淡い鱗
笹川ドルマゲドン
淡い鱗
暗闇の波の中を漂っていた気がする。ふわふわと心地よかったのに、急に身体が変質しそうなほどの熱さと空に出てしまったかのような乾きが襲ってきた。熱さはやがてズキズキと突き刺すような痛みへと変わっていった。
突然、鳴り始めた髄まで揺れてしまいそうな程大きくて低い音に全てが飲み込まれかける。今まで聞いたことのない大きな音に耳を塞ぎたくなった。しかし、頭の中に直接響いてぐわんぐわんと思考さえも揺らしてしまう音せいか、腕は鉛のように重く動かなかった。表皮が熱水に晒された時のように張って、指を僅かに動かそうにも痛みが走るだけだ。
口の中がチリチリと痛み、口が上手く動かない。回らない舌を無理やり動かせば、途端に強烈な不快感が襲ってきて鱗が逆立つ。
何か口に入ってはいけないものがそこにある。感触に顔をしかめ、原因となるものを吐き出そうとするも、カラカラに渇いた口を大きく開くことさえままならなかった。これ以上開いたら表皮が裂けてしまいそうだ。
目を大きく開いて何かを見ようとするが、暗闇がただ全てを覆っていた。視界が塞がっているのか、それとも失明してしまったのか。最悪の考えが頭をよぎり、弱くなって消えていく低音の間からドクンドクンと鼓膜を揺らす程心臓が激しく動くのが聞こえた。
身体がどんどんと熱くなっていく。きっと血流が回りすぎているせいだというのに、熱さを実感すればするほど焦る心臓がバクバクと動いた。もうとても冷静にはなれなかった。
体を捩って暴れれば、ざりざりと耳元で鳴る短い音とは別に、聞き慣れた波の音が聞こえてきた。
ようやく自分が浜辺に打ち上がったのだと理解した。
理解せざるを得なかった。この乾きは、この熱さは、そして動く度に表皮に走る痛みは。水の外にでなければありえない話だったのだから。
今すぐ海の中へ戻らねばならない。しかし視界は未だ闇に閉ざされたまま、平衡感覚さえよくわからず、どこへ進めば海に戻れるのかわからなかった。身体がどこか砂に圧迫されている感覚はあるものの、具体的にどの辺かはわからなかった。
尾鰭を破茶滅茶に動かして、砂浜に当たる音に紛れてたまに聞こえる水の音を聞き分ける。ただでさえ薄く繊細な鰭だ、下手に破れたら泳ぐのもままならなくなるかもしれない。しかしそれでも背に腹はかえられなかった。
鰭を割るように縦に走る鋭い痛みは、歯を噛み締めて我慢した。強く噛み締めようとする度、じゃりじゃりと不愉快な砂の音が顎骨を伝った。
いくらか暴れていると、水のある位置がなんとなくわかってきた。右後方に尾鰭を動かせば、いつもの冷たさがほんの少しだけ感じられる気がした。
目が見えなくなったとしても、海に戻れればせめてこの命だけは繋げられる。
僅かな希望を見出したのとほぼ同時だっただろうか。ザッザッと何かの音が近づいてくるのがわかった。
得体の知れない存在に、背筋が冷えるような心地がした。何かに襲われても、今の自分では何ら抵抗などできるはずもない。
このまま食われて終わりなんだな。思うのが先か脱力するのが先か、べしゃりと音をたてて、尾鰭も力なく砂に埋まった。
足音は目の前で止まる。最期に怯えた顔を残したくなかったから、ただ目を閉じて安らかに逝く時を待った。
しかし、想定していた痛みはなかった。代わりにばしゃっと頭に水がかかって、舌の上を洗い流すように砂を攫っていった。
「あー、随分暴れてしまったな。目を覚ましてくれたのは嬉しいが」
ハリのある男の低い声が正面から聞こえてきた。
頬に何か熱いものが触れて反射的に顔を逸らす。気に入らなかったのだろう、男がぐいと私の顎を強く掴むと、顔にあった圧迫感がなくなった。首に微妙な負荷がかかり、男の手で頭が持ち上げられたのだと察した。男はもう一方の手で私の目の周りになにか細工をしているようだった。
男の手は熱く、触れている部分が熱でおかしくなりそうだった。顔をふるふると精一杯動かしても、頭だけを持ち上げられて体に何ら力が入っていない状態では、抵抗と称するにはあまりにも弱すぎた。
物好きな捕食者は、目玉を取り出して食べようとしているのだろう。それもわざわざ私が目を覚ましてから。
どうにも惨めで仕方なくて、最後にひと暴れしてやろうかと尾鰭に力を込めた。
「暴れるな。今見えるようにしてやるから」
子供に言い聞かせるような甘ったるい声だった。これを悪魔の囁きとでもいうのだろうか。捕食者であるはずの男の言葉を信じられるわけがなかった。それでも急にもたらされたほんの僅かな希望に、尾鰭の動きが止まった。
