3章未來の知識、江戸に降臨!
ひもパンを作ったことで、マナは長屋の女たちから「未来って村からきた子」として一目置かれるようになっていた。その話はすぐに男たちの間にも広まり、辰三郎は彼女が火の見櫓から子供を助けたことを思い出す。
「おマナ坊?火消しに向いてるんじゃねぇか?」
辰三郎にそう言われたマナは、さっそく火消しの訓練に参加することになった。火消しと言えば「梯子乗り」や高所での活動が有名だが、梯子が使えない場所での訓練用に縄を使って登る練習も行われていた。
若い衆たちは、柱に麻縄を結びつけて登る練習に悪戦苦闘している。麻縄は丈夫だが硬く、滑りやすいのが難点だった。組ごとに煮たり湯にくぐらせたりして工夫していたが、みんな、その結び直しの手間に四苦八苦していた。
訓練の様子をじっと見ていたマナは、その滑りやすさと結び目の煩雑さに目を留めた。
(これ、結び直すのに時間がかかるのが問題よね……。未来ならカラビナがあるけど、ここじゃどうすればいいかな?)
ふと、近くに置かれた鉄の輪っかに目が行く。それは道具を束ねるためのシンプルな輪だったが、マナの頭にカラビナの構造がよぎった。
「これ、カラビナみたいに使えそう……!」
マナは輪っかを手に取り、辰三郎に声をかけた。
「辰三郎さん、この輪っかをちょっと加工できませんか?こうすれば、縄の付け外しが簡単になります。」
地面に図を描きながらカラビナの仕組みを説明すると、辰三郎は興味津々で頷いた。「なるほどな!おもしれえ。鍛冶屋に頼んでみるか。」
辰三郎が鍛冶屋に頼むと言ってから数日後、マナと辰三郎は鍛冶屋を訪れた。親方は図を眺めながら感心したように唸った。
「面白い仕組みだが、肝心なのはバネだな。」
「細い鉄を巻けばバネになりませんか?」マナの提案に、親方は目を輝かせた。「ほう、そりゃ面白ぇ。早速試してみようじゃねえか。」
手際よく鉄を熱して細い棒に巻きつけ、簡易なバネが作られた。輪っかに取り付けられると、片側が開閉する仕掛けが完成した。
「これでどうだ?」
親方が手渡した試作品をじっくり観察し、マナは滑らかな動きに感嘆した。
「これなら縄を簡単に掛け外しできますね!」
辰三郎も笑顔で頷く。「早速、訓練で試してみよう。」
若い衆たちの前で、マナは完成した輪っかを使い、スルスルと柱を登ってみせた。その動きに目を丸くする若い衆たち。
「なんだそりゃ!結び直さなくても固定できるのか!」
「これなら火事場でもすぐ使えるな!」
さらしを混ぜた改良縄を合わせて使えばさらに扱いやすくなると議論が進み、新しい道具が完成した。辰三郎は満足そうに頷く。
「おマナ坊、こいつはいい。火事場で命を救う道具になるな。」
マナは少し胸を張って答えた。「みんなが一緒に考えてくれたおかげですよ。これで少しは役に立てるかな。」
その夜、辰三郎と火鉢の前で話すマナ。
「辰三郎さん、以前いた未來からきた人って急にいなくなったんですか?」
「ああ、そうだよ。ずっと帰りたい、帰りたいって帰る方法を探してたけど、急にいなくなっちまった。」
「そうなんですね……。」
マナはため息をつき、少しうつむく。そのとき、廊下からおちよが駆け込んできた。
「おマナさん、ちょっと聞いておくれよ!隣の大和屋さんの若旦那、二十歳過ぎたばかりの若い人なんだけど、最近、足が腫れ上がっちまって、歩くのもやっとらしいのよ。それに熱があるって話でさ。」
「足がむくんで歩けない…?」
マナは指を動かしながら考えている。
「医者を呼んでも一向に良くならないんだって。それで、なんとかならないかって思ってね。ほら。あの未来の人がこの手の話は得意だったから、おマナさんも何か知ってるんじゃないかって。」
(ちょっと待って!その人、医者なんでしょ?天才なんでしょ?私、医学部っていっても学生だし…勝手に期待されても困るんだけど!)
マナは心の中で叫びながらも、しかたなく思い当たる病名を頭の中で探り始めた。
(えっ、これって脚気じゃない?もしかして、私…命の恩人フラグ立っちゃった?いやいや、医者じゃないし、責任重いって!)
