断れない男

風馬

第1話

佐藤悠太(さとう ゆうた)、27歳。都内の広告代理店に勤める彼は、同僚や上司から「万能人間」と評されるほど仕事ができる男だった。営業から企画、資料作成、果てはオフィスのコピー機修理まで――何を頼まれても、彼は決して「無理です」とは言わない。


「悠太くん、ちょっとこのプレゼン資料直しておいてくれない?」

朝の8時、上司の藤田からメールが飛び込む。出社前のカフェでスマホを開いた悠太は、溜息ひとつも漏らさず返信を打つ。

「了解しました!夕方までに修正案をお送りします。」


その横で、彼の彼女である美咲(みさき)が笑いながら言った。

「また仕事?悠太くんって、ほんと断れないよね。」

美咲はフリーのイラストレーターとして活躍しており、悠太とは数年前の仕事の打ち合わせで知り合った。明るく美人で、友人たちには「どうやってこんな彼女捕まえたの?」と冷やかされることもしばしばだ。


悠太はコーヒーを一口飲みながら肩をすくめる。

「頼まれたら断れない性分なんだよ。まあ、これが俺の長所ってことで。」


「短所でもあるよね。」

美咲が小さく呟いたその一言には、少しだけ心配の色が混じっていた。

悠太の「便利屋」生活は、その日も忙しく幕を開けた。


午前中、急ぎの資料修正をこなしながら、隣のデスクの田中から声がかかる。

「佐藤くん、悪いんだけど、明日締め切りの提案書をちょっと見てくれない?君のアドバイス、頼りになるんだよ。」


田中の声は妙に甘い。悠太は一瞬迷ったが、次の瞬間には笑顔で返事をしていた。

「もちろん、手伝いますよ。」


昼休み、コンビニに向かう途中で同期の村上に呼び止められる。

「なあ悠太、俺、来週の飲み会の幹事なんだけど、場所選びに困っててさ。手伝ってくれない?」

「いいよ。何人くらい?」

「20人くらいかな!」

悠太の脳裏に「飲み会20人分の店探し」がスケジュールに追加される音が響いた。


午後、上司の藤田からも新たな依頼が舞い込む。

「悠太くん、例のクライアントの会議、代わりに出てくれない?急用が入っちゃってね。」

「分かりました。」


悠太はその日、オフィスを出る頃には頭がフル稼働状態だった。資料修正、提案書チェック、飲み会の店探し、クライアント対応――すべて終わらせなければならない。


その晩、美咲と居酒屋で待ち合わせた悠太は、彼女の顔を見るなり申し訳なさそうに言った。

「ごめん、30分も遅れちゃった。」

「忙しそうだね。最近、ちょっと無理してるんじゃない?」


美咲の柔らかい問いかけに、悠太は曖昧に笑った。

「いや、これくらい大丈夫だよ。仕事も順調だし。」


美咲は少し眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。ただ、悠太の手をそっと握りしめた。

「無理しないでね。私は悠太くんが元気でいてくれるのが一番だから。」


その夜、家に帰った悠太はベッドに倒れ込んだ。目を閉じると、仕事や頼まれごとのスケジュールがぐるぐると頭を回り続ける。


「俺、このままでいいのかな……?」

そんな疑問が心の片隅に浮かび上がり、消えていった。


ある週末、悠太は久しぶりの休みを満喫する予定だった。しかし、その矢先に上司の藤田から連絡が入る。

「悠太くん、急ぎの仕事が入ったんだ。週明けのプレゼン資料をまとめてほしい。悪いけど頼める?」


本当なら断るべきだと心のどこかで思いながらも、悠太は咄嗟にこう答えた。

「……わかりました。やっておきます。」


その週末、悠太は美咲とのデートをキャンセルし、プレゼン資料の作成に没頭した。だが、同時に他の同僚から頼まれたタスクも抱えており、次第に混乱していく。締め切りが迫る中、悠太は時間に追われ、細かい確認を怠ってしまった。


月曜朝、悠太が用意したプレゼン資料を使って、上司の藤田は大手クライアントとの会議に臨む。しかし、会議中、クライアントから怒りの声が上がった。

「このデータ、明らかに間違っていますよ!」


資料の一部に重大な誤りがあったのだ。悠太が確認不足のまま提出してしまったためだ。会議は混乱し、藤田は慌てて謝罪することに。会社に戻った藤田は、厳しい口調で悠太を叱責した。

「君があんなミスをするなんて信じられない!次からは絶対に慎重に確認してくれ!」


悠太は何も言い返せず、ただ頭を下げるしかなかった。


その夜、美咲の家を訪れた悠太は、彼女に今回の失敗を打ち明けた。

「俺、どうしても断れなくて……。全部背負い込んだ結果がこれだよ。」


美咲はじっと悠太の話を聞いていたが、やがて静かに口を開いた。

「悠太くん、優しいところが好きだけど、それだけじゃ限界が来るよ。自分を守るために断ることも必要なんじゃないかな。」


悠太は反論できなかった。彼女の言葉が真実であることを、自分でも薄々感じていたからだ。


翌日、悠太は職場で再び田中から依頼を受けた。

「佐藤くん、また助けてほしい案件があってさ。」


一瞬躊躇したが、悠太は心を決めて言った。

「すみません、今回は手が回らないので他の人にお願いしてもいいですか?」


田中は驚いた表情を見せたが、やがて笑って言った。

「おお、珍しいな。でも分かった、助かるよ。」


小さな一歩だったが、悠太にとっては大きな進歩だった。その日の帰り、美咲に報告すると、彼女は嬉しそうに笑った。

「やったじゃん、悠太くん!」


彼女の笑顔を見て、悠太はようやく少しだけ肩の荷が軽くなった気がした。


悠太が「断る」ことを覚え始めたある日、上司の藤田から一風変わった依頼が舞い込んだ。

「悠太くん、このプロジェクト、リーダーをやってみないか?」


プロジェクトの内容は、重要クライアント向けの新商品の広告企画。藤田は悠太の実力を評価しており、リーダーとしての適性を試したいと考えていた。だが、悠太にとってそれは大きな挑戦だった。


