新年 笑門来福
七倉イルカ
第1話 慶春
元日の朝、泰造は漁港に出かけた。
泰造は漁師である。19歳から船に乗り、今年で30年目になる。
正月三が日まで漁は休みとなるが、船を見ないと言うのは落ち着かず、風の寒い中、こうやって港に来たのだ。
港の岸壁に係留された何艘もの漁船、その中に泰造の所有する『招福丸』がある。
泰造は『招福丸』の前に立った。
小型漁船である。
泰造は、この漁船を一人で操り、沿岸で刺し網漁をしている。
刺し網漁とは、魚の通り道を狙い、数百メートルに渡って網を仕掛ける漁法である。
しかし、ここ数年、水揚げは悪かった。
温暖化で水温が上がり、魚の回遊コースが変わってしまったためである。
しかも、ガソリン代の高騰で、漁に出ても油代だけ赤字となる日も多かった。
「お前とあと何回、漁に出ることができるか……」
『招福丸』に小さく語り掛けた泰造は、ギョッとして口を閉じた。
誰かが、『招福丸』の前甲板に立っていたのである。
さっきまでは、誰もいなかったはずであった。
「あんた、そこで何をしてるんだ?」
泰造が声を掛けると、その人物がこちらに顔を向けた。
にこやかな顔をした、恰幅の良い男である。
年のころは、五十代から六十代であろうか、唇の両端から左右に垂れるような口髭、顎先からは逆三角形に整えられた顎髭を生やしている。その髭が、とろけるような笑みに、なんとも似合っていた。
男は、あまり見ることのない衣装を身に着けていた。
狩衣と言い、平安時代から戦国時代にかけて、公家が普段着として使用していた衣装である。さらに頭には、上部を左に折った烏帽子を乗せていた。
何者なのか?
そう思った時、男は泰造に声を掛けた。
「あけましておめでとうございます。
航海安全、大漁満足、商売繁盛。今年は良い年になりましょう」
声がすーーっと耳から胸に入り込み、心が温かくなった。
「あ、ありがとうございます」
泰造は思わず頭を下げていた。
そして、頭を上げると、甲板から男が消えていた。
わずか一瞬の出来事である。
驚いて周囲を見回すと、岸壁の先を歩く男の背が見えた。
さっきは気づかなかったが、肩に竹製の釣竿を担いでいる。
「あ、あの……」
泰造は男を追った。
しかし、追いつかない。
ふわふわとした足取りだが、息を吹きかけた羽毛のように、泰造が追えば、先へ先へと流れるように去っていく。
泰造は足を止めた。
男の背が遠ざかっていく。
泰造はその背に向かって手を合わせた。
良い年でありますように……。
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