見習いレディは見返したい
五条葵
突然の来客
カチャン、とイザベラの震える手がもつフォークが皿にぶつかり音を立てる、とすぐ後ろに控えていた濃い緑色のドレスを着た女性がギロリ、と彼女を睨みつけた。
「また音を立てましたねイザベラ嬢。これで何度目でしょう?」
「申し訳……ございません、フォーバルさん」
か細く謝る彼女に広いテーブルの奥にかけた豪奢なドレスの女性がため息をつく。
「謝罪など聞きたくありませんね。あなた、彼女の食事を下げて頂戴。イザベラ、本日の食事はおしまいよ。部屋にお戻りなさい」
「そんな……かしこまりました、奥様」
一旦抗議しかけ、しかしここで余計なことを言っては今度はムチが飛んでくる。そのことを思い出したイザベラは重いドレスによたつきながら、なんとか食堂をあとにした。
このロングシャー伯爵家にきて早一ヶ月、すでに食事をほとんど取らずに食堂を後にしたのは何度目か。むしろ最後まで食事をできた日の方が少ないかもしれない。涙が頬を伝うのを感じつつ、彼女はひと月前のことを思いだして重い吐息を吐いた。
イザベラ・フローリーは天涯孤独の身だとずっと思っていた。父は誰だか分からず、仕立て職人だった母は彼女がまだ幼い頃に病で儚くなった。母はその出自に対して高価な宝飾品をいくつか持っており、
「昔、恋人にもらった」
と話していたことから、自分の父がある程度の身分の持ち主なのでは? という推測はできたが、そういった推測が出来るようになる頃にはすでに母はこの世にいなかった。
身近に親戚もいなかったものの、幸い母は生前よく通っていたセント・キュイーズ教会にイザベラの面倒を見てくれるよう頼んでくれていた。そのおかげで彼女は、教会が運営する孤児院に世話になることになり、時折寂しさを感じつつも、多くの職員や友人に囲まれて育つことができた。
そんな平和な日々が突如崩れたのは、彼女がもうすぐ18となり孤児院を出ようか、というある日である。
「ロングシャー伯爵夫妻があなたのことを訪ねていらっしゃってます! あなた、何をしたのですか?」
普段は院の子どもたちが、どんな悪戯をしようとも落ち着き払っている院長。そんな彼女が血相を変えて、あれほど走るなと話していた院内の廊下を疾走してイザベラの元へやってきた。
もちろんそう言われても、イザベラにはとんと心当たりがない。ロングシャー伯爵、と言う名前は知っていても貴族など遠い遠い世界だ。
なぜ自分を訪ねて来たのか? わからないままに彼女は応接室へ急いだ。
「なるほど、あなたがイザベラ・フローリーか」
「そして母はリシェル、で間違いないわね」
頭の先からつま先まで、値踏みするように巡る夫妻の視線を感じつつ、イザベラは
「はい、そのとおりにございます」
といって、頭を下げる。そんな彼女の耳に次に降ってきたのは予想もしていない言葉だった。
「簡潔に言いましょう。イザベラ・フローリー。あなたは私の夫が18年前に我が家に出入りしていた針子、リシェル・フローリーと関係を持って産ませた子供です。そして今日私達は、あなたを正式に我が伯爵家の娘として迎えるためにここに来たのです」
「わ、私が……伯爵の娘……にございますか?」
「ええ、そうですよ。何か不満でも?」
驚きを隠せないイザベラに対し、夫人はやや不満そうに手にした扇を振って見せた。
「いえ不満など、しかし……なぜ急に私のことをお迎えに?」
パチリ!
