日記

里仲光

第1話

妻の胸と尻にはグロテスクな内出血がにじんでいて、テーピングで巻かれている。胸は上下テーピングがまかれ、乳首の辺りは、挟み込まれた脂肪が集まっていて、相撲取りの太ももを想起させた。内出血の様子は、「完璧な美を手に入れるため」というれっきとした崇高な目的を知らない人が見たのなら、ナチスがユダヤ人に行ったのと同種の、相手が世界一のマゾヒストであったとしても許されないほどの、醜い扱いを受けたのだと勘違いするのかもしれないものだった。少なくとも、殴ったり蹴ったりといった、武器を使わずに生身で行える暴行では、このような傷はつけられそうになかった。試合後のボクサーの顔の何倍も醜かった。それほど、その傷は人体に対する一般的な見識から逸脱していた。体中にタトゥーを彫っている人の肉体を連想した。何の宗教かは知らないが、神が粘土で人間を作ったという話がある。もしそうであるならば、神はこの傷より更に醜いもの、例えば脳や腸なども作り上げたのだろうかと、私は混乱した。中世のヨーロッパならば、この醜い内出血の後を理由に、間違いなく妻は魔女だと疑われ、火炙りにされていただろうと考えながら、乳首に舌を這わせる。テーピングテープで潰されていて、いつもより弾力がある気がする。

目の前には内出血が赤黒く見える。ここを切り開いて、ジェル状のパックを入れたのだ。何度も説明され、画像や映像も何度も見た。イメージ画像では、ハンバーガーを作るように脇の辺りから胸を開き、その間にパックを挟んでいた。どうしてこの手術で胸が大きくなるのか、という疑問に関してこれ以上のものは無いというほど理解しやすいものだった。

しかしながら(私が手術室の中にいなかったからかもしれないが)この傷跡の部分を切り開き、中に何かが入っているという状態は、私にはまったくもって想像することができないものであった。妊婦の腹に、裸の胎児が生きているのを想像することができないのと同じだと思った。女の膨らんだ腹の中に、もうひとつ心臓を持ち脳を持ち羊水の中で生きている存在。


 普通は別々に手術をするそうだが、胸の方は入れた量がそれほど多くないということで一緒にやることになった。「ずっと家にいて特に動き回ることもないなら、総合的に見てダウンタイムが短くなるほうが楽だ」というのが、医者の意見だった。早ければ早いほうがいい。いわゆるダウンタイムの期間は短ければ短いほどいいし、コンサートやテレビの撮影に重ならないようにしなければならなかった。内出血だらけで人目に触れる仕事は出来ない。

「痛いけど、嬉しい」

と妻は言う。ダイエットをしたりオシャレをしたりするのとあまり変わらない感覚らしい。やってみると意外と楽なもんだ、というのが手術室から出てきた時に、妻が語った感想だった。メディアや観客の目にさらされる妻の仕事あるいは経歴上、ダイエットやおしゃれというのは、まるで影のように、彼女といつも一緒だった。逃げも隠れもできず、かといってより近づき親密になることもできなかった。痩せていなければファンに文句を言われてネット記事になり、痩せすぎるとグラビア撮影の際に貧相な体をさらすことになって、文句を言われて記事になった。また、おそらく理想的であろう体型の時ですら、一定数、体型に関する誹謗中傷をSNSに送り付けてくる輩がいた。彼らは、「デブ」「ブス」などの幼稚な暴言や才能を否定するような言葉を送り付けていて、それが一定の量に達すると、彼女の事務所の弁護士から通知が届いた。そのほとんどが独身で、元は妻のファンであった。自らの理想を押し付け、それが叶わないことがわかると、彼らはそのフラストレーションの矛先を妻に向けたのだ。大多数の人とは違って妻の場合、痩せることも太ることも、老けることも、そのままでいることも、許さない人がいた。

 痛みは、鎮静剤を飲めば、筋肉痛と何ら変わりはないようで、座り方や寝方さえ注意すればそれほど生活に支障はないらしい。妻の感想は、 医者が言っていたものとまるっきり同じで、クリニックを何軒も調べたかいがあったと思った。

