味を感じない。
「澤田くんは付き合ってる人とかいないの?」
「いないね。僕ほら、話下手だから」
「へえ、意外だな。モテそうなのに」
そう言う田所こそ、昔はどうであれ今はごく普通の青年と云った感じで、その気になればいくらだって恋人が作れそうな気が僕にはする。
「でも今は関係ない」
田所は続ける。「川上くんもメンバーの一人だから」
田所の標的はそれぞれ今は普通に社会人をやっているようだ(全員県内在住)。しかもその中の何人かとは今でも個人的に繋がりがあるらしい。そしてそれは全てこの計画の為に維持してきた関係だと云う。
「今同窓会をいつにするか考えてるんだ。一番良いのは彼らの中から自然とその話が出ることなんだけど、そう上手くは事が運ばなくてね」
僕の脳裏に一瞬或る事が思い浮かぶ。しかしそれは敢えて口にしない。
「田所君」
僕は声を掛ける。
「田所、でいいよ」
「うん。田所、君の計画はこれまでの話で大体把握できた。僕が気になっているのはその後のことだ」
「分かってる。ボクのこれまでの話は全てその為にあるんだ。君に心置きなくボクを葬ってもらう為のね」
その田所の視線に、瞬間彼が僕の事を全て分かっているような、そんな気持ちになる。そして彼の非情さが正しくそれと繋がっているからとも。
「で、具体的に僕はどうすればいいの?」
「うん。ボクを或る場所まで連れて行って欲しいんだ。それだけでいい」
「連れて行く?」
「そう、つまりドライバーさ。免許あるよね?」
「ああ。でもどこに?」
…田所、僕にはもう免許さえも関係ない。お前が行きたいところなら何処(どこ)へなりと連れて行ってやる。何処へなりと。
「それはまた追々。今日はそれだけ」
そう言って田所は飲みかけのコーヒーカップを呷(あお)る。話の区切りがついたことへの、それが彼なりの合図(サイン)だ。そんな時の彼は、まるで目の前に僕なんかいないかのように寡黙(かもく)そのものになる。
僕らの邂逅(かいこう)はそうやって少しずつ回を重ねていった。
僕のアパートに再び刑事がやってきたのはそれから間もなくだった。田所はすでに日程を決め、実際の段取りに着手し始めたらしい。その日は何だかとても眠たい午後で僕としてはもう少し惰眠を貪(むさぼ)りたかったが、繰り返される部屋の呼び鈴がそれを許してくれそうにはなかった。
「お休みのところを済みません」
立っていたのは女の刑事。しかもまだ若い。示された警察手帳には進藤ナントカと書かれてあった。
「はい、何か?」
「澤田真人さん、ですね?」
相手は僕を真っ直ぐに見た。
「そうですが、何かありましたか?」
僕は自分でも引くくらいに不機嫌な口調で応える。しかし相手は淡々と要件を口にする。
「十五年前、蔵前小学校で起きた事件について調べています」
「事件?」
「はい。覚えてらっしゃいますよね。校庭で或る男性教師が倒れていた事件」
「ちょっと待って下さい。あれは転落事故じゃなかったんですか?」
「当時の捜査ではそう云うことになっています。でも鑑識の調査では疑問は残り続けていたんです」
「それは…」
それは僕ら子どもですら気づいていたことだった。いくら体を動かすのが好きな人間でも、自殺する時に屋上から全速力でジャンプする者はいない。
「でも、何で今更?」
僕は問う。
「そうですね。実は本題は別のところにあります。それはまだ申し上げることはできませんが。澤田さんは夢を見ることはありますか?」
「?」
「夜寝ている時に見るのとは違います。何と言いましょうか、そう、白昼夢みたいなものです」
僕はその一言で彼女の言わんとする大体の事を把握する。彼女は知っている。いや、もしかしたら彼女自身そうなのかも知れない。
「いいえ。何ですか、それ」
僕はそっけなく応える。「あの、具体的な質問がなければ帰って下さい。僕、もう少し寝てたいんで」
「じゃ、もう一つだけ」進藤刑事は続ける。
「人を殺したいと、強く願ったことはありますか?」
「ボクのところにも来たよ、その女刑事。何て云ったっけな、名前」
「進藤…」
「ああ、そうだ。進藤惠美。下の名前が母親と一緒だった」
「何か聞かれた?」
「う~ん。例の小学校での事を聞いてきたけど、ボクにはよく分からなかったな。正直あの教師のことはあまり好きじゃなかったし」
僕はそう呆気らかんと言う田所の顔を見つめる。「で、どうして決行日がその日になったって?」
「ああ、そうか。山田くん達と顔を合わせた時にやっぱりその話になってさ。皆もすっかり忘れてたんだけど、そう云えばって事になったんだよ」
「?」
「九月二十日がその事件の日なんだよ。十五年経ったね」
…そうなのか。
言われてみれば僕は事件(事故?)の細部の記憶をすっかり取り零(こぼ)していた。確かあの朝、僕は奇妙な夢のせいで珍しく遅刻寸前だった。そしてようやく校門近くまで着いてみると、学校はまるで突然現れたテーマパークのように、周囲を巻き込んで異様な雰囲気に包まれていた。
「澤田か。早く教室に入りなさい」
校門の前で僕に声を掛けたのは当時の校長、花崗(はなおか)だった。どうして校長が僕の顔と名前を一瞥で識別できたのか分からなかったが、その時は言われるがままに教室へと急いだ。嫌な予感がした。そしてその騒ぎの理由は、教室に入ってからすぐに分かった。
「何だ、あれ?」
当時僕の席は窓際に在った。台風が近づきつつある曇天の校庭を鮮やかな青のビニールシートが覆っており、その周りではたくさんの見慣れない人たちがまさに何かの作業を始めようとしていた。そして次の瞬間、教室に隣りのクラス担任が入ってきて、窓のカーテンを全部閉めるようにと僕らに命じた。その全く有無を言わさぬ口調に皆(みんな)事の大きさを改めて思い知った。
それが例の事件の朝の光景。つまり、十五年前の九月二十日。
「もうそんなになるんだな」
僕は思いを巡らす。
「そうなんだよ。ボクさ、あれから時々思い出して考えてたんだ」
「何を?」
「本当はね、青木を殺(や)ったのはボクだったんじゃないかって」
そう言って田所は僕を見た。その目は遥か遠くから僕を見通しているようだ。
「ああ、そうか。分かるよ、その気持ち」
僕はそう応える。そして、本当にそうだったならどんなに救いがあるか、そうとも思う。「でも、もしかしたらそう思ってる人間は他にもたくさんいるかも知れない」
「どうして?」
「こう言っちゃなんだけど、あいつひどかっただろ。教師としても、人間としても」
僕がそう言うと、田所はポカンと口を開ける。
「え?澤田くんもそう思ってたの?」
「そりゃそうさ。あいつはクズだった。あの朝の、学校の異様な盛り上がりはその証拠でもあると思う」
「そ、そうなのか」
田所は言い淀む。「ボクはずっと…」
「丁度いいじゃないか。あれから十五年。お互いケリをつけるには良い頃合だ。もう準備は進んでるんだろう?」
「うん。今は連中に声を掛けてるところ。もしかしたら人数も増えるかも知れない」
「いいのか?関係ない人間もいるんじゃないのか」
「ちゃんと手は打つよ。心配ない」
しかしそう言う田所の表情は晴れなかった。それにしても…。僕は不意にあの女刑事のことを考える。どうして今更、あの事件のことを?
