おでん

桜人 心都悩

おでん

出汁を吸い込んだフワフワのはんぺん。口に含めると魚の甘みと共に舌に溶けていく。昔は苦手だった餅巾着。ねっとりと米が塩味を連れてくる。素朴な味。懐かしい味。巾着は噛めば噛むほどスープが湧き出る。店員さんオススメの厚揚げはどの具材よりもあったかい。嚙み切った時の湯気で眼鏡が曇る。出汁の中に浸み込んだ鰹節が、寒く冷え切った手の中で踊っている。〆の大根は維管束にまで優しさが詰まっている。箸で持った瞬間にじゅわっと広がる昆布の香り。一人分のおでんカップに入った、世界中の優しさが、私の、明日を生きる理由になる。


 予備校の隣にあるコンビニエンスストア。そこの店長が苦手だった。何のことは無い、ただのオジサンなのだけれども、苦手だった。


『予備校の隣のコンビニで待ってて』


 迎えに来てくれる母から、そうラインが届いた。これはコンビニで何かを買っていい、という合図である。気に入っているグミキャンディーとレモンティーをカゴに入れてしばらくの間財布と店内を見比べた後にレジへと向かう。そこに私の苦手なおじさん店長がいて


「肉まん、二十円引きです。いかがですか~」


 と宣伝し始めるのだ。そんなことを言われてしまっては、断るに断れない。


「あぁ、じゃあ、一つ、肉まんください」


 と言っているのである。肉まんを購入すると、財布の中身はあと二十六円しか残っていない。


「今日も頑張ったのかな、お疲れ様」


 そう言いながら店長は肉まんを素早く包んだ。もうすっかり顔を覚えられている。うんともすんとも返さず、軽い会釈をして商品を受け取る。


コンビニの目の前でいつも食べているのだから、丁寧に梱包して、テープ付けなくてもいいのに、と横目で店長を睨んだ。ほかほかの饅を口に含みながら、こうやって無駄金を搾取されていくんだと憎らしくなってくる。旨味を吸った肉汁が口の端から零れそうになる。舌の真ん中位に大きな肉の塊が乗った。ぷりぷりとした野菜と肉が混ざって、甘い饅と、少し物足りないと感じる塩加減である。この物足りなさがきっと何個でも買いたくなってしまう理由なのかもしれない。


 コンビニ前のよくわからない柵に腰を掛けながら、白いプリウスがくるのを待つ。寒さで指が冷たくなるので、肉まんで温めながら。食べ終わってしまうと、手が冷たくなっていくので、チマチマと肉まんを食べている。


 丁度目の前を車が止まった。フロントガラスから薄着の母が見える。助手席のドアを開けると、腕を前で組みながら、


「寒い、さむい、早く入っちゃって」


 と言いながら、暖房のボタンを押した。車内では米津玄師の爱丽丝が掛かっている。


「あれ、肉まん買ったの」


「なんか断り切れなくって」


「そんなもの買ってるからすぐお小遣いなくなるのよ。次、何かねだられてもお小遣い追加は無いからね」


 母は笑っていた。そう言いながら私が買ったグミに手を伸ばしているのだから不思議なものだ。必要なくなった手袋代わりの、残り半分の肉まんを口に放り込む。


 家の近くは段々と開発が進んでいるようで、近頃はドラッグストアがリニューアルオープンするらしい。工事の影響で、自宅に帰るまでの道が交互通行になり、ガソリン代が高くなっていることだろう。母は車内で聞ける曲が一、二曲増えたのだとポジティブに捉えていた。