 照明を落とし、妻を見た。内出血は見えなくなった。脂肪吸引によってできたシワも少しは薄くなっていっている。今はまだ胸も尻も腫れているのか、不自然な膨らみがあり、人工的な身体である。神が粘土をこねて人間を作ったならば、乳房をつけられたばかりの女はこのような姿だったのだろう。しかしながら、妻は格段に美に近づいていると私は思った。腫れは、2、3週間あれば完全に消えるという説明を受けていた。私は、その腫れが引いた姿を想像した。それは、空気あるいは水を詰めたような張った乳房ではなく、神によって創られた人間そのものの美しさを保った大きな乳房だった。垂れたり、離れたりもしていなかった。洞窟に住んでいた原始人、賢者の石を作ろうとしていた錬金術師、アフリカの奥地やアマゾンに住んでいる未開の民族ですら、その美しさを認識するであろう美をもっていた。

あと必要なのは乳首の色を脱色することくらいだろう。何一つ欠陥のない身体が完成する。

 昭和のアイドルのように、売れているタレントがヌードを出す時代ではないから、性的な目線を持って彼女の、人工的で完璧に近い状態に、カスタマイズあるいはチューニングされた裸を見れるのは、世界で私だけなのである。その優越感は、デビュー時からライブに通い、グループからの卒業と同時にソロ転向した頃に、まだ処女であった彼女を抱いたときのものにも勝っていた。そして、車を女と呼ぶ人の気持ちに海よりも深い共感を持った。


 久しぶりに二人で寝た。私が居間のソファで寝るせいで、妻ひとりで寝るのが当たり前になっていたダブルベッドは、もうすっかり妻の匂いになっている。ツンと酸っぱいような、甘いような匂い。果実的でもあり、動物的でもある匂いだ。

高校生の時、初めて女の部屋に入った時もこんな匂いがした気がする。その時の女は、自分を処女であると名乗り、私の童貞を奪った一ヶ月後(正確には25日後だったと思う)に浮気をし、サッカー部の先輩に告白した。そして、告白した先輩に振られ、私は高校の間中その女に振り回された。例えば私が予備校に行かなければならない日に一緒に帰ると言いだしたり、同じ委員会の女子と話すのを禁止したりといった具合だった。彼女は何かがあるとすぐに怒った。そしてそれがある一定の量までたまると、暴力で解消した。

 もう二十年近く前の、どうしようもない喪失感が思い浮かぶこの匂いが、私は嫌いだった。

 妻の手が後ろ手に俺の手首を掴んだ。胸も尻もベッドにつけないようにするため、横を向いた妻の後ろから抱き抱えるように妻は俺の手を誘導する。

「濡れてるわ。」普段からハスキーでアイドルをしていた十代のころから「色気がある」と言われていた妻の声は、より妖艶さを増しているように聞こえた。その妖艶さは、喉の奥の湿り気や、微々たる震えを見せる唇などに表出していた。

あるいは、私が妻の身体や久しぶりの雰囲気にやられているだけかもしれなかったが、そんなことは私にはどうでもよく感じられた。どちらにしろ妻が魅惑的なのは同じだ。私はひどく勃起していた。

妻は股間だけでなく太ももまで濡らしていた。少し貧相だと感じていた太ももは脂肪がつき、色気がある。刃物で浅く切って、血を流せば、さらに美しくなるだろうという想像が浮かんだ。私は日々多くの想像をしたが、この種の暴力的な想像をすることは少なかった。

「抱かれて嬉しいのか?」

「まだ抱かれてないわ。手を出されているだけ。」

人差し指だけでなく、もう小指まで濡れている。部屋の中あるいは布団の中の、ツンとしたにおいが強くなった。

「していいのは1週間後だったか?」

「三週間後。その後一か月経ったら数の子天井のやつやるから。」

「ずいぶん先だな。」

「抱きたくても抱けない女が目の前に転がっている方が燃えるでしょう。」

俺は妻の髪を撫でた。ディープフェイクが出来るまでの期間と同じ種類の心臓の高鳴りが妻に聞こえてしまわないように背筋を丸めて胸を妻の背中から離した。妻の首筋には私の額を当て、呼吸でも気づかれないようにした。

もうフェイクではない。2カップ分大きくなって乳首の色を薄くした胸は、妻の包帯を解けば触れる場所にある。もうフェイクではない。大きな胸も大きな尻もフェイクではない。手を出せば触れる、リアルだ。

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