僕らはその夜、あまり話の進展を得ないままに散会することとなった。
それからしばらく田所からの連絡はなかった。僕がメールを送ると「今、最後の詰めに行き詰まってて」と微妙な洒落で返してきた。そうなると当面僕のすることはなく、普段の生活を重ねながらじっと身を潜めるしかない。そしてものを考えるしか。相田のこと、青木の事件、田所の計画、進藤と云う女刑事の存在…。僕はまるで深海の底で探し物をしているような、途方もない心持ちになる。そして、もしかしたらそのうち思ってもみない深みに嵌(はま)ってしまうかも知れない。そんな不安を覚えながらも暗い海底絨毯(じゅうたん)の上をただ流離(さすら)うしかない。
今頃になって僕は自分が以前と違う領域にいることを感じる。後悔とか、不安・恐怖などと云ったものとは違う、敢えて云えば違和感のようなもの。その中でややもすると自分の存在を取り零してしまいそうになる。そうだ。僕はもう一度戻る必要がある。自分が「力」と云う、そもそもの違和感に目覚めた、その瞬間に。
僕の「力」。今は便宜上そう言っておこう。それは今のところ自分がその現象をコントロールできていると云う前提においてだ。しかし実際それには非常なる危うさが潜(ひそ)んでいる。と云うのもその力は僕が自分の願望をヴィジョンに転化させる必要があるからだ。進藤刑事の言う「白昼夢」と云うのはその意味で正確ではない。あれは純化され、研ぎ澄まされたもう一つの現実なのだ(それはすでに元の現実と紙一重。その差は一体何なのだろう?)。通常人には願望と現実の間に越えるに越えられない壁があるものだ。僕にもそれはほとんどの場合当てはまる。ただ一点を除いて。子どもの頃、誰しも某アニメ番組を見て「どこでも●●」なる不思議道具に心奪われたことがあるだろう。しかし僕にはそれが、元々生きる機能として体内に存在していたと云うことになる。そう、僕は自分の意思で空間をコントロールできる。
様々な制約は付く。その最たるものは、空間全体をコントロールできるものではないと云うこと。言ってしまえば自分が実際行ったことがあるところ(それもなるべく半年以内)。しかも他の人や物がそこに実在する場合、途轍もない肉体的痛みと吐き気を伴うことになり(結果断念せざるを得ない)、結局その範囲は日常生活の移動範囲とほぼ変わりないと云うことになる。しかし一方で思わぬオプションもある。それはその空間の中に他の存在をも取り込むことができると云うこと。つまり自分の知っている人を飛ばすことができるのだ。
最初にその事に気がついたのはもう随分前になる。僕は親から薦められて中二の途中から進学塾に通わされることになった。当時さほど学校の成績が悪かったわけではないが、どうやら親は僕が家で本ばかり読んでいるのを気に掛けていたことと、その塾が有名進学高へのずば抜けた合格率を誇っていることをどこからか聞きつけてきたらしい。いざ入ってみると勉強はともかく、僕にはその塾が醸(かも)し出す独特の雰囲気に馴染むことが殊更一苦労に思えた。要は居心地が悪かったのだ。
通い始めて二ヶ月くらいで僕はすっかり参っていた。そして或る日のこと(確か日曜日だったと思う)、僕は塾の休憩時間にトイレで用を足していた。模擬テストの最中で僕の頭は異様に研ぎ澄まされ、同時に意識はボーッと霞(かす)んでいた。「ああ、もう帰りたいなあ」僕はそう思ったところまで覚えている。そして次の瞬間、僕は母親の「ちょっと、あんたそんなところで何やってんの?」の声で我に帰る。僕は家の小庭で所謂(いわゆる)立ちション状態に在ったのだ。もちろん母親からは小事と質問の応酬を受け、僕はどうにかそれをかわしながら自室に籠ったが、実は僕自身一番訳が分からないでいた。案の定後で塾からも連絡が来て、それには「途中で具合が悪くなって」と取ってつけたような応えを返したが、僕はその時或る事に思い当っていた。一時期僕は友だちから「昨日お前、○○のところに居ただろ?」と言われることが続いた。もちろん身に覚えはなかったのだが、その場所とは実際行きたいと思っていた公共施設のすぐ近所だったのだ。
僕は怖くなった。自分は学習塾でやたら勉強するようになって、遂に調子が変になってしまったのだと思った。そしてしばらく悩んだ末その塾をやめることにした。母親は何か言いたそうな顔をしたが、僕が具合悪そうな顔を見せるともうその後は好きにさせてくれた。それからと云うもの僕は何かと散歩をするようになった。近くの神社参りや、少し歩いて川べりの散策をしたりと、なるべく行きたいところへは出掛けるようになった。あと、以前は面倒臭がっていた街への買い物なども。そのせいか当の「リアル幽体離脱現象」は、少なくともしばらくは起きなくなった。
人の移動について気がついたのは、夏休みに北海道の従弟が家に遊びに来た時のこと。初めて一人で飛行機と地下鉄・電車を乗り継いで親戚の家に泊まりに来ようとしていた彼は、どうやら最後の行程で誤って駅を三つばかり早く降りてしまったらしい。見知らぬ駅前で半パニック状態で電話を架けてきた彼を、僕は最寄(もよ)りの駅から携帯でナビする役目を仰せつかった。元々おっちょこちょいで迷い癖もある彼は、僕が現在地を掴もうと悪戦苦闘するうちにおかしなことを言い出した。「ここ、何だか変だよ。暗くて地面がふわふわする」そして気がついた時には、彼は親戚宅へと続く川べりの道を僕より先によたよたと歩いていた。「どう云うこと?」普通に考えれば、それは小学生の彼が歩いて着ける時間と距離ではなかったのだ。
今のところ僕の「力」は誰にも気づかれていない(と思う。そもそも気づかれようもないが)。僕はもしかしたら、案外似たような現象が周囲でも起きているかも知れないと思いネットを通じてあれこれと調べてみたが、十中八九「都市伝説」ネタに行きつきその中身のくだらなさに間もなく探索を止めてしまった。代わりに僕は日常生活に支障がない程度に実地試験を行うことにした。よくやったのは駅のホームで見掛ける居眠り中の人を移動させること。本人はもちろん周りの人もほとんど気がつかない。そして僕は併せて自分自身を移動させることにも熟達していった(不思議なことに、この現象には重量はあまり関係がない)。しかし僕は一通りの実験をした後で、まるで熱が冷めるようにそれらの事に飽いてしまった。自分の力がものすごいと云うことには自覚があった。しかし僕一人ができたところで、それは魔術師が舞台で見せるイリュージョンと何の違いがあろう。むしろこちらはそのタネすらも公にはできないのだ。僕は、そんな救いのない一人遊びに急速に興味を失っていった。そしてその状況はつい最近までそうだったわけだ。
「またあの女刑事が来たよ」田所は少し不機嫌そうに言った。
「また?」僕もそのことに不穏なものを感じる。
「やっぱり彼女、何か嗅ぎつけてると思う。でもそれが何なのか、ボクにはよく分からない」
そう言う田所は顔色も悪そうに見える。
「どうした?お前、具合でも悪いんじゃないのか」
「いや、そんな事…」田所はそれでも言い淀む。「それよりあんな風にうろつかれると邪魔なんだけどな」
「あんな風に?」僕は問い返す。
「とにかく、どうして今になって…」
瞬間、田所の目が虚ろに彷徨う。
「時効が無くなったから?でも警察もあれは事故と云うことで片づけてたはずなんだけどな。まさかお前のターゲットの中に警察関係者がいるんじゃないのか?」
「だとしたらまずボクが奴らに反撃されるはずだよ。違う、そうじゃない」
「僕が気になるのは彼女がいつも一人で行動していることだ。そうだろう?」
「うん。ボクもそんな感じがした。その辺が何だか解(げ)せない」
言ってしまえば彼女は個人的意図で動いていると云うことだ。そして僕は思い出す。田所にはまだ話していない、彼女が僕に言った別れ際の問いかけを。
人を殺したいと、強く願ったことはありますか?