「ああ、あそこにコンビニができるんだね」


 窓の向こうで警備員が赤色灯を振っている。どこのコンビニエンスストアにもある、見覚えしかない四角い看板が取り付けられている。


「ここの工事が終われば、もう車で予備校まで送り迎えする必要ないのにね。早く終わらないかしら」


 母はもう一つグミを口に放り込んだ。


「そういえば模試の結果どうだったの」


 母はなかなか進まない前の渋滞を見ながら聞いてきた。ずうと向こうの信号は赤だ。しぶしぶと模試の結果評を母に見せる。母は口を尖らせていた。


「もうすぐ三年生になるんだよ、油断してるとどこの高校にも受からないからね」


 この時間は私にとってすごく苦手だった。せめて家でこの紙を出せたなら、私は自分の部屋へ一目散に逃げてこの小言を聞かずに済んだだろう。車内は逃げ場がない。シートベルトが存在感を放つ。母はハンドルを握った手が強くなっているようだった。


「なりたいものに、なりたいと思った時に、その選択肢を失わないための勉強なんだからね」


「うん」


 自分がどんな大人になるかなんてわからない。母みたいに誰かと結婚して、主婦になって、ちょっとしたパートをしながら家族を育てていくなら、学歴なんて必要ない気もする。けれど中学生にもなって、周りが色恋づく中、恋人の一人もいない私に、主婦になるという選択肢があるのかもわからない。子どもが出来ても、母や父のように育てられる自信もない。一人で生きていくべきだから、勉強をしておくべきなんだろう。私も、一人で生きていたいと思うのに、誰かがいないと寂しいなんて矛盾した感情を抱いている。頭の中では言葉にできるのに、誰かに伝えようとしても、下手な自己顕示欲が邪魔をして言葉にならない。


「何になりたいのか、貴方は言ってくれないからわからないけどさ。応援してあげたいとは思ってるんだから」


 ここで、もしも私が、なりたいものがわからないというのは我儘だろうか。何になるのか、何になりたいのか、何になるべきなのか、迷う選択肢ばかり魅せられて、選ぶには制限時間があって、吟味するための時間をくれはしない。もう少し悩ませてほしいと思うのは、我儘だろうか。


 私は一つ溜息をつくしかなかった。


 それからしばらくして、近所の工事が粗方終わった。まだ新店舗の開店準備にトラックやワゴン車が往復してはいるものの、以前ほど渋滞は無くなった。家の近所にコンビニが出来た。予備校の隣のコンビニは滅多に行かなくなった。


「来週から冬期講習だからね、遅刻せずに行ってよ」


 母の教育熱心も相変わらず。私の成績も相変わらずの可もなく不可もなくを繰り返していた。もっとも普通だと思っているのは私だけなのかもしれない。日増しに周りの家族も、予備校の友達も、焦っているようで、なんだか置いて行かれたような疎外感がある。


 暖房の利いた自習室は居心地が悪い。隣に座れず、一つ飛ばしの席に座って縄張り争いをしている。食事はダメだが、飲み物なら問題ない。けれど飲み物を飲むのでさえも、誰かが私を見ている緊張感がある。机の上に手を付けもしないのに積み上げられた問題集、自主学習ではなく、課題をやっていることを隠すような猫背。皆同じ格好をしている。きっとこの部屋の一番前から、スマホで写真を撮ったなら、みんな同じ姿勢で同じ顔をしているに違いない。その中の一人に私も含まれている。


 不思議な気持ちだ。少なくとも今の私には言い表せない気持ちだ。皆と同じ姿勢で、同じ顔をして、同じ成績をとって、同じでいたい。けれどこの自習室でスマホを取り出して、みんなの集中と静寂を掻き消して、注目を浴びてみたい気持ちもある。これが自虐的な感情であるともわかっている。狭い、暖房の利いた自習室で、そんな葛藤を何でもないように見せかけながら誰も彼も勉強するふりをしている。なんて滑稽で無意味なことをしているんだろうという怒りもある。


 一つ、あくびを漏らす。隣の男子生徒がじっと私を見ていた。積み上げられた問題集の防壁の向こうから、今や今やと攻撃するタイミングを見計らっているみたいだ。怠けるなら出ていけと怒りの目線が物語っている。この部屋が暖かくて、人が密集しているから二酸化炭素濃度が高くて、などとついさっき勉強したばかりの言い訳を並べつつ、荷物をまとめ始めた。


