第3話

 残されたライサンダーは、数瞬前までハーミアが存在していた空間を、無言で見つめていた。


 どのぐらいの時間、そうしていただろう。

 小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がった彼女の肩に、どこからともなく飛んできた、真っ黒いフクロウが止まった。


「現実と見紛うばかりのお姿ですな。有意義な時間をすごされたようで」


 フクロウのしわがれた言葉通り、幼い子供のようだった容姿は一変。

 豪奢なドレスを纏い、地面につきそうなほど長い金髪をなびかせる、見目麗しい妙齢の女性へと、ライサンダーは変化していた。


 ここは彼女の精神が反映された、インナースペース。

 重圧に押し潰されそうになるたび、逃げ込んできた避難場所。

 無邪気な子供の頃に戻りたいという願望や、公正な機械のように振る舞わなければならないという義務感が、いびつなアバターを形作っていたのだった。


「爺」

「はい」

「苦労をかける」

「……確定にございますか?」

「すまぬ」


 フクロウは翼を額に当てて、大きな溜息をついた。


「打診の段階とはいえ勅命を蹴ったとなると、今後にも大きく響きますぞ? そもそも、他人が羨むほどの好条件ではありませぬか」


 階級が上がるのはもちろん、人口が十倍ほども多い、新しい領地を任されることも内定していた。

 有り体に言えば、出世で栄転だ。


「それでも、領民を置いては行けぬ。私が姿を消せば加護も消える。食糧も資源も乏しい、この天涯の地で暮らし続けるなど、到底不可能だ」

「姫様が思うより、民は強かなものにて。ここを離れ、また別の信仰対象を見つけ、何事もなかったように崇め奉ることでしょう」

「私の領民は、そんな浮気者ではない」

「浮気とか、そういう問題では……」


「爺」

「はい」

「翼、落とすよ?」

「……っ! ああもう、分かりました。分かりましたゆえ、堕天するなど、二度と口にされませぬようにっ! 転居の準備を急かせたというに、すぐまた荷ほどきしろなどと口にすれば、メイド長になんとどやされるやら」


 ライサンダーの肩から、落ちるように降りたフクロウは、飛ぶこともできないほどの諦めに囚われていたのだろう。

 黒い羽根を盛大に撒き散らしながら、でんぐり返しで遠ざかっていった。


「ごめんなさいね、爺。髪の毛、また薄くなってしまいますわね」


 幼い頃から面倒を見てくれた世話係に謝罪しつつも、彼女の心は未来へと飛んでいた。


 この地に足をつけ、領民と共に成長していくと決めたのだ。

 直接の交流は許されないが、もっと存在をアピールしていく必要はある。存在を認知してもらわなければ、信仰心も増えはしないのだから。


「夢枕に立つのが定石ですけれど、何人もの意識を繋げたら、配信みたいになりませんかしら? 研究の余地、ありますわね。……最初の挨拶はやっぱり、〝こんみやです〟かしら?」


 自分の空想にくすくすと笑いながら、始めてハーミアの配信を見たときのことを思い出した。


 それは本当に偶然で、たまたま目に入った、自分と似ている名前が気にかかっただけだった。


 けれど、可愛らしい笑い声に、感極まった涙声に、つたなさはありながらも一生懸命な様子に、あっという間に惹かれてしまった。


 今になって分かる。


「私はハーミア様の中に、もう一人の私を見つけたのでしょうね。こうなりたいと憧れていた、理想の自分を」


 だから、進むべき道に迷ったとき、ルール違反と知りつつも、世界の枠を越えて助けを求めてしまったのだった。


「さあ、始めるといたしましょうか。私の物語を……いいえ、伝説を!」

 気合と共に、彼女は現実の世界へと戻っていった。


 真っ白な羽が一枚、誰もいなくなった花畑の上を、いつまでも風に乗って漂っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る