知っている。彼女は単に十五年前の事件を調べているのではない。あの相田の事件との繋がりを追っているのだ。つまり、同一犯との確証を求めて。
「で、どうする?実行の方は」
「もちろんやるよ」
田所は即答する。「中止なんて、あり得ない」
「本当にいいのか?それに僕は最後まで何もしなくていいんだな?」
「うん。君は待ってくれてたらいい、あのコンビニで」
その日は、あと十日と迫っている。
人が壊れていくと云うことは、一体どう云うことなのだろう?僕は何故相田を殺そうと思ったのだろう?もちろん彼女が社会にとって癌細胞となっていたせいはある。僕がやらなければおそらく被害は途轍もなく広がっていっただろう(もしかしたら自殺者さえ出たかも)。大体、社会は何のかんの云っていじめや虐待に対して寛容的過ぎる。感情の面だけではない。結局は費用対効果的にも合っていないはずなのに、それを見て見ぬ振りをする。対策を講じない。つまりは自分が矢面に立つと云うことが(或いは自分の腹を探られることが)怖いと云うことか…。しかし僕は一方でそれを他人に当てつけようとは思わない。いや、むしろ引き止めるかも知れない。と云うのも僕が今手を下す必要がある人間とは、そもそも他人(ひと)から注意を受けようが、不利な立場に置かれようが、自分の身の振り方を改めようとは決してしない(できない)。生きていながらすでに自己完結、後は周りが何がしかの犠牲を被りながらやり過ごすしか手がないからだ。
人間の癌化。僕には最近それがやたらと目につく。その事は少子高齢化と相まってこの日本を内部から蝕(むしば)んでいる。このままでは社会秩序の維持すらままならなくなる。だからこそ僕がやるしかない。根こそぎ、彼らをこの社会から「間引く」しかないのだ。そしておそらく、そうしているうちにも僕自身は浅瀬に立つ砂城のように崩れていくだろう。時間をかけて。理由は分からない。でもそうなるに違いないと思う。人間と虫は違う。人を殺すことは蚊をはたくようにはいかない。たとえそいつが虫けらのような人間であったとしても。
僕はそう思う。
もしあの女刑事が相田の事件のことを迫ってきたらどうしよう。「ええ、僕がやりました。間違いありませんよ」今のままだったら僕は素直にそう白状してしまうかも知れない。しかしまだ捕まるわけにはいかない。その事もやはり彼女に告げるだろう。僕にはたとえ身を滅ぼそうともやり遂げなければならないことがあると。もし彼女がそれに異を唱えるなら(至極当然な流れではあるが)、僕は彼女をもまた穢れと看做(みな)し対処しなければならない。それは何としても避けたい。だからこそ僕は今、一つの決断をする。
「改めて訊くけど、君はいつこの計画を思いついたの?」
僕は田所に尋ねる。
「具体的には三年ぐらい前だけど、今思うと多分小学校を卒業する頃かな」
「そんな前から?」
「ほら、卒業文集で『将来の夢』って欄があるだろう。それを書いてた時」
「将来の夢?」
僕は少し唖然とする。確か僕は「映画監督」と書いた。
「うん。何書こうかなって随分悩んだんだ。ボクって勉強もスポーツも得意じゃないし、他に趣味があるわけでもない。どうしようと思ってた時ふと思いついたんだ。そうだ。ボクを苛めた連中をいつか殺してやろうって」
「でもそれはちょっと…」
「うん。だからさ、それはあくまで思いつき。実際には別の当たり障りのないことを書いた。でもそのアイデアはその後もボクの中でずっと眠り続けていた」
「ずっと?」
「そう。君も知ってる通り、中学に上がってからボクへの苛めは更にグレードアップしたからね」
確かにそうだった。僕らは中学に入るとそれまでの二クラスから一気に七クラス編成となり、結局卒業まで一度も同じ教室にはならなかった。そして僕自身中学内で田所の事を意識することは全くと云っていいほど無くなっていた。つまり僕は以前のことからなるべく距離を置きたかったのかも知れない。全校集会でたまに見かける田所の表情が、たとえ奇妙に歪んでいたとしても…。
「今から考えると、例の事件が彼らの箍(たが)を外してしまったのかも知れない」田所は微笑する。「でもね、不思議なんだけど、ボクはそのお陰で今まで生きてこられたような気もするんだ」
「どう云うこと?」
「つまりさ、ボクにとって彼らへの復讐の思いは、いつの間にかボクの生活をギリギリのところで支えてくれてたってことだよ」
「分からないでもないけど」僕は呟く。「だったら今は…」
「同じだよ。ボクはね、いつか大人になったら、学校を卒業して社会人になったら、自分を苛める人間はいなくなるって思ってた。苛める側も苛められる側も、それぞれに悩み苦しんで成長していくんだって。そしていつしか許し合うこともある、分かり合えるってね。でも実際は違った。むしろどんどん状況はスケールアップして、逆に様相はカジュアルになってくるんだ。ボク自身自分が今苛められてるかどうかさえ分からなくなるほどにね。それほどこの社会にはいじめと不機嫌が蔓延している。いや、もしかしたらボクがそれらを呼び寄せているのかも知れない、そう思うほどにね」
「今の君は、僕から見たらごく普通の男の子にしか見えない」
「でも、それが本当は一番怖いんだよ」そこで田所は一呼吸した。「ボクはここら辺で区切りをつけたいんだ。そう、人間としての仕切り直しと云ってもいい」
「やっぱり決行するんだね」
「うん。手筈(てはず)はすべて整えた。君にはそれを外から見ていて欲しい。そして最後の締めを手伝って欲しい」
「そしてその詳細はまだ聞かせてはもらえないんだな?」田所は最初僕に『自分を殺して欲しい』、そう頼んできたのだ。
「決行前日に全てを話す。約束する」
「君さ、この前から気になってたんだけど、体調は大丈夫なのか?」
僕は尋ねる。
「ああ、それは大丈夫。ちゃんと体調管理はしてる。ここまでくるとボクも毎日そのことばかり考えててさ。夜も碌に眠れないんだよ」
