第19話 テント懲役一時間
「あのバカ妹!」
伊織は、妹をひっ捕まえんと館に飛び込んだ。
「待てやごらああああっ!」
「待てと言って待つ可愛い妹は、可愛くないのでいません!」
洋館第一歩の仕事は、遺品探査ではない。
兄と妹の洋館を舞台とした追いかけっこである。
館の外にいる一同は、愕然と成り行きをただ見守るしかない。
「相変わらず、元気だよな、伊織の妹」
「あの年頃なら、そんなものでしょう?」
「え~私、あの頃は結構控えめでしたよ?」
「困ったことになったな」
「伊織くん、大丈夫かしら?」
追いかけっこに終わる気配は見えずにいた。
一〇年ぶりに訪れた洋館は、伊織が思ったほど荒れていなかった。
「この、匂い、なんで?」
埃臭さを覚悟していたが、鼻につくのは防虫剤、いや樟脳の匂いだ。
叔母が住んでいた頃、確かに村の決まりとして樟脳を玄関先に吊していたが、今も残るはずがない。
窓ガラスもおかしい。
ヒビは入っておらず、割れてもいない。
どれが、しっかりと雨風凌ぐ役目を果たしている。
廊下もうだ。
かつては煌びやかな絨毯が引かれていたが、時の経過と共に剥がされ、今では木目の板を曝け出している。
埃が積もっておらず、踏み込みの音は鳴ろうと劣化はない。
「匂いといい、窓や埃といい、誰かが管理してたなんて聞いてないぞ!」
疑問を抱くのは後回しだと、現状ではなく現実を直視する。
この館は二階建て、大小二〇の部屋がある。
捕獲すべき足音は二階からする。
「ここか!」
足音を追跡する伊織だが、音は追えようと姿を捉えれきれない。
まるで、やまびこのように靴音が反響して、居場所を掴ませないからだ。
部屋という部屋、虱潰しにドアというドアを開けるが、妹の姿はない。
今いる区画は、西側にある宿泊エリア。
左右に一〇ずつのドアが立ち並んでいる。
妹が隠れ潜んでいるのを警戒して一つ一つ、ドアを開ける。
どの部屋も下手なホテルの間取りより広い作り。
遠方より訪れし商人や役人が泊まる部屋であったが、今ではただの空き屋となっている。
「叔母さんがいた頃は、物置にしていたけど」
部屋数が多いから便利だと語っていた。
あの時の伊織も館の広さに驚き、走り回って探検をしては、叔母に叱られたものだ。
「って昔はいいだろう! 今はあいつだ!」
神経を張りつめさせる。耳を極限まで澄ます。
思考しろ。妹だからこそ行動パターンは血縁譲りのはず。
「あそこか、あそこ!」
絞れたのは二つ。
一階にあるリビングと執務室であった。
極力音を立てず、ゆっくりと二階から一階に降りる。
気づかれれば、再度逃げられるオチ。
ならば息を潜めて、ゆっくりと焦らず距離を詰めるのが妥当だ。
「いないな」
リビングへと続くドアをゆっくりと開ける。
元々、商談の場として使われていたからこそ内装は広く、ソファーやテーブルが、あったが今は撤去され、使われなくなった暖炉が残っているのみ。
天井には、かつて豪華絢爛なシャンデリアがあった。
一〇年ほど前、老朽化による落下の危険性により取り外していた。
そのシャンデリアは処分されることなく、部屋の隅に置かれ、シートで覆われている。
「ここもいない」
隠れ潜む場所として適切だが、シートをめくろうと妹の姿はない。
ついでに暖炉の中を覗くも、同上。
入り込んだ痕跡すらない。
「神社か」
残る執務室に向かう間際、廊下の窓辺から見えた建造物。
洋館の五〇メートルほど離れた裏手にある神社。
村人以外立ち入るのを許さず、参拝しようならば怒鳴りつけて追い返すなど良い思い出はない。
「
祀られている黒き鹿の神様を口にした時、記憶が駆ける。
一〇年前、叔母が描いていた絵を見た時の記憶だ。
「おばさん、これおかしくない?」
「おかしいってどこがだい?」
「この鹿だよ、鹿」
叔母が描いている絵は、雄々しい黒き鹿であった。
頭部より生える角は、樹木の枝葉のように生い茂り、体躯もまた通常の鹿以上、キリンに負けていない。瞳は黒曜石のように黒く、体毛もまた闇の夜のように暗く、深い。
