清らかなるお嬢様と世話係の話

紫陽花 雨希

第1話 かわいそうな二人

 頭からくるぶしまでをすっぽり覆う銀のベールの向こうに、彼女はいる。光を浴びて静かに輝くベールの裂け目から、白い手袋に包まれた右手をこの汚れた外界に差し伸べる。その瞬間、毒で灰色に濁った空気にさあっと白い光が差して、あらゆる病が癒される。泣きじゃくっていた子どもは笑顔になり、地に臥していた老人は立ち上がり、しおれていた花は瑞々しさを取り戻す。人々が歓喜に満ちた声で彼女の名を呼ぶとき、既に手はベールの中へと引っ込められている。僕はベールに縫い付けられている二本の取っ手をそっと掴み、彼女を二トントラックの荷台へと誘導する。振り返ることはない。彼女をこれ以上、毒にさらすわけにはゆかないから。

 荷台の扉を閉め、運転席に乗り込もうとした僕のスーツの裾を、幼い少年がついついと引っ張った。僕は少し身をかがめ、少年と目線の高さを合わせて微笑んだ。

「お姉さんは、女神様とおしゃべりができるんだよね?」

「そうですよ。何か伝えたいことがあるんですか?」

「ありがとう、って。それから――」

 少年が困ったような顔をする。僕は涙を慌ててぬぐい、少年の頭をそっとなでてから運転席に上った。


「あーっ、今日も疲れたぁ。あのベール、けっこう重いんだよね。ねえ、冬木さん、お茶にしよっ」

 部屋着である白いシャツワンピース一枚というラフな格好をしたイノリさんは、ソファからごろりと立ち上がると台所へと向かった。棚の上から箱を下ろして、スティックコーヒーを物色し始める。

「私はほうじ茶ラテにする! 冬木さんは?」

「僕はチョコモカでお願いします」

「それ、ホントに好きだよね。たまには他のも飲めば良いのに」

「いえ、それが良いんです」

「ふーん」

 イノリさんは何故か不服そうな顔しながらも、コーヒーカップに粉を入れる。僕はティファールの湯沸かし器のスイッチを入れた。

「ねえねえ、冬木さん、家に帰る途中にDVDレンタルショップがあるんでしょ? 借りてきて欲しいドラマがあるんだけど」

「サブスクでは見れないんですか?」

「見れないの。『Lの世界』ってやつ。海外ドラマなんだけど」

「分かりました。探して来ます」

 湯沸かし器のスイッチがぱちんと跳ね上がった。僕が湯をカップに注ぐのを、イノリさんは顔をしかめてじっと見ていた。

「なんかさぁ、【清らかなる者】である私より、冬木さんの方が清らかで純粋に見えるんだけど」

「そんなことないですよ。僕だって、成人向けのビデオは見ます。イノリさんはもう十九歳なので、R-18のドラマを見ても問題ないと判断しました」

「ちぇ、知ってたんかい。レンタルショップで慌てさせてやろうと思ってたのに」

 ぷうっと頬を膨らませる彼女の子どもっぽい仕草を見ていると、思わずため息が漏れた。

 僕はこの、十歳も年下の女に振り回されてばかりいる。

「一つ言っておくと、そのドラマ、男女間の性的なシーンがしょっちゅう出てきますよ。イノリさんが見たいのは、女と女の……」

 いきなり、クッションが飛んできた。僕はそれを顔面で受け止める。カップに当たっていたら大惨事だっただろうが、ならなかったので小言は言わないことにする。

「視聴済みかい! ってか、私は別にそんなんじゃない!」

 イノリさんは顔を真っ赤にして、涙目になっている。僕は別に彼女を傷つけたかったわけではない。ただ、自分自身が男女間のシーンに辟易して視聴を途中でやめたから、親切心で言っただけだ。

「もう知らないっ! 冬木さんはいっつも意地悪だし、失礼だしごにょごにょ」

 ソファの上で膝を抱えて何やら独り言を言っているイノリさんに、

「お茶、呑まないんですか?」

と声をかける。

「飲まないっ!」

 僕はため息をついた。カップをそれぞれ両手に持って、彼女の隣に座る。そして、自分の分をすすった。優しい甘みが、口の中に広がる。

「……ぎゅーってしてくれたら許す」

「ん?」

「抱きしめて、ごめんねって言ってくれたら許すって言ってんの」

 僕はもう一口コーヒーをすすり、しばらく葛藤してから意を決した。カップをテーブルに置き、彼女の体にゆっくりと両腕を回す。そして、彼女の熱い頭を胸に抱き止めた。髪の毛のさらりとした感触が心地よい。

「ごめんね、イノリ」

「……うん」

 彼女はほっとしたように、僕に体重を預けた。


 重い鉄の扉を閉め、全身に力を込めて鍵を閉める。肩で息をする僕に、管理用コンピューターの操作をしていた片桐先生が

「ご苦労様。体調は大丈夫か?」

と感情のこもらない声で声をかけた。彼の見ている画面には、イノリさんがソファに寝転がってだらだらアニメを見ている様子を俯瞰した映像が映っている。

「あの子のために、そこまで身を張らなくて良いんだぞ。抱き合うなんて、業務の範疇を超えている。自分のことを大事にしろ」

「僕にとっては、【浄化】の影響を受けることより、彼女を悲しませることの方が苦痛ですから」

「お前はつくづく、【巫女】に向いてないな」

 僕はネクタイを緩め、うす暗い管理室から踏み出す。【清潔室】には窓がない。だから、この満天の星をイノリさんが見ることはない。

「かわいそう、か」

 さっきの少年の言葉を思い出す。

 清らかなる者として外界では生きてゆけないイノリさんも、浄化の力を持つ彼女に近づきすぎて精神が壊れ始めている僕も、もしかしたらかわいそうな人間なのかもしれない。

 けれど、彼女には僕しかいないのだという気持ちは、何事にも代えがたい幸福なのだ。

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