田所は不意にとても楽しそうな表情になる。
確かに彼は今生きている。全身全霊を以って自分をこのミッションに駆り立てている。そしてだからこそ僕は彼に一つの提案をする。
「田所、お前の気持ちは分かる。しかしそのことでお前が人生を棒に振ることはない。考え直せ」
すると田所は僕の顔を一瞬見て、それから夜の通りを窓ガラス越しに見る。口元を覗くとそれは何かを小さく囁いている。
「何、どうした?」
僕は仕方なく声をかける。
「…」
「え、何?」
「つまらない事…言うなよ、今更」
地の底からのような低い声だった。そして田所は射るような目で僕を見る。
「人生を棒に振るって何だよ?こっちは丸ごと賭けてやってんだよ。余計な口出しはするな」
「田所」
「うるさい」田所の声が震えと叫びに変わる。「どいつもこいつもつまんねえことばっかり言いやがって。オレはお前を見込んで話を持ちかけたんだ。それを分かってんのか?」
「田所、話を聞いてくれ」
すると田所は再び窓の方に顔を向けた。「冗談じゃない。今更尻尾巻きやがって…」
「田所。お前の計画を邪魔するつもりはない。いや、むしろ逆だ」
僕は言う。「その実行、僕に任せてくれないか?」
田所は一瞬体を硬直させ、そして僕の方をゆっくりと振り返った。
田所の用意した場所は、町なかから少し離れた場所にある中華居酒屋だった。外観の割には店の奥行きはあり、おそらく宴会等の団体客も多いのだろう(そう云えば彼はここでの仕事(バイト)の話は全くと云っていいほどしなかった)。僕は店員に案内された二階部屋の戸を開けながら、もし当初の計画通りだったらここが今日惨劇の舞台になったのだと想像する。
「あれ…澤田?」
振り向いた顔に一瞬記憶が捻(ね)じれた。昨夜念の為に卒業アルバムと田所から預かった個人写真で確認していたはずが、咄嗟に相手の名前が出てこなかった。「ああ、久し振り」
「何で?田所(あいつ)、お前にも案内出してたんだ」
「うん、この前ばったり道で会ってさ。暇だったら来てみないかって誘われたんだよ」
「ふ~ん」
相手は僕の顔を見てから、次の瞬間にはもうどうでもよさそうな笑顔になった。その時僕は思い出した。清田だ。清田(きよた)将司(まさし)。家は確か何か店(しょうばい)をやっていたと思う。痩せていて時々変な笑い声を出す、それでも他と較べたらごく普通のヤツ。もっとも家が離れていたせいもあり一緒に遊んだ記憶はほとんどないが。
「他の皆は?」
僕は相手からいろいろ訊かれる前に質問する。
「ああ、山田は少し遅れてくるって。仕事。それから吉野は今…」
清田がそう言いかけた時、「うぁれ?」僕の後ろにその吉野が立っていた。グループのリーダー的存在。高校を中退して一時期他所へ何かの修行に出ていたらしいが続かず、今は親戚の土建屋で働いていると云う。「サワッチじゃん。相変わらずフケた顔してんなあ」
「吉野君、久し振り」
「おう、久し振りだなあ。驚いた」
口の悪さとは裏腹に満更でも無さげに言う。ヤツには中学時代何かとチョッカイを仕掛けられた。不意にその時の感覚が甦り一瞬感情が泡立つ。僕らは上り口から中に入る。
「あれ、お前日焼けしてね?」吉野がそう言うので、
「うん。ちょっと野暮用で親父の実家まで行ってたんだ。北海道」僕は応える。すると頭の中につい一昨日まで居た北の広大な風景が浮かび上がる。まるで手間暇をかけて織られたキルト模様のような。僕はそれをそっと記憶の小箱に仕舞う。
そうこうしているうちに出席者たちは三々五々集まってくる。それぞれに挨拶を交わし、他愛もない近況話をしながらお互い自分の現在地を確かめ合っている。僕は彼らが以前と基本的に変わっていないことに気づきながらも、そこに何か本質的な差異も認めずにはいられない。彼らの十五年の中で芽生えた、ささやかだが本質的な変遷…。
そのうち料理が運ばれてきて僕らは済し崩しに同窓会を開始する。今日のメンバーは僕を入れて十一名。男ばっかりだ。女性を入れる計画も出たらしいが、田所は二次会でその手の店を用意してるとチラつかせ、野郎だけを集めたらしい。
「それはそうとさ、進行はどうなってんだ。幹事もまだ来てねえし」
「あ、オレが聞いてるよ」
写真屋の倅(せがれ)、松(まつ)菱(びし)が手を挙げる。「ヤスはちょいとばかし遅れるって」
「はあ?まだ待たされんのかよ」
「いや、先に始めててくれってさ」
松菱はフランクに応える。「実を云うと、この日の為にオープニング・ヴィデオ作ったんだよ。田所とオレで」
「おお、エロいやつか?」
「そんなわけないだろ」
一斉に嬌声が上がる。そして早速松菱がビデオ上映の準備に取り掛かる。僕も一応話には聞いていたがその中身までは知らない。部屋の明かりが一部落とされ、白壁にプロジェクターからの映像が流れ出す。最初音声が出ない。松菱が慌てて操作すると田所の声でナレーションが聞こえてくる。なかなか良い感じの導入だ。
「君がボクの代わりに?何故」
僕は自分の提案を聞いた時の、田所の表情をまざまざと思い出す。
「それは、すでに僕が手を汚してしまっているからさ」
「それって…」
「青木を殺ったのは僕だ」
僕は十五年前の、あの夜明けに見た夢の話を彼に語って聞かせる(そしてその顛末(てんまつ)も)。彼がその内容にどれだけの信憑性を見い出すかは疑問だったが、彼は予想外に僕の話に聞き入った。僕は相田の話をするかどうか最後まで迷ったが、結局それはやめにする。田所が僕のことを信じてくれるのならそれでいい。必要ない。むしろ相田の一件を口にすることは田所の純粋な気持ちを汚(よご)してしまいそうな気がして、僕はその記憶を自分の胸深くに留めておくことにする。「大丈夫。君が手を下すまでもない。僕に任せろ」
田所はしばらくじっと黙っていた。その様子が僕には朝(あさ)靄(もや)の寺院で瞑想する高僧のように思われる。そして彼は僕に大きく頷いた。
