ジグザグの道をゆけ

「今日はこっちから帰ろう」

曲がり角に差し掛かるや否や、鳴子さんが目の前に躍り出て右の横道を指差した。

普段はもっと先まで進んでから右折する。

通ったことのない道の方を見てみるが、これといって特筆すべきものはない。

家が並び、電柱が生え、奥は T 字路。

ちょっと傾斜がある土地なので、ゆったりとした坂道になっている。


だからどうってこともないので、特に反対する理由はなく、私は頷いた。

妙に満足気な顔をした鳴子さんの後を追い、歩き出す。


コンビニ帰りの袋が揺れて擦れる音、寒空を経由して降り注ぐ車の排気音。

彩度の低い青空に鳴子さんの身長が映える。


髪が肩にかかるくらいになってきたから、そろそろ短くするんだろうな。


***


「どっか寄ってくの?」

「いや、別に」

鳴子さんが振り向いて答える。

「いつもと違う道を通って帰る。それだけ」

そしてちょっとニヤつく。

「うん?」


鳴子さんは歩くスピードを下げて、後ろにいた私の横に並ぶ。

「視界の端に映る建物のどれも見覚えがない時ってさ、浮くよね、自分が」

「浮く?」

「う~ん、やっぱり言葉にするとちょっと違うかも。両腕がちょっとザワつく?旅行先でさ、繁華街じゃない、ただの住宅街を歩いている時みたいな感覚、アレに近い」


過去の旅行を振り返り、その感覚を探ってみようとする。

最近はあまり遠出をしていないし、印象に残っているものを思い出そうとすると学生時代の修学旅行や卒業旅行になってしまう。

ずいぶん昔のことでもう忘れてしまっているのもあるんだろうけど、鳴子さんの語ったような状況になった記憶は引っ張り出せなかった。

大抵は観光地で人が賑わっているし、迷ったりしても誰かと一緒に戻る道を探すことで頭がいっぱい。

「一人旅じゃないと起こりにくいのかな」

「あぁそっかぁ。誰かといたらそっちに意識が向くかぁ」

「それは……人によると思うよ」


***


T 字路に突き当たり、左折。

道は少し細くなり、緩やかなカーブ。


鳴子さんは空を掴むように両手の指に力を込めて、切実な声をマスクの奥から漏らしている。

「毎日毎日同じ風景でさ、コンビニと家の往復を繰り返す動作がどんどんとルーチン化して何も考えなくなってて、全部自分の内側になっちゃって、なんか終いには自我が消えるんじゃないかって恐怖をずっと感じてたんだよ」