頭の辺りを何かがぐるぐると回って。すべてを覆っていた暗闇にだんだんと光が増えていった。
「あ、あ...」
乾ききって動かないとすら思えた喉から、ひゅうひゅうと風のような音と共に声が漏れる。
眩しすぎる光にすべてが包まれた。急な光に慣れない瞳孔が一拍遅れてぎゅうと収縮し、両の目を押されたかのような鈍い痛みが走った。目を細めながら明るさに目が慣れるのを待つと、空の薄い青と、砂の薄い黄土色と、砂と同じ色をした塊が見えた。
目の前にいるのは捕食者であるはずの男だった。その表皮はさらさらと乾いていて、尾鰭はなく腕が4本生えている。しかもその腕のうち2本だけを使って器用に体勢を維持している。黒い髪は短く、顔には少し皺があって、薄く髭が生えていた。
今まで見たことの無い、正直気持ちの悪い見た目をしたその男は、私の目を覗き込むと微笑んだ。
「見えなかったから怖かったのか?」
怖いわけないだろ、そう言いたかった。しかし、男は視界を取り戻してくれたのに、自分が虚勢を張って突っぱねるのは違うと思った。
不服そうな顔をしながら小さくこくりと頷いた。男はそれを見て小さく吹き出し、私は眉間に皺を寄せた。何か言ってやろうと思ったが、喉は先程の声を最後に風音しか出せなくなっていた。
「鷗がお前の目玉を食おうとしていたから覆ったんだ」
視線を横に逸らすだけで数羽の鷗がこちらを凝視しているのが見えた。首を傾げる動きは可愛げがあるものの、その瞳は食い物を見つめる捕食者のそれだ。
ぎろりと目を開いて睨んでやれば、命の危機を悟った鷗は空高く飛んで逃げていった。ふんと鼻から息を吐き、視線を男に戻した。目の前にいる男は捕食者ではないようだった。
捕食者と疑った非礼を詫びようとしたが、言葉どころか喉は音を発することさえできなかった。どうやら先ほど限界を迎えたらしかった。
口の辺りを砂についたままの手で指差し、舌を懸命に動かす。男は私の頭をゆっくりと砂に下して、足元に転がっていた取っ手付きの底の深い器を持って海の方へ向かっていった。ざぶりと短く音がして、行きよりも時間をかけて男は戻ってきた。
目の前降ろされたそれに首をかしげていると、男は再度私の顔を持ち上げて器の淵まで運んでくれた。淵から少し下には水面があり、舌を伸ばしてなめようとすると、器が傾いて自然に口の中に水が入ってきた。水で喉を懸命に潤すと、喉の焼けるような辛さも砂の違和感も無くなった。そのまま顎で器をさらに傾けて上半身で水を被ると、表皮の張ったような感覚も和らいでいった。
腕に力が入るようになり、自力で上体を起こして男に向き直る。
「私を助けてくれたことに感謝する」
頭を深々と下げると、彼は「大したことじゃないさ」と笑い飛ばした。
大きく口を開けて笑うと、男はどうにも皺がよるらしかった。自分とはあまりにも違う外見に驚くが、そういう生き物なのだろう。見慣れないせいか余計に気持ち悪く感じてしまう。
私も彼もお互いのような生き物を見るのは初めてのようで、言葉が通じることに驚きつつもどこか気まずい雰囲気だった。
「ならばこれで失礼する。早く海へ戻らねばならない」
海に戻らなければ男に海水をかけてもらわなければ生存などできそうになかった。これ以上迷惑をかけたくないという思いもあるし、何より体の痛みを早く住処に戻って癒したかった。男の外見が気持ち悪いからというわけではない、断じて。
男の静止も聞かずに尾鰭を懸命に動かし、腕を使って向きを変えようとする。しかし、陸の上というのは海とは随分勝手が違うようで、尾鰭は空を切るばかりで一向に海へ戻れる気配がなかった。寧ろ下半身があまりにも重く、腕だけではどうにも前進することさえできなかった。
それに自覚したからだろうか、下半身に鈍い痛みが走ったような気がして、見ればいくらか鱗が剥がれ落ちていた。これ以上自分一人で暴れても悪化の一途を辿るだけだ。男を頼る他ないだろう。我々の種族では有り得ないだろう熱さをした手で触られるのは嫌悪感があるが、それでも干からびて死ぬよりはマシだ。
「...私のことを波打ち際まで運んでくれ」
些か不服そうなオーラが滲み出てしまったかもしれないが、あの男の身を焼くような熱い腕で触られるのは本当に嫌でしょうがないのだ。
一応上目遣いで頼んでみると、男は大きくため息をついて承諾した。