スライド映像は小学校入学から始まり、その折々に田所が軽妙なコメントを入れていく。出席者からは笑い声が零れ出る。僕も思わず見入ってしまう。そしてそのうち僕には、確かにここにいる彼らとこの過ぎ去りし時間を共に過ごしたのだと云う、郷愁にも似た思いがふつふつと湧き上がってくる。更にその時間が今日ここで永遠に途絶えてしまうことも。
画面が一瞬ハレーションを起こす。そして次に映し出されたのは小学校の校庭だ。そこには大きなブルーシートらしきものが広げられている。もちろんその映像には音楽もナレーションもない。しかし皆は一様に押し黙ってその映像を見続ける。そしてあらかじめ消え入るかのように或る日付が仄かに浮かび上がる。そこで「何だ、これ?」、誰かが呟く。だがその問いに応える者はなく、まもなく画面は死ぬ。
「面白かったけどさ、最後がショボクね?」
吉野が言い、それから催眠術が解けたかのように皆がボソボソと喋り出す。
「何だ、あの青いヤツ?」
山田に言われて映像係の松菱も頭を捻っている。「こんなエンディングじゃなかったんだけどなあ」
しかし僕には分かる。連中は既に気づいている。この、今日の集まりの不穏さに。僕はやおら立ち上がり部屋を見渡す。大丈夫、全員揃っている。
「おい、澤田。どうした?」
そして、その中で一番仲が良かったと云っていい大橋が僕に声を掛ける。
「ああ、ちょっとトイレ。何か気分悪くなっちゃって」
僕はそう言って歩き出す。そう、やるなら今しかない。僕の頭の中にはブルーシートに蔽われた皆の膨らみが見える。その時僕は不意に気づく。あの校庭の映像は真上から撮られていた。一体何処から撮影したんだ?ドローン映像を使ったCG合成?いや、そんなはずはない。だいいち小学校の敷地内にそう簡単に入れるはずがない。僕の中で何かが猛烈なスピードで巡り始める。これは…、この違和感は一体何だ?途端に足元がふらつき、頭の中では映画のスタッフロールらしきものが大音響のノイズ音楽と共に流れ出す。いけない、これは何かの間違いだ。田所の思いとは決定的にズレている。次の瞬間僕は感覚を飛ばし田所の現在地を手繰(たぐ)ろうとする。しかし、それを果たす前に僕自身闇の奈落に沈み始める。足が動かない。身体全体の自由が効かない。しまった、何者かに裏をかかれた。僕は突然の不甲斐なさに地団駄を踏みそうになるが、それも到底叶いそうにない。
「田所、この際教えてくれ。お前が僕に連れて行ってもらいたいところって何処なんだ?」
「うん。ボクのもう一つの生きがいはね、この世の果てを探すことさ」
僕が訊くと、田所はまるであの少年の頃のように激しくはにかんだ。
「きっかけは世界の断崖風景をネットで見てからだけど、実際カメラを持って旅行にも出掛けたりした。お金がないから国内ばかりだったけどね。今から考えれば自分の死に場所探しだったのかも知れないな。お陰でいつの間にか引きこもりからは卒業できた」
「そうか…」僕は応える。「でも、どうしてその事今まで喋らないでいたんだ?」
「だって目的を果たしたボクにはもう生きる希望すら無いんだよ。美しいものを目にする資格もない。それなのに何だか未練がましいだろ?」
田所はそう言って微笑んだ。「そう云いながら一方でボクは最後に君と行きたいところをずっと思い描いていたんだ」
「行きたいところ」僕はただそう応えるしかない。
「確か澤田くんは北海道の生まれだったよね。小さい頃こっちに引っ越して来たって」
「ああ」僕は頷く。「よく覚えてたな」
「君が何かの発表の時、教室で話してくれたんだよ。君は話が上手くて、ボクらは聞いてるだけで北の広大な大地にいるような気にさせられた。今でも思うんだ。その場所に一度行ってみたいって」
僕はそう言う田所をじっと見つめた。なんとコメントしていいか分からなかった。しかしその時僕の中に田所にさえ秘密の企てが電撃のように走った。もし…、もし田所さえその気になってくれたら僕はその事を実行しようと思う。どう転んでもこれが悲劇に終わるのなら、僕はその責めを一切被っても構わない。田所みたいな人間をもうこれ以上増やしたくはないし、そして自分みたいな人間ももうこれ以上必要ないのだから。
「じゃあ、ボクはあのコンビニで待ってるよ」田所はそう言うとすっと立ち上がり、珍しく僕より先にテーブルを離れた。
「旅行の準備、してこいよ。長旅になってもいいように」
僕がそう背中に投げかけると、
「君も気をつけて。それだけ」田所は最後に真顔で僕に応え、そのまま店を後にした。
僕らは間違っていたのか…。やはりいかなる理由であれ、同級生を手に掛けること自体誤った判断だと云うのか。僕はこの世に理不尽ばかりを振り撒く「神」と云うものに初めて殺意を覚える。そして思う。そうか、「神」とは人間にとって崇(あが)める存在ではなく、むしろ憎しみの根源として創造されたのだと。瞬間頭の中で映像が切り替わる。僕の原風景、そして田所にとっての世界の果て。やるなら今しかない。そこに向かって残りの力全てを駆り、業を背負った同級生たちを一心に委ねる。飛べ、そしてその場所から再び歩き出せ。己らの運命と共に。
何かが足元から崩れたような音が聞こえた。そして同時に、遥か遠くで笑い声とも叫び声ともつかないものが、高く、高く響き渡った。
気がついた時、僕は一人ストレッチャーの上に寝かされている。まだ意識は朦朧としていて、自分が今どこにいるのかさえ検討がつかない。移動し損ねたのか?しかし僕には周りの景色に見覚えがない。
「あ」
近くにいた制服姿の男が僕に気づいた。「あなた、分かります?ここ病院ですよ」
そう言われて僕はとりあえず唸(うな)り声で返事をする。そうか、ここは病院だ。どうやら緊急搬送されたらしい。
「しっかし、あんたの友だち連中も薄情だな。急アルの友だちを置いてさっさとどっかに行っちゃってんだから」
別の男が言う。急アル?僕が?
