水仙
@Laplace_256
パート1: 「朝の市場」
築地の市場は、まだ夜の影を引きずっていた。冷えた闇の中で、銀色の照明が魚の鱗を照らし出し、波打つような光の反射が天井近くで揺れていた。市場全体がひしめく労働の息遣いに満ちており、無数の足音、鋭い掛け声、台車の軋む音が、ひとつの巨大な楽器のように響き合っていた。
高雄の歩調は、その喧騒とは異なる、静かな規則性を持っていた。革靴が濡れたアスファルトを踏みしめる音は、ほとんど聞こえないほどだったが、彼自身の体内時計に合わせたその歩みは、外界の混乱をまるで切り離すかのような秩序をまとっていた。
「高雄さん、今日の鯛はいいですよ。」
魚屋の主人が声を掛ける。黄色いゴム手袋をはめた手で、まだ生きているかのように鮮やかに光る鯛を持ち上げた。
高雄は静かにその鯛に目を走らせた。魚の腹に貼り付いた氷の粒が、太陽の光を弾くかのように微かに煌めいていた。その目はまだ死んでいないように見えたが、そこには奇妙な静寂が宿っている。
「これを三尾。」
高雄の声は低く、短かった。その声には何の躊躇もなかったが、それ以上に無駄がなかった。魚屋は頷き、素早く鯛を新聞紙に包みながら、続けざまに話しかけた。
「さすが高雄さん、いつもきっちりしてますねえ。」
笑いを含んだ声が、会話以上に馴れ馴れしく響いた。
「むしろ自分でも息苦しいですよ。ほら、気を抜くと死ぬタイプなんで。」
冷静な声でそう答えた高雄は、包みを受け取り、再び歩き出した。
市場の出口に差し掛かると、冷たい風が彼の頬を掠めた。夜明け間近の空は、まだ墨を溶かしたように暗く、無数の電線が蜘蛛の巣のように縦横に交差している。その向こうには、都会の鋼鉄の塔が遠くそびえ、微かに朝日の光を帯び始めていた。
鯛を抱えた彼の腕には、包みの冷たさが染み込んでいる。だがその冷たさは、彼の表情には何の影響も与えないかのようだった。
高雄は歩き続けた。その先には、彼の作り上げた隠れ家、「
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