ひからびちゃうよ

堺栄路

ひからびちゃうよ

 戸の開く音を聞いて、雨が降っていることを知覚した。ついでドタドタと騒がしい足音を聞いているうちに、倉本月くらもとつきは自然と万年筆を机に置いていた。雨の日の来訪者など、浅井あさいうみ以外には有り得ないからだ。

 浅井うみの事を思うたび、倉本月は一人の男を思い出す。

 燈一郎とういちろう

 二度と会うことのない親友の名を心中で呟く。

「お前さんは、俺がいないとだめだなあ。そんなに引きこもっていると、からからに乾いてしまうぞ」

 そんな笑い声はもちろん帰ってくることはない。

 燈一郎は雨の日に車に轢かれて死んだ。

 猫をかばって死んだのだと、人伝てに聞いた。

 その日の雨は年に一度あるかどうかの大雨の日で、打ち捨てられた亡骸は彼の端正な面持ちを少しも残してはいなかった。だからだろうか、その姿を見て、結局月は涙一つこぼせなかった。燈一郎の妻が泣き崩れる姿も、ただ他人事のようにしか思えず、亡骸を燈一郎だと感じることが出来なかった。

 だが月日が過ぎゆくにつれて、彼がいなくなったという事実をゆっくりと知覚していく事になる。

 かつて彼が居候していた客間には埃が積もり、残していた布団もカビてきたので処分した。そういう事をするたびに、首をゆっくりと絞められるような感覚があった。今や彼の残したものは、怪しげな封をした壺が一つだけである。「決して開けてはなるまいぞ」と云い聞かされていたのだが、先日ついに開けてしまった。云い付けを破ったら、彼が怒って化けて出るかと思ったのだ。今のところ、枕元にすら出る気配はないが。

 じわり、じわりと心が削られていき、やがて月の中にあった燈一郎という男への感情は、そのまま大きな重石となりつつある。

 猫など助けなければ良かったのだ──そんな風に考えては、自己嫌悪に陥った。

「月さん」

 浅井うみは倉本月を下の名前でそう呼ぶ。

 眉の太さや大きな瞳は奥方に似ているが、鼻筋や口元は燈一郎によく似ている。ノスタルジイに胸を刺されながら、月はうみの方を向く。

 そうして、いつもこう口にする。

「君ね、嫁入り前の少女おとめがこんなところへ来るものじゃあないよ……」

 彼女は壁際に並ぶ座布団を一枚取ると、着物の裾を整えつつ座る。

「月さん、そいつは古い考え方ですよ。何たって私、職業婦人モガですから。“新しい女”なのです」

 のたまい、胸を張ってみせる。

「らいてうは嫌いじゃなかったかな」

 平塚らいてうは”新しい女”の最先端をいく女流作家である。そんな彼女の寄稿文を読んで「結婚前の男女が事に及ぶなど……破廉恥です!」と熱された鉄瓶のように怒っていた姿を、月はよく覚えている。彼女が怒るのは珍しいからだ。

「そいつは”古い私”ですね」

「嘘おっしゃい」

 だいたい、モガはモダン・ガールを意味する言葉で、正確なところでいえば洋装をして、髪を短くした女性たちを指す。彼女の姿形とは真逆を行く言葉だろう。間違っていないのは、家計を支えるため働く職業婦人である、という一点のみだ。

 そういった、”古風な価値観の持ち主”であるのに、浅井うみはこうして月の男の一人暮らし元にやってくる。雨の日は欠かさず、雨が降りそうな日もたまに。梅雨の時期など入り浸っている。いつだって傘を持っているので、倉本家の玄関には傘置き代わりの壺が置かれるようになっていた。