「そうですよね。普通誰か一人くらい介抱するでしょう。それに…」
その時、誰かが中に入ってきて医者らしき男に耳打ちする。
「は?」
そしてまた、一旦僕の記憶は途切れる。
事件のことは一通り担当医から聞いた。僕はそれにどう反応していいか分からなかったし、医師の方も何も問いはしなかった(と云うより何をどう訊いていいか分からなかったのだろう。当初は僕と被害者たちの接点すらあやしかったのだから)。僕は必然的に個室に移され、表向き「面会謝絶」状態となった。その日の内に親がやってきて、取り乱した様子で僕の容態について尋ねた。「なんでもない」僕はそう応えるしかなかったが、見るからにふた親とも事件のことをどう切り出していいか迷っているようだった。
「彼ら、どうしたの?」僕の方から訊いた。
「小学校の校庭で倒れてた。九人」
父親が言った。
「…どうして?」
「分からない。警察が今調べてる。私たちも何が何だか分からないんだ。どうしてこんな事になったのか」
「ねえ、何があったの?」
ようやく母親が口を開く。「私たちはてっきりあんたもって…」
「僕は…この通りだよ。何も分からないし、何故そんなことが…」
それは半分本当で、半分は嘘だ。
「とにかくお前の具合が落ち着いたら警察が来ると思う」
父親は僕以上に打ちひしがれている様子で言った。無理もない。僕だってこんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ…。
翌日僕は看護師に新聞を見せてもらった。もちろん各紙紙面はこの一地方で起きた不可思議な事件をここぞとばかりに取り上げている。そして僕はその紙面で初めて事件の現場写真を見た。母校の校庭に再び広げられた青いビニールシート(以前よりずっと広い)。僕は今更ながらこの情景を子どもたちが一体どんな気持ちで眺めるのだろうかと想像する。そして同時に、遅かれ早かれ例の事件のことにも世間の脚光が当てられるのだろうと思う。何せその日はまさにちょうど十五年前のその日なのだから。
田所はどうしたんだ?僕の中で降って湧いたように当然過ぎる問いが思い浮かぶ。奴は今どこにいるんだ?試しに意識を飛ばしてみるが、そのフックが奴の存在にかかることはない。そればかりではない。僕はたまたまベッドから落ちたテレビのリモコンを拾おうとして、自分の「力」が綺麗さっぱり無くなっていることに気づく。仕方なく僕はあらゆる可能性を検討する。もちろん田所の消息は携帯電話一本で確かめることはできる。しかし僕は今、おいそれとそうするのは何か違う気がする。それが何なのかを手繰り寄せようとして僕は一人もがく(実際それは僕の手に余る)。
〝結果オーライ〟ではないのか。僕らは目的を果たした。きっちりとあの場にいた九人もの人間を死に追いやったのだ。良心の呵責?そんなものはない。そんなものはとっくの昔に闇の彼方へと預けてしまった。一方で僕は自分の中にある疑念に耳を澄ます。違う。これは正確には僕らがやったことではない。何かが…、何者かが僕らの前に介入したのだ。
「九人?」
僕の違和感は更に広がる。数は合っている。あの宴席に集まっていた中で僕を除いた数。しかし僕は改めてそこに何かそぐわないものを感じる。そして田所が元々僕に託そうとしていたことについて考える。そう、田所は自分さえも彼らと運命を共にしようと考えていたのだ。忌わしき記憶もろとも。そして僕はそれに一旦同意しておきながら…。
「澤田さん」
女性看護師の声が廊下からする。「警察の方が見えられてるんですが」
「分かりました。どうぞ」
僕はうつろな頭で応える。そしてドアが閉じた音の方を向くと、そこに例の女刑事が立っている。
「取調べ、ですか?」
僕は彼女に問う。進藤惠美。
「取調べ?そうね、それも後からお願いすると思います。でも今日は違う。あなたにお聞きしたいのはやはり前の事件のことよ」
「それは」僕は少し拍子抜けして応える。「以前にもうお答えしたと思いますが」
「いえ。あなたは私の質問に応えてはいない」
「人を殺したいと思ったことがあるかってことですか?そんな事あの事件と何の関係があるんですか?だいいち僕はあの頃まだ小学生だったんですよ」
「そう、あなた方は皆小学生だった。そして死んだのはその担任だった」
「何が言いたいのか…」
「邪魔されたくなかったわ。今のあなたなら分かるでしょう?」
「!」
僕は慄然(りつぜん)とする。ガランとした病室が僕の中で空転する。静寂が叫び声を上げる。
「田所君のことが心配?」
「知っているのか?」
「彼、今別のところにいるわ」
「警察?」
僕は結局彼との約束を果たせなかったことに失望しながらも一方で安心もする。
「違う。そんなところじゃない」進藤はするどく、それでいて笑いながら応える。「彼にはだいぶ警告したんだけどね。あなたには気をつけなさいって」
「…」
「仕方ないわ。彼には彼の思いがあったから。でもあなたはそれを密かに軌道修正しようとした。最後の最後でね。どうして?」
この女、一体どこまで知ってるんだ?「…同級生だから」
「被害者たちが?」
「違う」僕は言う。「田所には少なくとも手を汚して欲しくはなかった」
「だから敢えて身代わりを買って出た」
「それもある」
「私への当てつけ?それとも警察への挑戦状かしら」
僕はそれには応えない。「とにかく十五年前の件とは関係ありませんよ」
「そうかしら?」女刑事はそこで腕時計を見る。「まあ、いいわ。今日はお見舞いついでと云うことで、続きはまた追々ってことにしましょう」そして一旦踵(きびす)を返しかけてから言う。「彼、あなたに『よろしく』って言ってたわ。伝えたわよ。それだけ」
彼女の靴音がドアの向こうで虚しく遠ざかっていく。その音が僕の心を冷たく、固くノックする。僕はまるで世界の落とし穴に一人置き去りにされたかのように、乳白色の病室でただそれを見送るしかない。
進藤の言った通り、僕は退院後すぐに警察に呼ばれた。しかしそれは自宅前や仕事場周辺での煩わしさに較べれば何とも落ち着いたものだった。何せ僕が実行犯である可能性はほぼ皆無なのだから。しかし僕がこの事件で一番感じるのは、この情報の溢れた時代にもかかわらず本当に必要な情報は当事者にすら(いや、当事者だからこそ?)もたらされることはないと云うこと。ゆえに本人は自分が今どう云う状況に在るのかをさっぱり掴みかね、そして周りは同じ質問(大概見当違いの)を繰り返しながらもその実、本当の事には決して我が耳(こころ)を傾けようとはしないのだ。僕はむしろ警察関係者に同情する。たとえ今回のような解決も解釈もしようのない事件でさえ、彼らは何らかの答えを社会に提示しなければならないのだから(つまりオチとしての何かを)。
僕は思う。いっそのこと自分が殺人者である事実を皆に公表しようかと。そうすることで僕は昔の傷口をひっぺがすようにリアルな痛みを取り戻すことができる(痛み?)。そして自分が腑に落ちる程度のファンタジーを求めているに過ぎない皆にも何がしかの思いを伝えることができる。
止めておけ…。僕の中で闇からの声が響いてくる。本当の事になんて誰も興味はないのだ。そのくせ皆飽き飽きしている。現実なんて何の変わり映えもないと嘯(うそぶ)きながらも。だからこそ現実(それ)に擦り寄ったファンタジーに殊更心を時めかす。ひょっとして、自分の日常のすぐ隣にそれらは転がっているのではないか。いや、実際自分自身すらその一部ではないかと思いたがる。そう思って束の間、本当の「現実・日常・実際」から避難していたいのだ。自分の空虚さから必死に目を背けながら。
僕は改めて自分の存在の是非を考えながら、今は姿を見せない田所よりもあの進藤のことに思いを巡らせている。やはり彼女は個人的にあの十五年前の事件に関わっている。そして相田の事件を経由して僕の処にまで行き着いている。更に彼女は僕が知る以上に今回の事件(つまり田所)にも深く関わっているらしい。しかし何故?