すると辰三郎が横から口を挟んできた。
「おマナ、どうだい?おめえさん助けられるか?」
「うーん…たぶん。」
どうしよう、脚気じゃなかったら、どうしよう。何か手に負えない病気だったら。わかりませんで納得してもらえるだろうか。しかし、悩みを引きづることなく、天才的な楽天家は「とりあえず、その大和屋さんに行ってみましょうか!」と答えた。
マナはおちよの案内で大和屋に向かうことになった。着物姿の自分を見下ろしながら、少しぎこちない足取りで歩いていると、おちよがふと声をかけた。
「おマナさん、本当に病を治せるんだね?」
マナは苦笑いを浮かべた。「....」
「でも、足がむくんだって聞いて、すぐに病の名前が浮かぶなんてすごいじゃないか。」辰三郎が感心したように言った。
(いやいや、これが外れたらどうするのよ…)
マナは心の中で冷や汗をかきながら、土ほこりが舞う大通りを進み、えんじ色に白文字で「大和屋」と記された暖簾をくぐった。
大和屋は、日本橋の商人街に店を構える砂糖問屋で、落ち着いた佇まいがその格式の高さを物語っている。店先には黒塗りの木製看板が掲げられ、いかにも威張った筆文字で「大和屋」とだけ記されている。
店内には、砂糖を収めた大きな木樽がいくつも並び、頑丈な木のフタがしっかりとかぶせられている。その中には、薩摩や長崎から運ばれてきた黒砂糖の塊や、讃岐の和三盆が詰められており、いずれも庶民には手が届かない貴重品だった。
広々とした土間は、テニスコート半面ほどの広さがあり、奥には帳場が設けられている。番頭が帳簿を広げながら商談を取り仕切り、手代たちが忙しく立ち回っている。買い物に訪れるのは上客ばかりで、豪商や高級菓子を扱う職人たちが商品を見定めていた。
大和屋の奥から、顔色の悪い若旦那が女中の助けを借りて現れた。この若旦那は福太郎といい、マナより少し年上に見える。めが細く、青白いやせた背の低い男性だった。
身につけているものは上店の若旦那らしく、紺色の絣模様が入った木綿の着物に、肩には落ち着いた藍色の羽織を軽く羽織っている。しかし、両足はむくみで腫れ上がり、素足にはさらしを巻き、冷やすためのシップが施されていた。
「おマナさん、どうかこの足を…医者にも頼んだが、効果がなくて…」
若旦那は申し訳なさそうに頼み込む。
「ちょっと失礼。」
マナは膝をつき、腫れ上がった足をじっと観察した。赤みを帯び、むくみで皮膚が張り詰めている。そっと手で触れると、さらし越しに異常な熱が伝わってきた。
(教科書で見たあれ……やっぱり脚気かもしれない。)
「ええっと…これはおそらく、栄養の偏りが原因かもしれません。白米ばっかり食べていませんか?」
若旦那は目を見開き、驚いたようにつぶやいた。
「白米が…ですか?」
すかさず横にいた女中が口を挟む。
「若旦那は白米が大好物で漬物と梅干で茶碗一杯を召し上がります。甘いものもお好きです。」
(やっぱり…。白米の偏りと砂糖の過剰摂取。それが原因ね。)
マナは心の中で頷きながら続けた。
「むくみ以外に、他に症状はありませんか?指先や足先のしびれとか、心臓がドキドキするとか。」
若旦那は少し頭をひねっていたが、何かを思いついたようだった。
「むくみと足先が少ししびれる感じはあります、それ以外は特に…。」
(ラッキー!これって脚気の初期症状じゃない?だったら食事療法でなんとかなるかも!)
マナはひとまずホッとしつつも、周囲の人々の視線に少しプレッシャーを感じながらも「フム・フム」と一人納得していた。
「これはですね……ちょっと原因が分かったかもしれません!」と、マナが少し高めのテンションで言うと、若旦那は若い小娘が原因がわかるはずもないというな顔で
「原因?本当に分かるのか?医者ですら匙を投げたのに。」若旦那は、「詐欺師には引っ掛かりません」というような顔をしている。
しかし、その顔をみてもマナはひるむことなく、自信をもって言い切った。
「白米に半分、麦飯や雑穀を混ぜばいいんですよ。そして、魚やみそ、大豆も今までよりもっと食べる。いいじゃないですか。毒を飲むわけでもないし、食事を少し変えるだけで治るなら、試す価値ありますよね?」
若旦那と女中はマナの迫力に思わずうなずき、「では、試してみるとしましょうか。病が治るならば。」そう答えた。マナはホッと胸を撫で下ろしつつ、手を軽く叩いた。
「やった!絶対大丈夫ですよ!私、適当には言わないですから!」
(あれ……私、適当だけど、解決!解決っと)
心の中で突っ込みながらも、マナは名医になったかのような表情を浮かべた。
大和屋から通りに出かけたとき、「ドン!」という音が響く。驚いて振り向いたマナの目に飛び込んできたのは、樽が転がり落ちる光景だった。