男は私の下半身の方へ歩いていくと、身を焦がすような熱さが鱗を伝ってきた。この男は毒でも持っているのだろうかと思う程、その手に触れられた部分がじくじくと痛んだ。
「もしかして痛むか?」
男が溶けるようにやさしい声音をしながら、そっと砂浜の上に私の下半身を下した。申し訳なさそうに眉をハの字に曲げながら顔を覗き込んでくる彼の顔を見たら、一発殴ってやろうかとすら思っていたのに拳から力が抜けてしまった。
「痛いというか熱い。お前が触れたところは、しばらく熱くて変な感じだ」
痛みがないといえば嘘になるが、それでも熱さの方が勝る。鱗の下が薄く残る痛みと共に感覚が麻痺していくようだった。
男は何故か目をそらして、少し間をおいてから「悪かった」と頭を掻きむしった。そのまま彼は俯いて押し黙ってしまった。
波の音だけが辺りを包みこむ。視界に入るのは空と砂ばかりだが、真後ろには心地よい涼しさの母なる海があるのだ。
腕に力を籠め、せめてあの深い青を見ようと懸命に体をよじった。男はその音を聞いて慌てて駆け寄ってきたが、決して触れようとはしてこなかった。
私の一言が効き過ぎたらしかった。確かに触れられると感覚がおかしくなるが、それでも私一人では波を拝むことさえ難しいというのに。
男は、焦った表情でわなわなと手をしきりに動かしては、表皮に触れる直前に引っ込める。その様がどうにも気に食わなかった。
片腕で器用に上体を支えながら、もう一方の腕で男の胸ぐらをつかんだ。
「多少の感覚異常は仕方がないと割り切っている。お前に下半身を運んでもらわなければ私は動くことさえままならない。水の中に戻れなければ私は死んでしまうんだぞ、早く持て!」
男ははっとした表情をして首を縦に振った。そしてそのまま私の死角__下半身の方へ向かうと、鱗越しに先ほどよりもより熱くなった彼の手が触れるのがわかった。後方へ引っ張られる感覚に合わせて、腕を使って身体を海へと押しやった。砂にこすれるたびに痛痒さを感じながらも、それを声として漏らすことは決してせずに腕を動かし続けた。
いくらか時間が経って、男が力尽きたのか、ざぶんと音を立てて下半身が冷ややかな感覚に包まれた。塩水が傷口をなでるたびにびくりと鰭が動いてしまう。鰭をゆったりと左右に動かして痛みに慣れさせてながら、腕を使って上半身も水の中へと沈めていった。
ようやくそこで男の姿を改めて見ることになったのだが、彼の服は水を含んでぴたりと肌に張り付いていた。「そんなもの服とは呼べないな」と吹き出すと、男は苦笑しつつも同意した。
まるで友と一緒にいるような、そんな暖かい心地がした。
ようやく後ろを向くと、どこまでも続く青い海と僅かに空の色を橙色に染める大きな光があった。
夜になってしまったら暗い海の中で住処へと帰れる気がしなかった。そろそろ住処へと帰らないといけない。
「ここまで運んでくれたことに感謝する。それでは」
「待ってくれ」
私が沖へ泳ぎだそうとすると、男はゆるく私の尻鰭を掴みながら制止を促した。あまり何かに触れられたりしない場所への熱に驚いて固まっていると、男はざぶざぶと音を立てながら波をかき分けて浜辺に向かっていく。男は砂の上に腕を伸ばして何かを掴むと、それを天高く振り上げながら「忘れてるぞ」と大声で叫んだ。耳を両手でふさぎながら嫌々その手の先を見ると、淡く銀に輝く大きな鱗が在った。
砂の上で暴れた時に剝がれたのものだろう。ちらりと下半身を見やれば、所々鱗の下が見えた。銀を帯びた己の肉は、触ってみるとぷにぷにとしていて、あの男の表皮を彷彿とさせた。もしかしたらあの男にも私のような鱗があったのかもしれない。
どちらにせよ剝がれた鱗などごみに等しかった。
「私はいらない、お前にやる」
短くそう返すと男の返事も聞かずに海へと泳ぎだした。男は何か大声で叫んでいたが、水中に顔を沈めた私にはよく聞き取れなかった。「大事にする」と聞こえたような気もしたが、たかだか鱗を大事にするだなんてそんな馬鹿な話があるわけないので聞き間違いに違いない。
橙色に照らされながら、少し暗くなった海の中をするすると滑るように泳ぐ。剥げた鱗や、鰭に入った傷に痛みはまだある。それでもなぜだろうか、男に触られた場所だけは冷たい水が触れるとどこか心地よかった。
淡い鱗 笹川ドルマゲドン @sasagawa_doll
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