八尾九山のマコト


『アホたれ!』


 それは古い記憶。

 マコトがありのままであった時の記憶だ。


『あだっ!』


 鉄拳制裁を受けた幼いマコトが悲鳴を上げている。

 そうしたのは彼女の祖父。毛並みはすっかり白ずんでいながら、曲がることのない腰が威厳を保っている。


『マ、マコト』


 おろおろと心配そうに見つめているのはマコトの母だ。

 彼女も齢二百年の立派な妖狐であるが、山の大長老たる祖父には逆らえない。ましてやそれが、自分の娘がやらかした後ともなれば。


『マコト。なしてあないなことした?』


『あぁん? あないなことって?』


 ギロリと睨みつける祖父に、幼いマコトは負けじと睨み返す。なにせマコトは間違ったことをしたとは思っていない。


『なして人間にちょっかいかけた?』


『せやかて、あいつら辛気臭いツラしてたもん』


『遭難してたんやから、そらそうやろが。ええか? 人間のことは人間にやらせとけ。妖狐が関わるべきやない』


 祖父は何時も口を酸っぱくして、そう言っていた。

 妖狐が世に蔓延る時代はとうに終わっているのだから、人と関わるべきではないのだと。

その半分はマコトも同意だった。今更かつての大妖狐――玉藻前さながらの傾国なんて野望は持っていないし、むしろそんなことをして何が楽しいのか、てんで分からないくらいだ。


 しかしそんなマコトにも後半部分に関しては頷けない。

 たまにひょっこりと顔を覗かせ、人間を揶揄うことの何が悪いというのか?

 だからマコトは人前に姿を現した。妖狐らしく化けて出てやった。


『ええー? でもじいちゃん、あいつ等わろうてたで?』


『は? わろうてたって、お前何に化けたんや?』


  お馬鹿な人間。世話の焼ける人間。

 山で迷う彼等を麓に帰す為に、マコトは道案内の看板に化けたのだ。

 

 ただし単に化けるだけでは芸がない。

 だからこうしてやった。


【←ヤバい  →山の麓】


『あほか!! や、ヤバいて、何で感想文やねん!?』


『ぶぶっ!』


 ぶっと耐え切れず、マコトの母親は笑っていた。

 怒鳴りつける祖父も、なんならちょっとウケている。口元を必死に隠そうとしていた。


『きゃははっ!! おねぇおねぇ!!』

 

 そして何より――ミコトもだ。物心ついて間もなかった彼女は、母にベッタリとくっついたまま、ケラケラとあどけない笑みを浮かべている。

 そんな光景に満足したマコトは、堂々と胸を張りながら言った。


『どうせ騙すなら楽しい嘘や! そう思わんか?』


 無論――その後は言うまでもない。

『反省せえ、この跳ねっかえりが!!』と、祖父から拳骨を落とされるまでが一セットである。


 そんな日々、そんな山での日常があった。

 その頃には母がいて、祖父がいて、仲間だってそこら中にいた。その頃にはずっと、これから一生続くものだと疑いもしなかった。


「…………あ」


 しかし今はそうではない。

 祖父は死に、母とは生き別れ、仲間とも散り散りになっている。


 手を伸ばした先は緑豊かな山ではなく、電球の紐がプラプラと揺れるアパートの一室。時計は午前六時前を指しており、未だミコトも布団の上で寝息を立てている。

昔と比べれば毛が生えそろって、輪郭もハッキリとしている。されども尾は一本しかなく、妖狐としてはまだまだ幼少期を抜け出していない。

 

 マコトは前足で濡れた目元を拭うと、ミコトの額をペロリと舐める。彼女は「きゅうん」と甘えたような声を上げながら、コロリと転がっては、マコトの足に絡みつく。

 マコトはそれを引き剥がすことなく、二匹でくっついて横になる。とくんとくんと聞こえる鼓動に安堵を覚えつつ、マコトは再び眠りに落ちて行った。

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