第2話 かさねとあさひ。

「それ、誰の歌? 曲名教えてよ。」


 唖然あぜんとした。もう0時を過ぎた、人気ひとけのない深夜の公園。いつものようにブランコを揺らしながら、僕は歌を口ずさんでいた。もうすっかり気持ちは晴れたものの、なんとなく帰る気になれずにいて。そんな、後は日が昇るのを待つだけという暗闇の中、冬服仕様の制服を着た女子高生が話しかけてきた。明らかな異常事態を理解するとともに、最悪の想定が頭を駆け巡る。

 息を思い切り吸って吐けないからという理由で、あごの下にまで下ろした自分のマスク。よりにもよって今日は白いマスクだったがために、今まで気にならなかったマスクの下のひげが、目の前の女子高生にむざむざと僕の性別を強く主張している。それに対して目の前の彼女は——少し丈が短いように見えるスカート。


 数分前まで気持ちよく歌っていたことがまるでうそみたいに、息が吸えなくなった。僕は、何に巻き込まれてしまうのだろうと、冷や汗が止まらない。なのに、自分の上がる体温と外の冷たい気温のギャップからか、頭はねつっぽくなっていく。


「ねえ、大丈夫——」


 視界が揺らぎ、満面の夜空のはしから自分の視界の中央にいたるまでが白濁はくだくし、そして突然暗転する。息が、できずに。



 目が覚めた。

 仰向あおむけの姿勢で見た景色にいつもの天井も知らない天井もなく、ただただ素朴そぼくに星の光がまたたいていた。夜空の見えるどこかで無理な体勢で寝ていたのか、脇腹から足首にかけてがかすかに痛む。


——後頭部から肩にかけての部位が、ほのかに温かい。


 すぐさま上半身を起こした。が、状況が上手く把握できず、また息が苦しくなる。


「まだ立ち上がらないで! これ持って、お腹で抱え込むように! 吐くことを意識しながら、吸って、吐いて……吸って……吐いて……!!」


 短くて的確な処置の指示に驚きはしたが、それを誰が言っているかは気にしている場合じゃなかった。ふんわりとした手触りのクッションのようなものを抱え込み、ゆっくり呼吸をする。いわゆる、起座位という姿勢になって、少しずつ冷静さを取り戻していく。

 小さい頃からパニックになりがちだった僕を、何度も根気強く助けてくれたお母さんのことを想起させる声だった。けど、この時間帯に起きている訳がない。ましてや、よくよく周囲を見回すと今いるのは公園で、自分が今座っているのは公園のベンチだ。そして、僕は、あの女子高生のことをようやく思い出した。


 息も落ち着き、決心をつけてからベンチの向きに合わせて座り直す。自分の左隣に誰かの気配を感じた。けれど、その状況に最初の時のような不安感はなかった。


「これ、あなたの水筒とお薬。もう大丈夫なら、良いんだけど。」


 さっきは気付かなかったが、声が微妙にかすれている——気がする。原因は明確だ、目の前で人が倒れたら誰だって驚くはずだ。それなのに、この声の主は、多分必死になって僕を助けようとしてくれたのだと思う。思えば、起きてすぐの時も呼吸が楽な姿勢、半座位を取らせてくれていた。毛布や枕がない現状で、おそらくは自分の身体や、さっき持たせてくれたリュックサックなどを使って、上手く姿勢を維持し続けてくれていたに違いない。


「……ええっと、ありがとう。お、お姉さん。」


 良い言葉が見つからなかったどころか、変にどもってしまった。しかし、彼女は言う。


「ふふ、お姉さん、ね。キミ、ボクと同じくらいの年齢じゃないの?」


 その言葉を聞いた後、おそるおそる彼女の方を見る。前髪まで短い髪型だからか、そのぱっちりとした真っ直ぐな目と綺麗に目が合った。口元はマスクでよく見えなかったけれど、目元で少し微笑んでいるのが分かった。


「僕は……行ってたら、高校2年生、だけど……」

「えっ、ウソ。キミの方が先輩なんだ! ボクも高校生だけど、まだなりたてだもん! てゆーか、もう入学式シーズンも丁度終わってるから、もしかしたら3年生なんじゃないの?」


 彼女は僕が答えた途端に、水を得た魚のように活き活きと喋り始めた。彼女の指摘を受けて、少し考える。確かに、ここ最近になってアルバイト先の人数が少し増えた気もするし、そういえば年末年始の峠を越えたことも今になって思い出した。


「あっ……確かに。じゃあ、高校3年生だ。」

「へへ、じゃあボクは大先輩の命の恩人ってワケだ!」

「うん……そう、なるね。」

「もー、目の前で呼吸困難になって倒れるのマジで心臓に悪いってえ。先輩って、なんか呼吸器系の持病とかあんの?」


 僕は首を横に振った。


「肺とかそういうのじゃなくて……なんというか精神的なそれだと、僕は思っているけれど……」


 それを聞くと、彼女が目の色を変えて、それでいて真面目な表情で僕に対して怒ったような所作をする。


「ぜーったい病院行った方がいーよ! 強迫性“しょーがい”とかそっち系だから、周りの助けが必須なんでしょ?」

「いや……僕は母さんの世話をしなきゃだし……というか、自分の一人でもなんとかなってきたから……」

「それでもいつかは限界がくんの! だから——」


『うるせぇぞ!!!』


 どこかのアパートでガラガラと窓が開く音と同時に、怒声が公園全体に響き渡った。彼女はその声に少しイラッとした表情を見せたが、すぐに柔和な表情に戻って、僕に向き直った。


「……とりあえず、ボク、今絶賛家出中でさ。貸しを返してもらうのと合わせて、先輩の悩み、半分こさせてよ。泊まらせてもらう手間賃ってことで、どお?」


 すぐに公園を離れて家に帰りたい気持ちと、厚意を無碍むげにしたくないと気持ちも相まって、僕はつい頷いてしまった。結局は、家出中の女子高生を家でかくまうことになるという最悪の予感は的中した訳だけれど——いくらかは、マシな結末になったんじゃないかと今でも思う。


——こうして僕は、あの日、朝日あさひ 胡蝶こちょうさんと出会った。


————————————

2025/1/4 00:58

・累 日和[かさね ひより]

・朝日 胡蝶[あさひ こちょう]

※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。

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草臥れ叢書にて、謳う者共よ。 P.error / Kei_comet @Matry0shka

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