何より伊織が指摘したのは、蹄であった。
「鹿って蹄が二つのぐーていだよ! なのにこの絵の鹿は五つあるよ!」
甥っ子の指摘に、叔母は嬉しそうに微笑んだ。
「うん、よく気づいたね。確かに、本来の鹿は蹄が二本ある偶蹄目だ。けどね、この毘麌って鹿の神様は、驚くことに蹄が五つあるんだ」
「なんで?」
「神様だから、としか答えられないね」
それに、と叔母は声を潜めては、甥っ子の耳元で囁いた。
「これは誰にも言っちゃいけないことなんだけど、おばさん、この神様を見たことがあるんだ」
「え、本当にいるの!」
「しー、村の人が聞いたら怒るから、誰にも言ったらいけないよ」
村人に対して良い印象を抱いていない伊織は、無言で何度も頷き返す。
「ちょっと絵に煮詰まった日のことだよ。満月が綺麗な夜、気分転換にこっそり山に入ったんだ」
「あ~そりゃいえないね。それで?」
この村では、夜、山に立ち入ってはいけない掟がある。
村の者だろうと、余所者だろうと関係ない。
もっとも昼間でも立ち入れば怒鳴られたが。
「ほんの少し歩いて戻るつもりだったんだけど、視線を感じて振り返ったら、すんごく大きな鹿が私を見ていたんだ」
「これ?」
伊織は描きかけの黒き鹿を指さした。
「そう、この黒い鹿なんだ。あまりの大きさに驚き固まっていたけど、私をしばらく見つめた後、暗闇の中に消えていったの」
「おばさん、よく無事だったね」
もし自分が遭遇したら、と想像してチビリそうになったのは内緒だ。
「今でもそう思うよ。敵意はなかったけど、それは私がこれ以上山に踏み込まなかったからだろうね」
叔母は語る。
普段は、ゆったりした口調だが、この時の口調は、興奮気味のせいか、やや速かった。
「今でも鮮明に思い出すよ。暗闇の中だろうと、確かに放つ神秘的な存在感、野生とは思えない神々しさ、世界は広い。あのような生物がいるなんて!」
「お、おばさん?」
「おっと失礼、
「そういうところは兄妹でしょうに」
「生意気言うのはこの口かな~かな~」
叔母は笑みを浮かべながら、伊織の頬をぐにっと引っ張った。
「あ~やめろよ~! すぐひっぱる!」
「やめな~い」
仕返しとして頬を引っ張ったら、さらに引っ張られた。
不快ではなかった。
お互い、変な顔に笑いあった。
「そういや、黒い鹿の絵、回収した作品になかったな」
記憶の回想から現実に戻った伊織は思い出す。
館から幾つもの作品が回収されたも、黒き鹿の絵はなかった。
「なら金庫にある絵がそれか」
当時はまだ完成していなかった。
「なんで忘れていたんだろうな」
いや、と頭を振るう。
叔母が失踪した地故、忘れたかったが正解だろう。
「さてと、あのバカを捕まえないと」
気を取り直して執務室に向かう。
聞き耳を立てれば、確かな物音がする。
当たりだと迂闊に言葉を口走らない。
ゆっくり、ゆっくり抜き足差し足忍び足で、執務室に近づく。
ドアには隙間があり、息を殺して中を伺えば、執務机の裏で動く何かがいる。
記憶にある執務室は、他の部屋に繋がるドアはない。
窓はあったと記憶しているが、半分までしか開かないはずだ。
ならば追いつめれたネズミも同然。
怒声を出して一瞬だけ動きを止めるか。
それともこっそり忍び込んで一気に捕まえるか。
いや、と伊織は入るのを止めた。
音が部屋の中より近づいている。
伊織は咄嗟に、背中を壁に預けて息を殺す。
部屋の中より、ドアの隙間から外を覗いているのが感覚から分かる。
ドアがゆっくりと開かれる。
忍び足で廊下に出た瞬間、伊織は背後から妹を羽交い締めにした。
「ぎゃあああああああっ!」
「はい、確保!」
絶叫が洋館に響きわたり、伊織の鼓膜を貫き、顔をしかめさせる。
追いかけっこ開始から、かれこれ一時間は経過していた。
藤木香織。
罪状:密航及び洋館危険走行罪
判決:テント懲役一時間及びおやつ抜きの刑と処する。
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