 予備校の外に出ると、からりと空気が澄んでいる。冬期講習が始まるまで、あと三十分もある。一度抜け出してしまった自習室に、もう一度入る勇気はなかった。


 財布を確認する。所持金が七百八十四円。丁度水筒の中身が無くなったから、飲み物を買いに行けばいいだろう。久々のコンビニに足を向けた。


 コンビニの外からレジを除く。今日はおじさん店長はいなそうだった。冬期講習前ともあって、まだ、コンビニの中はがらりとしている。冷蔵庫から百五十二円のジュースを取り出す。特に要はないが、二百五十二円のグミキャンディーをカゴにいれた。これでお財布の残りは三百八十円。


 カゴをレジに持っていくと、レジには先ほどまでの店員の姿はなく、おじさん店長がいた。時計を見ると十一時。さっきの店員は休憩に行ってしまったのかと心の中で舌打ちをする。ぱたりと来なくなった気まずさがあって、おじさん店長の顔を見ることは出来なかった。目線を逸らした先に、出汁につかったおでんがある。プカプカ浮かぶ白いはんぺん。大根も、餅巾着も、皆汁につかっているのに、あれはきっと私だろう。


 淡々と会計が進んでいき、金額が表示される。店内照明がおじさん店員の眼鏡に当たって白くなっている。ふと唐突に、私もいつかこうなるのかな、と頭によぎった。このおじさんはアルバイトだろうか、正社員だろうか、雇われ店長なのか、疑問に思った。高校生になったら私もアルバイトをするだろう。その時の上司はこんな人なのかもしれないと感じた。


「ありがとうございました。またお越しくださいませ」


 おじさん店長がそう大きな声を出す。特に声も出さず、また軽い会釈をした。


 授業が始まるので、決められた教室に向かう。先ほどまで自習室にいた彼らは、あっと言う間に移動したようで、遅れて入ったその教室には冷ややかな空気が漂う。ちらりと入り口を見る目が、一瞬間通り過ぎる沈黙が、始業ぎりぎりにやってくる怠け者を諫めてくる。ここでも彼らは陣取り合戦をしていて、長机の端と端に座っているので、私が座れる場所はない。座るためには、誰かに席を移動してもらうか、通してくださいとお願いするしかない。受験が近づいて、自分の成績があがることと相手が勝手に怠けていくことを願う受験生たちだ。着席のために隙を見せる行為は癪に障る。


 閉めたはずの扉から冷気が入り込む。


「どうしたんだ、すぐに席に座りなさい」


 大量のプリントを片手に持つ先生が後ろに立っていた。身長が高いのもあって、眼光がより鋭く、見つめてくる。この時期に苛立っているのは受験生だけではないらしい。目を見ていられなくて、視線を落とすと、右足がリズムを刻んでいる。無言を貫いていると、段々と早くなっていく。息を吸う声が聞こえた。先生の着ているスーツが上下した。そうして一つ溜息をついた。


「すみません、今日は体調が悪いので、いったんトイレに行ってきます」


 先生が許可するよりも早く、先生と扉の隙間を縫って外に飛び出していた。別に体調が悪いわけでもないけれど、お腹に左腕を当てる。右手で口をふさいだ。後ろから、何か呼び止める声が聞こえたけど、振り向かずに外に出た。トイレに行くと言ったのに、トイレを通り過ぎて、塾の玄関から外に出る。受付のお姉さんが驚いたようにこちらを見ていた。呼び止められはしなかった。あのお姉さんは私が授業を飛び出してきたことを知らない。私が、何年生で、どのクラスを受けるべき生徒なのか知らない。今日は広く感じる駐車場を走り抜けた。からりとした空気が、喉を痛めていく。乾いて、痒くなって、痛みに耐えながら唾液を飲み込む。