と夫人が扇を閉じる音が静かな部屋に響いた。
「おだまりなさい、余計な詮索は上流の世界では怪我の元。とは言え……せっかくですし教えてあげましょう。どうせすぐ知ることになるのですから。あなたにはロングシャー伯爵令嬢としてマイルウェル侯爵家の跡取り、エドワード殿に嫁いで貰う予定なのですよ」
「侯爵家の跡取りですか! そんな!?」
「おだまりなさい、騒々しい」
今日まで庶民だった自分には荷が重すぎる、という言葉は夫人の厳しい声にかき消える。彼女がイザベラをにらみつける厳しい視線にイザベラはうつむいた。
「お言葉にございますが、伯爵夫人……」
「なんですか院長、発言を許可した覚えはありませんが……良いでしょう」
次の言葉を紡げなくなったイザベラに変わり、ここまでイザベラの少し後ろで見守っていた院長が口を開く。彼女もまた伯爵夫人の厳しい視線と声に少し怯むが、それでも言葉を続けた。
「イザベラは生まれてからずっと平民として暮らしており、持ち合わせている教養も一般的なものだけです。とても貴族のご令息に嫁入りできるとは」
イザベラが言いたかったことを代弁する院長。伯爵夫人の鋭い視線にも負けない彼女に、イザベラは院長の方に視線を向けて軽く頭を下げる。一方院長は安心させるように微笑んでくれた。その笑顔にイザベラはホッとしたような心地になるが、それをかき消すように硬質な声がまたも降り注いだ。
「聞いたところではこの孤児院は教育にも力を入れているとか? イザベラも基本的な読み書きは出来るのでしょう? 使用人を目指していた、と聞きますから礼儀作法も多少は習っているはず」
「はい……多少にはございますが」
「でしたら問題ありません。私達がイザベラを貴族令嬢として見れるよう徹底的に教育しましょう。すでに教師の手配も済んでおります。ねぇ、旦那様?」
「あ、あぁ、すでに手配している」
徹底的、を強調した言葉にイザベラは嫌な予感を覚えつつ、なんとか顔を上げて、夫人と視線を合わせる。一方彼女は隣の夫の答えに満足したように頷くと、古い調度品に囲まれた応接室を見回した。
「ところで院長?」
「はい、伯爵夫人」
「こちらの教会、それに孤児院も随分歴史があるそうですね。故に支援者もそれなりに多いとは」
「はい、ありがたいことに、皆様も支えで滞りなく運営させて頂いております」
「しかし古いが故に修繕が必要な箇所も多く、常に予算はかつかつだとか……まあこの部屋を見ればわかりますが……」
イザベラ達がいる応接室は、貴族も応対することから院内では最も良い調度が置かれている。それでも壁は色褪せてきており、他にも修繕が行き届いてない箇所があちこちに見られた。
「お恥ずかしい限りで……」
「まあ、仕方ないでしょう。それでご提案です。イザベラが無事嫁いだ暁には、私達としてもここは娘の生家のようなものですから、まとまった寄付をーーこの教会にとっては願ってもないことでしょう」
「……ありがたいお心遣いにございます」
確かに古い教会にとって、通常の寄付と別口のまとまった寄付など嬉しい限りだが、夫人の口ぶりに含みを感じた院長は、訝しげに感謝を口にする。
そして院長の懸念は当たっていた。
夫人は院長とイザベラを見回し、そしてニヤリと笑う。
「ただ、もしイザベラを我々にいただけない、とおっしゃるのであれば、毎年行っている多額の寄付については考え直す必要があります。我々はこの王都の上流の世界でも力を持っていますからね。そんな我々が働きかければ、他の方々がどういった動きをするか……わかりますね」
「そんな! 卑怯ですーー」
寄付をやめ、他の支援者にも圧力をかける、と脅す夫人に悲鳴のような声を上げるイザベラ。しかし彼女の肩にそっと手がかかり、彼女が後ろを見ると、院長に視線で押し止められる。そして院長は努めて冷静な顔を作って夫人と対峙した。
「それは困りますが、しかし孤児院を運営する者として子どもたちの幸せを願うのもまた義務。イザベラが嫌がるようなら無理強いはできませんね」
そう言ってイザベラに穏やかに微笑む院長。とはいえ、彼女はイザベラ以外にも大勢の子どもたちを預かっている。そのことを理解しているイザベラは、覚悟を決めるように前を向いた。
「わかりました! 伯爵、伯爵夫人。そのお話謹んでお受けしたいと思います。至らないとは思いますがどうぞお願いします」
「イザベラ! 本当に良いのですか?」
その言葉に伯爵夫婦は満足げにうなずき、一方院長は慌てたように彼女に叫ぶ。
「もともともうすぐここを出る予定でしたもの。本当はどこかのお家で奉公できれば、と思っていたのが貴族の奥様になれるなんて、夢物語ですわ。問題ありません、私の選択です」
「ええ、院長。彼女は貴族夫人となるのです。この下町に埋もれているより、ずっと素晴らしい未来が待っていることでしょう」
その言葉と裏腹に二人を見下すような表情で言う夫人に、院長は引きつった表情を見せる。しかしイザベラは院長の方を向いて力強く頷いてみせた。
「かしこまりました、伯爵、伯爵夫人。それではイザベラをよろしくお願いします。イザベラ、教会の門はいつも開いてますからね、辛くなったらいつでもおいでなさい」
「ありがとうございます、院長。それにここまで育てて頂いて感謝してますわ」
貴族令嬢や夫人となれば、そうやすやすとここに来ることもできないし、逃げ出すこともできない。分かっていてもそう言ってくれる院長に心が暖かくなり、笑顔を向けるイザベラ。しかしそんな彼女にまた冷たい声が降った。
「では決まりですね。それではイザベラ早速荷造りをして、我が家に帰りますよ」
「きょ、今日にございますか、そんな!」
友人たちとも、院の先生たちとも別れを惜しみたい、という言葉は厳しい視線に遮られる。
「何か問題でも? そもそも荷造りするほどの荷物などないでしょう。まあ、別れくらいは言いたいでしょうから1時間待ちましょう。さあ早く!」
有無を居合わさぬ夫人の言葉にこれ以上の反論をやめたイザベラは、伯爵夫妻にさっと礼を取ると踵を返して孤児院の自室へと早足で向かった。
そうして別れを惜しむには、あまりにも短い時間で孤児院のみんなに別れの挨拶をしたイザベラ。彼女はきっかり1時間後には伯爵夫人と共に馬車に乗り、そして王都の邸宅街にあるロングシャー伯爵邸に向かったのだった。
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