「す、すみません!荷車が滑りまして……!」
番頭が額に汗を浮かべながら、倒れた荷車を直そうと必死になっている。
樽がゴロゴロと転がり、マナの足元でピタリと止まる。彼女は思わず息を呑んだ。
「ふぅ……よかった、これ以上来なくて……。」
「お店の砂糖樽が割れたら、大変な損失になってしまいますので……!」
番頭が青ざめた顔で頭を下げると、マナは東京でのあの事故を思い出した。
「江戸も、本当に油断ならない!まさか時空を超えてまで事故なんて!しゃれになりません!」
マナ達3人が歩いていると、通りの向こうから威勢の良い掛け声が聞こえてきた。通りには大勢の人が集まり、どこか浮き足立ったような空気が漂っている。
「おーい、親分!そっち手伝ってくれよ!」
祭りの準備をしている若い衆が声を上げる。見ると、通りの真ん中で神輿が組み立てられている最中だった。重厚な木製の台座には、波や龍の模様が彫られ、木肌が磨かれて艶を放っている。金箔こそ使われていないが、黒漆と朱漆が光を受けて美しく輝いている。
「あいよ!」辰三郎はそういうと声がかかったほうへ急ぎ手伝う。「おちよさん。あれは何?」マナが言うと、おちよは少女のように目を輝かせて答えた。
「あれはね、三社権現のお祭りの準備さ。うちの若い衆も町の人たちもみんなで担ぐんだよ!」
「三社権現、浅草寺さんのお祭りさね。神輿をみんなで担いで町を練り歩くんだ。」辰三郎が説明を補足する。
「私、アメリカに住んでいたので、日本の伝統的な祭りはあまり知らないんですよ。でも去年、家族とねぶた祭に行きました。」
マナが遠い何かを思い出すように言うと、辰三郎は首をかしげた。「ねぶた?そりゃ知らねぇが、江戸っ子は火事と喧嘩と祭りが江戸の花よ!祭りは大好きでい!」
通りには屋台がいくつか姿を現し始めていた。焼き団子の香ばしい匂いや、煮貝を煮る湯気が漂い、町の子どもたちが竹細工のおもちゃを手に走り回る姿が見える。まだ準備中の屋台主たちは、木箱を運んだり、商品を並べたりと忙しそうにしていた。
ふと、マナの目に小さな屋台が映った。その店では、手彫りのみみずくが並んでいる。細やかな彫刻で羽の模様が掘られたみみずくは、小さなものから手のひら大のものまで揃っており、削り立ての木の香りが漂っている。マナは驚いたようにその店を指差しながら、「これ、すごく可愛いですね……でも、ふくろうって江戸にもいたんだ?」と、つぶやいた。
店主が笑いながら答える。「このみみずくは、商売繁盛の縁起物さ。家に飾ればお金が貯まるって評判なんだよ。どうだい、お嬢さんも一つ?」
「商売繁盛……か。面白いですね。」マナはみみずくを手に取り、思わず微笑んだ。
マナは祭りの屋台を見ながら、去年家族で旅行した青森県のねぶた祭を思い出していた。
あの夜、漆黒の空に巨大な灯篭が浮かび上がり、色鮮やかな武者絵や美人画が光の中で生きているように見えた。観客席に座る母が、「きれいねぇ」と微笑みながらカメラを構えていた光景が蘇る。弟たちは法被を着ての真似をしながら大声で笑い合っていた。その姿がおかしくて、母とマナもつられて笑い出した。
「ラッセラー!ラッセラー!」
跳人たちの掛け声に乗せて、大太鼓が「ドン、ドン」と響き、体の芯まで揺さぶるような音が観客を包み込んだ。
ねぶたの熱気と喧騒。それに比べて、今ここにあるのは、ねぶたの眩い光とは正反対の、江戸の薄紅色の空と素朴な祭りだ。マナは目の前の三社祭りの準備を見つめながら、ぼんやりと感じた。
「母さんがいたら、なんて言うかな……。」
心の中に寂しさと喪失感が湧き上がる。江戸に来て以来、張りつめていた気持ちが途切れ、素直な感情があふれてきた。
母の優しい笑顔、父の頼もしさ、弟たちとの他愛もないやり取り。
そしてお葬式でみた光景。彼らは私の死を受け入れているのだろうか。
まだ私を思い悲しんでいるだろうか。
もし戻れたとして、私の肉体はあるのだろうか?
死ぬ前に戻れたら?私は事故に遭わないのだろうか?
『もしも』と『どうして』が頭の中で竜巻のように旋回する。
戻れないなら、私はこの時代にいるしかない。それで?どうなるのか?
すべては複雑で難解でマナには推測することができない。
マナは考えるのをやめた。
ただ、刹那に流されるのではなく、意識して流されてみるしかないと思った。
今の自分にはそれしかできないと。目の前には、未来へと続く、とき色の薄紅色の空と祭りの準備で活気づく江戸の町が広がっていた。
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