「リーダーですか……?」

悠太は戸惑いを隠せなかった。断るべきか、それとも引き受けるべきか。悩む悠太の脳裏に、美咲の言葉がよぎる。


「自分を守るために断るのも大事だけど、挑戦しないのはもっともったいないよ。」


数分の沈黙の後、悠太は深呼吸をして藤田に答えた。

「ぜひ、挑戦させてください。」


リーダーになった悠太は、自分一人で抱え込むのではなく、チーム全体で仕事を進めることを意識した。初めてのリーダー業務に苦労しながらも、メンバーに役割を振り分けたり、進捗を確認したりする中で、「一人で頑張る」ことと「皆で進める」ことの違いに気づいていく。


しかし、そんな中でも小さなトラブルが絶えなかった。ある日、企画書の締め切り直前にミスが見つかる。メンバーの一人が悠太に助けを求めてきた。

「佐藤さん、どうしても時間が足りません。この部分、代わりに仕上げてもらえますか?」


かつての悠太なら、即座に「分かった」と答えていただろう。しかしこの時、悠太はあえてこう言った。

「君がやるべき部分だから、一緒に考えながら進めよう。手伝うけど、最終的には君の責任で仕上げてほしい。」


その言葉にメンバーは驚いた様子だったが、頷いて作業に戻った。


数週間後、クライアントに企画案をプレゼンする日が訪れた。悠太はチーム全員で仕上げた資料を手に、緊張しながらも堂々とプレゼンを行った。その結果、企画は高く評価され、プロジェクトは成功を収める。


プレゼン終了後、藤田が悠太に言った。

「よくやったな、悠太くん。この調子でどんどん成長してくれ。」


悠太は笑顔で答えた。

「ありがとうございます。でも、今回は本当にチームのみんなに助けられました。」


その夜、美咲との食事の席で悠太はプロジェクトの成功を報告した。

「やっぱり、一人で頑張るのとみんなでやるのは全然違うね。」


美咲は優しく微笑んだ。

「でしょ?悠太くん、これからもっといい男になりそうだね。」


悠太は苦笑しながら答えた。

「まだまだだけどな。でも、美咲のおかげで少しずつ変われてる気がするよ。」


二人は将来の話をしながら、笑顔で夜を過ごした。


プロジェクト成功後、悠太は社内で一目置かれる存在となった。しかし、そのことでさらに多くの依頼が彼に舞い込むようになる。藤田からは別のプロジェクトを任され、田中や村上からも以前より頻繁に頼み事をされるようになった。


ある日、悠太は明らかに無理なスケジュールに追い詰められ、再び心身の限界を感じ始めていた。そんな中、藤田から緊急の呼び出しを受ける。

「悠太くん、悪いけど、今回の大規模プロジェクトも君に任せたい。クライアントは大手で、ここを成功させれば会社の名声も上がる。どうだろう?」


悠太はその場で即答せず、一度持ち帰ることにした。


帰宅後、悠太は美咲にその話を打ち明けた。

「こんな大きな仕事、断るのはさすがに無責任だと思う。でも、今の俺には抱えきれない気がするんだ。」


美咲は真剣な表情で彼に向き合った。

「悠太くん、それは断る勇気が試されてるんじゃないかな。引き受けることだけが責任じゃないよ。自分が無理をして全部壊れちゃったら、誰も幸せになれない。」


その言葉に、悠太はハッとさせられた。


翌日、藤田に呼び出された悠太は意を決して言った。

「申し訳ありませんが、今回のプロジェクトは引き受けられません。」


藤田は驚いた表情を見せたが、悠太の真剣な顔つきを見て頷いた。

「そうか。正直、少し残念だけど、君がそう言うなら仕方ないな。」


その後、藤田は別のリーダーをプロジェクトに起用することを決定した。


悠太が無理な依頼を断るようになると、周囲の態度も少しずつ変わっていった。同僚たちは彼が何でも引き受ける便利屋ではなく、「頼れるが適切に線を引ける同僚」として接するようになった。


村上が冗談めかして言った。

「悠太、お前最近断るのうまくなったな。でも、昔よりさらに頼もしく見えるよ。」


悠太は苦笑しながら答えた。

「それ、褒めてるのか?」


ある日、悠太の元に以前断ったプロジェクトの報告が入った。それは他のメンバーによって無事に成功を収めたという知らせだった。


その夜、美咲と祝杯を挙げながら、悠太はしみじみと語った。

「自分にできることと、できないことをちゃんと分けるのって大事だな。でも、その中で挑戦する気持ちも忘れたくない。」


美咲は微笑みながらグラスを掲げた。

「じゃあ、次はさらにかっこいい悠太くんを見せてよ。」


二人はグラスを合わせ、静かに笑い合った。



後日、悠太は新たなプロジェクトに参加しつつも、自分のペースを守りながら仕事を進めていた。会社での評価も向上し、プライベートでも美咲との関係は順調だった。


「断ることで、もっと自由になれた気がする。」


悠太はそう呟きながら、次のステップを踏み出していく。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

断れない男 風馬 @pervect0731

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画