僕は自分が今の今までそのことを知る由もなかったことに愕然としている。もしかして僕は最初から田所に裏切られていたのだろうか、利用されていたのだろうか。そしてそれは、彼の僕に対する復讐だったとは云えないだろうか。
僕は学習塾を辞めさせられることになった。その理由は言うまでもなく当たり障りのないものだったが、僕自身全く反論するつもりはなかった(心情的にはむしろ有難いくらい)。僕は自分のアパートと実家をフラフラと往復する日々を送りながら(時折マスコミに追いかけ回されることも)、かねてから考えていた通り田所の家を訪れることにした。
「はい…」
玄関に出てきた母親はこちらが思わず引くくらい暗い印象を漂わせている。
「息子さん、いらっしゃいますか?」
言ってみて僕は田所の下の名前が上手く出てこないことに気づく。
「いませんよ。あの子はもうこの家にはいません」
「どこかに出掛けられてるんですか?」
「死んだんです」
「え?」
「二年前に」母親は言う。「病気だったんです。可哀想な子でした」
「そんな…」
「同級生の方ですか、それとも?」
「はい、同じ小学校で」
「そう。今、大きな騒ぎになってますね」
「ええ」
この母親がどうやら僕の顔までは知らないことを密かに感謝する。そして促されるままに中に上がり、僕は奥の仏壇の前に座る。そこには確かに彼の顔写真が飾ってあった。
どう云うことだ?僕はその写真に虚しく語りかける。
じゃあ、僕が会って喋っていたお前は一体誰なんだ?そして僕にお前は何を頼もうとしていたんだ?
それでも写真の田所は、まさか自分がこんなにも早く死ぬなんて考えてもみなかった、と云うような顔で僕に微笑み返すだけだった。
少しずつだが事件の実際が僕にも分かってくるようになった。どうやら同級生たち九人は校庭に真っ逆さまに墜落した状態でそれぞれ倒れていたらしい(まさしく十五年前を彷彿(ほうふつ)とさせるように)。僕にも他の同級生からちらほらと連絡がくるようになった。そしてそれぞれがファンタジーでは割り切れないものを自分の中で持て余しているようだった。もちろんその中には幼馴染み、クラスメイト、そして元恋人を失った者も含まれていた(他に明らかにマスコミからの接触を窺わせる者も)。しかし、おそらく彼らも分かっている。いずれこの事件もやはり時間の波に飲まれ、記憶の断片として埋もれていくだろうことを。そしてそのことで自らの原罪が幾分かは軽減されるだろうことを。
だが本当はもう遅い。僕は一人自分の部屋の机に座り呟く。田所はすでに死んでしまった。彼は人知れず自分の思いを遂げてしまったのだ。おそらくそれは既に恨みとか云うものではない(むしろ業の辻褄合わせとでも云うべきだろうか)。普通そのようなものは当事者ですら気づかぬレベルで解決(?)されていくのだろうが、田所の場合、自分の責任の範疇で結果を出したかったのだろう。彼らしい実直さにおいて。
そう、僕らは似た者同志だった。だからこそ彼は僕の前に現れた。彼が僕に託したかったのは、この事件のもう一つの真相をそっと記憶しておくことだったのかも知れない。最後の友人(クラスメイト)として。
だとしたら、僕に残されているのはあの進藤刑事ともう一度会って全貌を見極めることだ。僕にはもう大体のところが推測できている。ただ一つ、彼女と田所の関係性を除いては。
僕はこの事件以来どこにも飛んでいない。もともと飛べる範囲もそう広いわけではないし(出不精のインドア派)、「力」を失った今、この世界では僕の居場所は既に失われてしまったような気すらする。ふと或る光景が思い浮かぶ。田所と最初に待ち合わせた、あのコンビニのイートインだ。僕はあの時一体誰と、何を話していたのだろう?
その時一瞬僕の身体が浮遊した。重力を見失い、そして光も音もない空間をすり抜けた。刻(とき)だけが僕の頬をわずかに撫ぜた。
「あ」
僕はまさに其処(そこ)にいた。そして手前から三つ離れた席では、進藤が座ってこちらを見ている。「こんばんは」
「こんばんは。お久し振りです」
「田所くん家、行った?」
「ええ、行きました」僕は自分が裸足であることに気づき、履物(くつ)を呼ぶ。そして彼女の一つ横に座る。
「びっくりしたでしょう?」
「ええ、まあ」
彼女はペットボトルから透明な液体を自分の喉に注ぎ込む。僕はその、彼女の落ち着き払った様子にだんだんイラついてくる。「どう云うことなんですか?」
「彼と会ったのはちょうど二年前。彼は勤めていた店で傷害事件を起こしていたの。私は刑事になったばかりで、おまけに女で大卒と云う理由から済し崩しにその事件を担当させられた。彼はもう見るからにぼろぼろだったわ。身体だけではなく、心もね」
僕はその様子を想像して、やり切れないながらも腑に落ちる。
「今回のことはどうやって?」
「いきなりそこ?あなたは私の質問には全然答えてくれなかったじゃない。随分勝手ね」
「もう粗方察しはついてるんでしょう?」僕は訊く。
すると相手はじっとこちらを見据える。
「あなたもね。でも肝心なことが分かっていない」
「だからここに来たんだ」
「覚えておくといいわ。相手からの質問にはすでに答えが含まれてるってこと」
夜のコンビニの中で、このイートインだけは心持ちライトが落とされている。僕は進藤のしっかりした横顔を見つめる。今夜の彼女は、今までとは違った緩やかなスカート姿だ。
「あなたの力を拝借したの。田所くんがそれを必要としたから」
「君は一体…」
「私もね、白昼夢をよく見るわ。私の場合、その人の影みたいなものだけど」
「じゃあ、君は田所の計画を?」
「私が引き継いだ。そして今回に関しては彼の存在そのものもね」
進藤はさらっと言った。
「つまり?」
「田所くんはすでにこの世の人ではない。でもその行き場のない念は残っている。時に風となり、時に水となり、様々に形を変えて。それは或る意味肉体よりも明確な姿で。私はそれに自分の身体を貸すのよ」
「何?」僕はおののく。「そんなことをして、君は」
「そうね。多分そう遠くない将来おかしくなるわね。助けてくれる人もいないし」
「それに、君は他人(ひと)の力も?」
「あなたの場合は苦労したわ。だから眠ってもらった」
「そんなことが…」そんなことがあり得るのか?