 行き場所がなく、私が受けるはずだった授業の教室の窓を眺めた。○○大、〇名合格。××高校、×名合格。宣伝された文字の奥に、無表情の受験生がいる。ゆっくりと後ずさりをしながら、足はコンビニに向かっていた。向かう途中で、母に電話を掛ける。長い着信音の後、拒否された。留守電に一言だけ怒りを込める。


『体調悪い、帰りたい』


 母がこの留守電を聞いてくれるのはいつになるだろう。それ以上指を動かす気にもなれなくて、メッセージを送ることは出来なかった。おもむろに財布を開いて、金額を確認する。三百八十円。コンビニの駐車場について看板を眺める。透明なガラスの向こうに、にっこり笑ったおじさん店長が映る。彼はこちらに気が付くと驚いた顔をした。その表情に引き寄せられてコンビニの扉を跨ぐ。聞きなれた入店音が響く。その足で、店内を見て回る。店内に誰かしら居る間は、あのおじさん店長はレジから動かない。お菓子コーナーに、これから並べるお菓子の段ボールが積まれていてもレジにいる。さっき買った飲み物はまだ残っている。買うものは特にない。


「おでん、いかがですか~」


 おじさん店長が大きな声を出した。何も買うものがない私は導かれるようにレジに向かった。


「割引しますよ、おでん、いかがですか」


「じゃあ、大根と餅巾着ください」


「厚揚げはいかがですか、出汁が滲みていて美味しいですよ」


「じゃあそれもください」


 おじさん店長はそういいながら出汁の上に浮かぶはんぺんをどけた。はんぺんの下にあった餅巾着をトングで挟む。器に餅巾着をいれると、またはんぺんをどけて今度は厚揚げをつまんだ。それを見て泣きそうになってしまった。


「はんぺんはいらないですか?」


 店長は小首をかしげていた。私の顔を覗き込むような姿勢だ。


「はんぺん、浮かんでるし味滲みてないんじゃないですか」


「そんなことないですよ。確かに一番最後に入れますけど、出汁であっためられて、魚のうまみもあって、美味しいです」


 店長はにっこり笑った。そして、何も言っていないが器にはんぺんを入れた。


「おまけします。何かあったんでしょう。さっきもはんぺんを見てましたよね」


 そう言いながらレジを打った。三百六十円の文字が表示された。はんぺんのお金は入っていない。


「出汁の上で浮かんじゃうのに、おでんの一員なの、ふしぎですよね。はんぺんって」


 ぽつりと呟いてしまった。店長は変わらぬスピードでお釣りを数えている。レシートを手に取って、いつものように渡してくる。


「うちのコンビニのおでんは本社の人と製造の人と美味しくなるようにって作ったものだからさ。それを必要な人に届けられるようにうちがあるんだよ」


 手に乗っかった小銭。レシートを渡すときに触れた店長の指の固さが伝わってきた。


「何があったのかわからないけど、あの塾に通う子たちがお腹を空かせたり、寒いなか迎えをまったり、何かが欲しくて来た時に対応できるようにしてるんだよ」


 店長はにっこりと頷いた。そして、いつでもおいで、と続けた。コンビニのイートインスペースに腰かける。おでんを食べる前にスマホを見ると、母からのメッセージが入っていた。


『コンビニで待ってて、迎えに行くから』


 先ほどまで感じていた閉塞感が溶けていく。出汁を吸い込んだフワフワのはんぺん。口に含めると魚の甘みと共に舌に溶けていく。


餅巾着も大根も、店長おすすめの厚揚げも箸で持った瞬間にじゅわっと広がる昆布の香り。一人分のおでんカップに入った世界中の優しさで体が温まる。だれかの幸せを祈る優しさで体が温まっていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おでん 桜人 心都悩 @Sakurabit-cotona

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