 いつから始まったことか覚えてはいない。

 最初は燈一郎が昔住んでいた部屋を間借りすることを要求していたのだが、さすがに月は断った。

 ──籍も入れていない男女が同じ屋根の下に住むなど、冗談でもよくないよ。と。

「じゃあ、通います」

 と宣言した訳ではないのだが、うみはこうして来るようになった。

 その昔、理由を聞いたことがある。

「父様もおっしゃっていました。”俺に何かあれば、光三郎みつさぶろうを頼みなさい。俺の頼みは断れまいよ”と」

 あいつめ、と彼は口中で毒づく。光三郎というのは月の本名である。

「それなら、なぜ雨の日ばかり来るんだい」

 こちらに頼るだけならば、雨にこだわる必要はないだろう。

「この家、傘がないじゃないですか。かわいそうです?」

 浅井うみは嘯く。

「無用なものを置く隙間がないだけさ」

 雨の日に出かけないならば、不要であろう。

 それに月の背後には、文字通り本の山が出来上がっていた。彼の書斎だけではない。廊下にも本は溢れ出している。

「太陽も本の山に隠れてしまいそうですものね」

「おかげで毎日快眠だよ」

「なるほど、ついでに月も隠れましたか」

 この応酬には特に意味などなくて、ふんわりと言葉を交わしているだけだ。だが、それが月には気楽でよいものだった。

 ──倉本月は人間関係が希薄である。頑固者で、他者と折り合いをつけるのが苦手であった。だからまともな仕事に就けず、家に引きこもり、散文を書いて暮らしている。それは燈一郎の一件から重症化しており、ますます人を近づけなくなった。長いこと両親とすら顔を合わせていない。

「月さん。今度は……」

 だが、浅井うみだけはどんなに適当に扱われたとしても、次の雨の日には必ず姿を見せる。

「百貨店の上にゴンドラができたらしいです」

「キネマの出口から出てくる人の身なりから、仕事を当てる遊びをしましょう」

「丸ビルに洋装で潜入しましょう。月さんが社長で、私が秘書の役です」

「本屋に林檎を置いて帰りましょ。檸檬じゃないですよ?」

 彼の孤独に抗おうとするのは、もはや少女だけである。しかし彼はというと、現状に対する危機感のようなものは希薄であった。

 別にこのままでも──と、思っている。漂うように他人に流されて、依頼されるままに原稿を書く。それで成り立っているのだから、問題はないじゃないか……と。云い訳をして、部屋に引きこもっている。本当は燈一郎の事を忘れてしまうのが恐ろしいのだ。こうして重石のように抱えていないと、手元から転がっていきそうだった。手放す方が楽になるのは分かっている。だが、自分の心地よさを優先して、心の中の大半を占める燈一郎という男の存在を放棄することを、彼は許すことができない。