「あなたには感謝してるのよ。本当はこれで二度目」
「二度目?」
「そう。あなたは私を助けてくれたの。私はね、母親がいい加減な人だったから随分多くの大人の中で育ったの。良い人も、悪い人もいた。その中の一人が私の力を闇の奥から引き摺り出してしまったの」
「つまりそれが?」
「十五年前にあの校庭で死んでた男」
「じゃあ、君は」
「ま、一応義理の娘ってことになるかしら。籍は結局入れてなかったみたいだけど。母親はあいつが私に何してるか薄々気づいてたようだけど、棄てられたくない負い目もあったんでしょうね」
そう言うと進藤は、ちょうど田所と同じように視線を窓の外にやった。「私はいつかあいつと母親を殺すことを密かに狙っていた。まだ子どもだったしね。そして或る日、それは突然現実のものとなった。私はあなたたちより二つ下の学年。あの朝のことは今でもよく覚えているわ。まるでお祭り騒ぎみたいだった。家にも警察が来てね。母親は何日も取り調べられて、そのうちどっかに消えちゃったわ。おかげで私の生活は一変した、綺麗さっぱり。或る処の養女となり名字まで変わった。でも、その騒ぎがひと段落した頃私は自分の中に深い空洞を感じるようになったの。分かる?」
「空洞?」
「そう。だってそう思わない?子どもは子どもなりに覚悟を決めてその機会(チャンス)を狙ってたのよ。むしろ誰一人味方のいない中で、あいつらを殺すことだけが私の生きがいにまでなっていた」
進藤は手元のペットボトルを手に取り、握り潰した。「自分の幼さが疎(うと)ましかったわ。早く大人になりたいと思った。そしてその頃から私は時折白昼夢を見るようになったの」
「…」
「この世には行き場のない念がウヨウヨしてる。私にはそれがまるで空中に浮かぶ文様のように見えるの。人の姿をしてる時もあるし、靄のように定まった形を取らない場合だってある。でも私がそれらに耳を澄ます時、同時に彼らは教えてくれるの。その目的を達成する為に必要な、力の在処(ありか)を」
「じゃあ、その頃から君は僕のことを?」
「いいえ。私の目的(ターゲット)はすでに失われていたわ、むざむざとね」進藤は僕を見る。その目は闇に浮かぶ大きな黒真珠のようだ。「それにあなたは、まだ自分自身でその力に気づいてはいなかった。それ以来私は改めて機会を窺っていたのよ。あなたの力を必要とする影が現れるのを」
「それが田所だった?」
「結果的にそうなるかな。でもまさか本当にあんな事ができる人間がいるなんて信じられなかった。ヒントになったのは女性の遺体が山林で見つかった事件よ」
「なるほど」
僕はようやく合点(がてん)する。
「勘違いしないで。私はあなたに罪を問うつもりはないわ。刑事って仕事に自分の人生を賭けてるわけでもないしね。世の中にはそれよりもっと大事なことがあるわ」
「…どんな?」
「間違いを正すことよ」
進藤の言葉に迷いはなかった。「この世は間違いだらけ。そしてその間違いを生み出している人間に限ってそれを正そうとはしない。まあ、当然な事だけどね。だからあなたのような人間が必要なのよ」
僕は思わず周りを窺う。「ちょっと待ってくれよ。僕はそんなつもりはない。君だって分かるだろう。一つ事を起こせばそれがまた大きな波紋を生む。僕らが日常に足を浸(ひた)している以上、それは避けられないんだ」
「だから私はこの仕事を選んだのよ。大丈夫、あなたと私が組めばそんな騒ぎにはならない。それにね、私の経験から云ってトラブルを生む人間はトラブルが日常だから」
僕はそこで溜め息をつき、一旦会話を切る。少し一人になりたいと思う。目の前にいる女が本当に実在するのか、それすらも今の僕には怪しい。彼女の言うことが本当なら、彼女は僕の力を拝借して、僕と田所の同級生たちを奈落の底へと落としてしまったのだ。
「もちろん何でもかんでもできるわけではないわ。むしろもう取り返しがつかないことの方が多いかも。田所くんの事にしたってそう。でも、まだできることが残ってるなら、やってみるべきなんじゃない?」進藤は僕を見る。「現実を決めるのは自分よ。それだけ」
進藤はそう淡々と言い切ると席を立つ。僕にはそれにまともに応える間(ま)も、余裕すらも残されてはいない。
僕は再び自分のアパートへと戻った(飛んだ。自分でも呆気ないくらいに)。そしてこれからの事を考える。また新しい仕事を探さなければならない。大学の非常勤の話もあるにはあるが、今となってはそれも望み薄そうだ(何せ渦中の人間だから)。底知れず、何とも惨憺(さんたん)たる気持ちになる。
それにしても何なんだアイツは…。僕は独り事ちる。考えてみればあの女刑事こそが僕にとって一番の厄災(わざわい)ではないのか。だいいち目的がいまひとつ分からない。今回九人もの人間を殺しておきながら、あの女は一切それには触れない、問いもしない。まるで何の斟酌(しんしゃく)もないかのように。そんな人間にこれから近くを付き纏われる事自体、自分にとってこの上ない脅威に違いないのだ。
いや、待て。僕は混乱している。自分はまだアイツの本当の「力」を見極めていない。もしあの女の言うことが本当なら、アイツ自身影なる者らに操られている可能性だってある。そもそも念とは何だ?影とは何者だ?真っ先に思い浮かぶのは「亡霊」だ。僕は昔からその手のものには一切興味がない(もちろん信じない)。だが、人のやり場のない思いを念と呼ぶなら、それは多分当たらずとも遠からずではないか。アイツはそんな得体の知れないものと感応し、同化する。しかも普段は警察組織と云う治安行政の中に在りながら。
僕はハッとして部屋の空間を見渡す。何者かがこちらを窺っているような、そんな気配(ざわめき)がある。やがて再びそこに静寂(しじま)が沈殿していったあとで僕の中に或る思いが浮かび上がってくる。
それで…。僕は目を瞑る。
それで、田所の念(おもい)は昇華されたのだろうか?
ふとあのパチンコ店で会った若い女の目を思い出す。僕には自分と進藤の目的意識が重なり合うとはとても思えない。だがもしかして、僕が相田を手に掛けたのも本当はその念なるものが僕と云う存在を突き動かしたのだとしたら、進藤と僕のやり方は実はそう大差ないのかも知れない。そうとも思える。
どちらにしても業の深い話だ…。僕は久し振りに晴れた、遠くの空に浮かぶ雲を眺めながら、また新しい日常が始まったことにしばし打ちひしがれる。
この世の果て。
それは案外近くにあるのかも知れない。
( 了 )
『 間引く ~ この世の果て ~ 』 桂英太郎 @0348
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