目を見開き、僅かに残った理性が抑え込んでいるかの如き音量で鳴子さんはか細く叫ぶ。

「目に映るすべてのものに新鮮味がない。時間帯の違いも季節の違いもコンプリート済み。効率化されて華を失った日常にほんの少しでもいいから刺激が欲しい……!」

そして、しばらくの間少し荒めの呼吸をした後、これまでの挙動に飽きたかのように背筋を伸ばし、口を開く。

「そんな悩みが頭の中に詰め込まれて膨らんでいたある日、ふと思い立ったんだ。今日はこっちの道行っちゃおって」


十字路、次は右折。

いつもは一回曲がるだけの帰り道をジグザグに何度も折れ曲がり進んでいく。

ふと、自分の置かれたこの状況に妙な既視感を覚え、鳴子さんの言葉を話半分に聞きながらその正体を探る。

旅の記憶を遡ってもそれらしいものはなかったけど、高校生の時の修学旅行を振り返った拍子に唐突にピンと来た。

「あ、あれだ」

「ん?どれ?」

私の視線の先を鳴子さんも眺める。

「や、ごめん、何かあったんじゃなくて、あれだなって。数学でやった最短経路問題」

私は右手と左手で作った長方形を鳴子さんに向ける。

「あぁ、格子の」

「うん、何パターンあるか数えろとかそんなの。今の私達それを自分の足でやらされてるみたい」

「となると、もう少し猶予があるかもしれない……」

鳴子さんはそう言って、意味ありげな表情で考え込んでいる。猶予ってなんのことだと思ったけど次の言葉はなかなか出てこない。


思考に耽っているのを放っておいてもいいけど、とりあえず脱線した話を元に戻してあげよう。

「ねぇ、こっちの道行っちゃおうと思って、それでどうなったの」

「そしたら景色が新鮮で楽しかった」

急に話を戻しても、鳴子さんはすぐに対応してくれる。

本人曰く、普段から思考が散らばっているのでどこにあるかはすぐわかる、部屋と同じ、とのことだ。

「気持ちよかった」

「うん」

「いいなって思った」

「うん」

「終わり」

さっきまでは感情のままに勢い任せで言葉を紡いでいたようで、ちょっと時間が空いたら熱が引いて気分は落ち着いてしまったようだ。


次の分岐はちょっと偏ったX字。

歩いてきた距離を考えると、ここで左側に進めばいつもの道に合流するのだろう。


歩を進めながら、鳴子さんがふぅと大きく息を吐く。

「いつものルーチンから外れた行動をするのってすごい抵抗があってさ」

「帰り道も?」

「うん。なんか、怖いってわけじゃないんだけど、失敗しそう?無駄になりそう?警戒されそう?そんな感じで強張っちゃうんだよね。で、結局いつもと同じ道にする」

再び大きな溜息。

「帰り道なら実際いつもの方が最短だったりするんじゃない?」

「まぁ、そうかもね。地図見たらわかるかな……」

そして、腰ポケットのスマホを取り出そうする仕草をちょっとだけして止めた。

「結局そういう帰り道の距離とか時間くらいでそんな気分になる時点でだいぶ疲れてんのかなって」

「いや、見ただけでわかるよ、疲れ具合」

疲労の自覚はあっても、それがどの程度か自分ではわからないものだ。

鳴子さんがぐい、と首をこちらに向けた。

「そのどん詰まりの状況からついに一歩踏み出しという意味でね、違う道を選んで帰ることにしたっていうのは、最近の出来事ではかなりのターニングポイントなんだ。わかるかな?この解放感」

どう?と顔を近づけてくる。

私は肩をすくめて返事代わりにした。


***


馴染みのないデザインのブロック塀に挟まれた細い道。

左右どちらの建物も見覚えのないデザインで、確かにちょっとよそよそしさの混じった空気を感じてはいた。

そうやって歩いていれば、目の前には見知った柵と道路標識が現れる。


道が合流し、右折。

そして、目の前には鳴子さんの部屋があるマンションが聳え立つ。

それを目にした瞬間になぜか胃の奥が温かくなり、妙な安心感がやってきた。


多分、この帰り道の間、私はずっと緊張していたのだ。

未知の場所から既知の場所に戻ってきて、ようやくそれを自覚した。

慣れてきたとはいえ、きっとこの町自体が私にとってはまだ外側なのだ。何度も通った道だろうと鳴子さんの部屋以外の場所では自分の異物感を拭えてなくて、ましてや知らない道に入ればその感覚は一層増していく。

鳴子さんの感覚とは反対に、ここで私は緊張からの解放を味わったというわけだ。


「なんかね、わかるようでわからないって感じ」

ぽつんと呟いて、多分鳴子さんの耳にも届いたけれど、返事はない。


ジグザグの帰路はマンション入口に向かう左折で終わりを迎えた。


***


カップスープにお湯を入れた後の待ち時間、手持ち無沙汰になったので、鳴子さんに聞きそびれたことを尋ねてみる。

「さっき言ってた猶予ってなんのこと?」

「んん?あー……ゆうよ……」

鳴子さんは向かいに座ってぼんやりとスマホを眺めていた。その状態から意識を戻すのに時間がかかっているようだ。

「あれね、違う道で帰るの刺激あっていいんだけどさ、それに慣れちゃうんだろうなって怖さも同時に生まれてるわけ」

鳴子さんは言葉を続けながらスマホを操作する。

「変わり映えのない日常という泥沼から抜け出したと思ったら、足元はまたすぐに沈み始めている恐ろしさといったら」

「そんなに深刻な話だったっけ?」

「でもね、家までのルートが何パターンかあるのならその数だけ逃げ続けられるって気付いたんだ、格子の話で。なんなら少しくらい遠回りになってもいい……!」

解放感がどうこう言っていたのに、いつの間にかだいぶ後ろ向きな話になっている気がする。

「つまり、私にはまだこれだけの道ストックがあるんだよ」

鳴子さんはスマホの画面をこちらに向けてきた。

地図アプリが開かれていて、さっき歩いていた道に線が引かれている。この辺りは整然とした土地ではないが、脇道の類は多いらしく、確かにいろんなルートを試していればしばらく飽きはしなさそうだ。


「でも一ヶ月もあればどの道も通っちゃいそうだね」

「可能な限りの組み合わせを色々試す……?」

「いちいち覚えてられなくない?」

「ぐぅ……」

少し意地悪だったかもしれない。


「終わっちゃったらどうすりゃいいんだろ……」

「引っ越せばいいんじゃない?」

「うぅん……身も蓋もない」

「なに?家を変えるっていうのも抵抗ある感じ?」

「普通に面倒……荷造りとか」

「グッズとかぬいぐるみとか無造作に買うからだよ」

鳴子さんは何かを言いたげな顔をこちらに向けはしたが、口をパクパクと動かしただけで、返事をすることなくそのまま椅子に深く沈んでいった。


タイマーが鳴り、カップスープの完成が告げられた。

這い上がってきた鳴子さんと共に食事を始める。

熱いスープが胃に流れ込み、身体全体を温めていく。

カップスープの熱が冷えたままの両手にじんわりと伝わっていくのが気持ちいい。

ふと向こうに目をやると、鳴子さんも同じように両手でカップを抱えて暖を取っている。

ゆらゆらと揺れる湯気を縫うように視線が合った。


どうしてかそれがなんだか可笑しくて、二人してくすりと笑った。

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