 たとえ石の重さで、自らが潰れてしまったとしても、だ。

「未来を放棄して、過去に生きることを選んだ。そんな男が一人いたっていいだろ……」

 そう云った事をクドクドと溢しても、浅井うみは嫌な顔をしない。ただ、表情をこわばらせる。

「僕なんかにかまわないで、君もいい人を見つけるべきだよ……」

 無理に慣れない仕事をして、無駄に心労を重ねる必要なんてない。君は器量もいいし気が利くのだから、貰い手なんていくらでもあるだろう。そう月は云う。

 彼の価値観がずれている訳ではない。女は嫁に行くのが当たり前。ただ、そういう時代だった。

 だが月はその言葉こそが、うみを であると気づけない。

 うみは唇をキュッと結んでから、小さく口をひらく。

「それで、父様は──」 

 云いかけて、また口をつぐむ。

「ううん、違う。これは、私の話」

 小さく頷くと、息を吐いた。眉間を寄せて、口をキュッとしぼめる。勢いよく立ち上がった。

「来てください」

 うみは月の手を取る。そのまま手を引いて、廊下へと彼を引っ張り出した。

「ちょっと、

 隣を歩くことすら躊躇うような彼女が、自分の手を引いて歩いていく。月はそのことに驚いてしまって、ずるずると流されていってしまう。

「”うみ”とは、呼んでくれないんですね」

 前を進む彼女の顔を、月は伺うことができない。

 やがて彼女は玄関の前で立ち止まると、彼の手を離した。

「浅井くん、何を……」

「……みていてください」

 そう呟くと、止める間もなく、浅井うみは庭先に飛び出す。水たまりを蹴飛ばして、素足のままで、ある。

「風邪をひいてしまうよ」

 いつの間にか天候が悪化していたらしく、空からは大粒の雨が降り注いでいる。屋根瓦の上で水滴の踊る音が、拍手のように響く。

 彼女の着物が水を含み、頬に横髪が張り付いた。

「傘」

 大声を出してはいたが、雨の音でかき消されてしまいそうだ。

「……え」

「月さんが、持ってきてください」

 少女の瞳は、真っ直ぐに月を見つめている。彼のそばには、うみが置いていった傘が一つ。

 ここから、出るのか。思った瞬間に、心臓の跳ねる音を聞いた。

 雨の音を聞くだけで、胸が軋む。

 助けることも出来なかった友人の姿が少女に重なり、首を絞められたみたいに息が苦しくなっていく。

 ──雨が、怖かった。

 雨は大切な人間を連れ去ってしまうから。

 だから、雨を避けて生きるようになった。雨が思い出を流し去ってしまうと思った。雨は怖いものだと思い込んでいれば、燈一郎の記憶はずっと止めておける……。そうして、外に出ずに、耳を塞いで、自分の世界へ埋没してきた。内側にあるものに目を向けて、ただペンを走らせた。

 このままきびすを返して部屋へと戻れば。

 今の生活に戻れるのだろうか。

 穏やかに生きることができるだろうか。

 問いかけが頭の中でぐるぐる回る。それでもいいかもしれない。彼女だって死ぬ訳じゃない。せいぜい風邪を引くぐらいだ。もう怒ってこなくなるなら、それこそ彼女のためだ。僕なんかに構っていては、人生を棒に振るようなものだから。

 ──うん、もどろう。

 心は後ろ向きな結論に至る。だけど、足は鉛のように重たい。

「月さん」

 ただ、彼女の瞳がそうさせる。似ている訳でもないのに、その瞳は燈一郎を想起させる。

「そんな目で見ないでくれ。僕は……」

 彼がいなくちゃ、もう。

 彼女の視線に耐えることも出来ず、目を強く瞑った。その時である。

 家の奥から──一筋の風が吹いた。

 年中雨戸も閉じている倉本宅では、ありえないことである。しかし月にはそれが不思議なものに思えなかった。

 僕が封を破ったからだな──自然とそう理解した。

 壺を持ってきた時の、燈一郎とのやり取りが鮮やかに蘇る。

「“壺の封を解くべからず“だぞ、光三郎」

「別にいいけどさ。何が入ってるんだよ」

「ふうん──雲を吹き飛ばす風、かねえ」 

 風は、月の肩を強く押す。

 ──。

 見知った声が聞こえた気がした。

 金縛りが、ふと途切れた。

 ──そうか、君も、僕の背中を押すんだな。わかったよ。

 押された勢いのままに、月は玄関から外へと一歩出る。

 雨の匂いを久々に感じた。

 雨粒が跳ねてくるぶしに当たる。湿った地面に足が沈む。たくさんの小さな指に頭を押されているようで、雨粒が気持ち悪い。

 それでも、耐えられない程じゃなかった。

 雨そのものは、ただの雨に過ぎない。

 何故そんなものを、僕は怖がっていたのだろう……。

 うみの元まできた月は、彼女の手を握った。自然とそうすべきだと思った。

 少し驚いた風のうみであったが、すぐに穏やかな表情で月を見つめる。

「月さん、傘は?」

「……あ」

 風に気を取られ、すっかり忘れていた。月は玄関へ振り返る。開けっぱなしの扉の先には、見覚えのある廊下が広がるばかりだ。

 もう彼は去ってしまったのだろう。胸が痛んだけれど、耐えていかねばならないものだ。

「しようがない大人ですね、本当に」

「……ごめん」

 すっかり萎れた表情の月に、うみは優しく微笑んだ。

「今日は許しましょう。だって、月さん、あのままだったら──」

 うみの口元がゆっくりと動く。紡がれた言葉は何故だか、別の人間がうみの口を借りて云ったようにも思えた。

 そうか──先ほどの、風。

 あの時、聞こえた気がした言葉。はっきりと言葉の意味は分からなかったけれど。

 これだったのか。

「干からびちゃうところでしたよ」

 うみは月の手を、そっと握り返した。

 

 

 了

 

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